第4話 植物の名前でもあるアリアーネの意味は〝最も尊く神聖な〟であるそうです
僕が5歳になる間際。
両親がともに演奏会に出演することになったので、家族揃ってイタリア北部に行った。
姉が生まれた後に海外の公演で両親が共演するのは、それが初めてだった筈だ。それまでは、僕たち姉弟が幼いうちは共演するなら国内のみと、限っていたと記憶している。僕たちのためにも、たぶん二人にとっても互いに離れたくなかった時期だったのだろう彼らは、海外の仕事は重ならないよう交互に入れていて、家族全員で渡航し、それぞれの演奏会では僕たち子どもの世話を出演しないほうがしていた。
でも、そのときの公演はカヴァルリ家のたっての願いということで、
ケルビーノとセラフィーナに初めて会ったのは、その渡伊のときのことだ。
両親の演奏会は、オーボエとチェンバロの二重奏、曲によってはヴィオラ・ダ・ガンバも含めた三重奏という編成の曲目だったそうだけれど、せっかくイタリアに来れたならとジャーコモ小父さまが仰って、いくつかの音楽祭に参加したり、財団の関わっている楽団の演奏会に客演したりと、結局、季節が変わるくらいの期間は滞在した。その間、父と興甫さんとしか日本語で話さなかったから、姉も僕も日本語の会話が下手になってしまった。おまけに、父は途中で別の国に何日か行ってしまい、それで余計に日本語の会話が減ったのだ。母と玲子さんは基本的にイタリア語しか使わなかったから。日本人だけになれば、日本語で話してくれたけれど。
ケルビーノとセラフィーナは、両親が親しくしている演奏家夫妻の子どもたちで、年齢が近い。ケルビーノは姉と同い年。セラフィーナはケルビーノと年子なので、姉と僕のそれぞれ1歳違い。すぐに仲良くなった。
僕たちは小さかったから、最初は名前なんて特に気にしなかった。
正確な名で呼ばなくても、遊ぶのに困らなかったから。
ただ、親たちがやってきて、日本にいるときと同じようにレッスンを始めたとき。名前を覚えて、呼ぶ必要が出てきた。
僕はマンマからピアノを。
姉はケルビーノとセラフィーナとともに、2人の両親からヴァイオリンを教わる。
その日は、合奏をしていた。
レッスンのときにゴンザーガ夫妻が「アヤネ」、「ミツル」と僕たちを呼ぶから。具体的に指導することがあるとき、相手が自分に向かっての言葉だと理解するよう名前を呼ぶのだと、子どもたち全員が認識した。
姉も僕もイタリア語の単語に慣れていたから、この兄妹を「ルビーノ」、「フィーナ」と愛称で呼ぶのに何も差し障りはない。けれど、セラフィーナは日本語の単語の響きに戸惑った。
「
「アライネ?」
「綺音」
「アリャイネ」
「あ・や・ね」
「アリャーネ」
「綺音!」
むむむむむ!
と、暫く力んでいたセラフィーナが姉を指差して言ったのは。
「わたしは、アリアーネって呼ぶ! それでいい⁉︎」
だった。
一瞬、きょとんとした姉だったが、数秒後、頬を薔薇色に染めて大きく頷いたのだった。
「うん! わたし、アリアーネね!」
なんか喜んでるけど……。
それからセラフィーナは僕を指差した。
頷いて、
「
そう名乗ると。
「じゃあ、ミケーレって呼ぶわね!」
えっ、〝ミ〟しか合ってないけど???
大人たちが微笑ましげに見守るのを見て、僕は無駄な抵抗をやめ、受け容れることにした。
「じゃあ、僕も2人のことをアリアーネとミケーレって呼ぶよ」
しれっとケルビーノからも言われて、そうかと思ってしまった。
それ以来、ずっと、僕は
10年ほど経つが、未だに。
姉だけ、天使ではない。でも、どうやら女神の名が語源らしい。その意味は、〝真に貴き女〟とか、〝とりわけて潔らかに聖い娘〟とか、〝最も神聖なる〟なのだそうだ。ちょっと釈然としない。でも、メンバーがメンバーだけに、実は最強なのかもしれない。天使より女神が強い気がするから。そう言ってみたら。
「あら、アリアーネというのは、アンスリウムの登録品種名でもあるわよ」
博識なゴンザーガ夫人が、軽い口調で、そう言った。
「アンスリウム?」
「観葉植物ね。ハート型の葉と
ささっとタブレットを操作して見せてくれた写真。
熱帯地域の湿度の高さを好みそうな植物だと思った。
ハート型なのは可愛らしいけれど、質感がビニールっぽくて、造花かと思うような光沢がある。肉厚なハートの上部、窪んだ中央から にょきっと生えているのは
「あー、天狗になりやすいとこが似てるといえば似てるかも?」
思わず呟くと、ゴンザーガ夫人は笑い出した。驚いたことに〝天狗〟を知っているらしい。僕の発言の意味するところも理解していた。
「ちょっとくらい自信過剰な方が演奏家には向いているわ。ユイカみたいに自己評価が低くても実力が高くて音楽に溺れている人間なら兎も角ね」
なんと失礼なと、むっとしていた姉が、表情を和らげる。
「マンマの自己ヒョーカが低いのって昔から? マルゴおばさま」
「初めて会ったときから、そうだわね。あの頃は自分の存在そのものへの肯定感が低かったように思うわ。シューイチと相愛になってから、少しずつ、自信を強めていけたんじゃないかしら?」
「それはそうかもしれないわ」
「あー、悔しいけど、そーだねぇー」
「リッポ。クッキーが割れちゃうから箱を握り締めるの止めてよ」
「僕から見ればマルガリータの影響も大きいと思うけど」
「私もそう思うよ、シューイチ」
「ええ、そうね。自分でも、それは強く感じているわ」
「まあ、そう? なんだか気恥ずかしいわね。あの頃は遠慮がなかったものだから」
「今もでしょ」
「お
むにゅっと頬を引っ張ったゴンザーガ夫人の眇められた目の奥から鋭い光が発せられている。
「いたいぃー、ごめんごめんごめん御免なさいぃ」
涙目になって謝る姿も、見馴れてきた。
実の姉弟のような遣り取りが面白い。
家族以外の人間がこんなに集まって居間で茶話会をするのは、久しぶりだ。そもそも家族全員が揃う日が続くのも、それほど当たり前ではない。特に父は演奏活動で頻繁に家を空けるから。
「いたい?」
「リッポ、だいじょうぶ?」
双子が寄っていくと、彼は両腕を広げて二人を一緒に抱きしめた。
「うん、痛かった。でも、シオンとカノンが優しくて嬉しいから、もう平気だよ」
とろとろに溶けた笑顔が眩い。
昔は、僕も、よく彼に捕まっていたなと思い出す。
まあ、僕はマンマに酷似した容姿をしているから無理もない。
双子はそれほどでもないけど、多分、雰囲気がマンマ似だからだろう。
……いつまで相手にしてくれるか分からないけど……。
そう思いつつ、余計なことは言わずに、ミルク出しした、イタリアの古代種の大麦を焙煎した麦茶であるオルヅォを口に含んだ。ゴンザーガ夫妻のお持たせである。色も香りも珈琲に近いが、苦味や酸味がほぼ無いので飲みやすい。紅茶派の僕たちも美味しく飲める。
賑やかな居間の空気を味わいながら、僕は親しい人々の楽しげな賑わいに囲まれて、幸福で満ち足りていた。
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