第92話 凍った時間を溶かす時
「話って、何?」
夏休みを直前に控えたある日。
私、内空閑黒羽は姉の内空閑美白に呼ばれた。
美白の自室にて、私はソファーに座る。
「まあまあ、そんなに焦らずに。今、お茶を淹れますね?」
「長い話?」
「いえいえ、そうではありません。すぐに済む話ですが、リラックスしていただきたいと思いまして」
リラックスさせるということは、長くはないが重い話ということだろう。
なんだか気が進まないが、一応美白に彼方を助けてもらった恩もあるため、あまり無下には出来ない。
「分かった、飲む」
「あらあら、ふふっ。ちょっとお待ちくださいね?」
私の返答が嬉しかったのか、美白は嬉しそうな顔をして紅茶を淹れる。
二人分のティーカップを持ち、私に対面する形で座った。
私は淹れてくれた紅茶を飲みつつ、美白の言葉を待つ。
「黒羽、あなたに聞きたいことがあります」
「何?」
彼女の声が、いつになく真剣だ。
なんだか空気も重苦しく感じるようになった。
それほど重要な話なのかと息を飲んで待つと、美白は私に言った。
「以前、私があなたに言ったことを覚えていますか?」
「···美白が言ったこと?」
「はい。実の母親のことです」
それを聞いて、私は思い出していた。
確かに以前、美白は私に言った。
『花咲彼方君を無事に救出した暁には、私と共に彼女に会いに行きませんか?』と。
私たちを捨てていった実の母親、火村朱葉は傷が深かいせいで未だに入院していると聞いた。
確かにあの時、私は思った。
全てに決着が付いてから、会ってもいいかなと。
けど、今さらだけどどんな顔をして会えばいいのか分からない。
何を言うべきなのかすら、頭に浮かばない。
こんな中途半端で会ってもいいのだろうかと不安になる。
「あなたが母親に対して何を思っているのかは分かりません。ですが、一度だけ会ってみるのもいいのではないでしょうか?」
「·········」
「かける言葉なんて何でもいいんです。罵倒や暴言、恨み言や怪我への気遣い。あなたが言いたいことを言えばいい」
「私の、言いたいこと···」
「花咲彼方君は、自分の意思で家族と決別し、また自分の意思で妹さんと和解しました。ですので、あなたも前に踏み出すべきでは?」
前に踏み出す。確かに、私はあの時誓った。
だから、美白に言われるまでもなかった。
「分かった···でも、一つだけ条件がある」
「あらあら、何でしょう?」
「彼方も連れて行く。いい?」
「ふふっ、それは私が決めることではないですよ。彼の返答次第です」
「分かった、じゃあ電話する」
そして私は彼にお願いをした。
実の母親に会うため、彼方も同行してほしいと。
彼は二つ返事で了承してくれた。
私は、彼が居てくれたら勇気が持てる。
彼が居てくれたら何も怖くない。
「で、この病室に黒羽先輩と美白先輩のお母さんが居るんですね?」
「ええ、そうです」
私は彼方と美白を引き連れて、母親が居る病院へ足を運んでいた。
この扉の向こうに、私たちの母親が居る。
捨てられたあの日から、何年が経っているのかさえ思い出せない。
それ以来、顔も名前も思い出したくもなかったあの人がこの先に居る。
そう思うだけで、どうしたらいいのかと不安になってくる。
「···黒羽先輩」
そんな時、彼方が私の手を握った。
暖かい。優しい温もりを感じる。
彼方は柔らかい笑顔を浮かべ、私に言った。
「黒羽先輩、怖いのは分かります。俺も、あの時はそうでした。家族に顔を合わせるのが辛くて苦しくて。でも、そんな恐怖した俺の手を優しく握って背中を押してくれたのは、黒羽先輩です。だから、お返しと言ってはなんですが、俺も黒羽先輩の背中を押します」
「彼方···」
「大丈夫、黒羽先輩は俺が守ります。実の母親から何を言われようとも、俺は黒羽先輩の味方ですから」
「ん、ありがと···」
「あらあら、私も居るのですけどね···」
美白は残念そうにぼやくが、私には彼方の言葉だけ頭に反芻させていた。
そうだ、彼方には私が居るように、私には彼方が居てくれる。
それだけで、私はもう何も怖くない。
私は覚悟を決め、ドアをノックする。
「···はい、どうぞ」
中から、優しい女性の声が聞こえた。
もう何年も聞いていなかったはずなのに、その声は母親のものだと即座に理解した。
「失礼···します···」
震える手で病室のドアを開けると、上半身を起こしてベッドに座る一人の女性が目に映り込んだ。
もう何年も見ていないはずなのに、その人は昔と変わらない笑顔を浮かべていた。
あぁ、変わっていない。優しい笑顔。
そうだ、この人が私たちの母親だ。
「あら、どちら様でしょうか?」
彼女は成長した私たちが誰なのかは分かっていないみたいだが、それも一瞬のことでハッと驚き、わなわなわと震え出した。
「あ、あぁ···っ、ま、まさか···み、美白?そ、それと···黒羽、なの···?」
やはりしばらく会っていなかったとはいえ、さすがに面影が残っていたのか私たちのことが分かったらしい。
私はすぐに俯いてしまったが、美白が彼女に声をかける。
「ご無沙汰しています、お母さん。妹の黒羽と一緒にお見舞いに来ました」
「そ、んな···う、嘘···っ、あ、あぁっ···」
震えた身体でベッドから起き上がると、よろよろとした足取りで私たちに近付いてくる。
まだ安静にしなくてはいけないはずだが、精神が痛みを凌駕しているようだった。
そうして彼女は私たちに近寄ると、震える手で美白と私の頬に触れた。
瞬間、彼女の瞳からは大量の涙が流れ始めた。
「み、美白···黒羽···っ、ほ、本当に···?」
「···ん、久しぶり。お母さん···」
何を言うべきか考えていたが、いざ会うと頭の中が真っ白になって、ようやく絞り出せたのがその一言だった。
するとお母さんは、私たち姉妹を抱き寄せて慟哭を漏らした。
「あぁあああっ···!ほ、本当にごめんなさい!あなたたちを捨てていった私は、弱かった···!け、決して許されることじゃないのは分かってるわ!そ、それでも!言わせてほしいの···!置き去りにして、本当にごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい···っ!」
隣に彼方が居るにも関わらず、お母さんは私たちを抱きしめたまま泣き叫ぶ。
その姿を見て、私は気が付けば涙が溢れてきてお母さんを抱きしめ返していた。
「お、母さ···んっ···お母さん···!わ、私ね···ずっとずっと、お母さんに会いたかった···っ!会いたかったんだよ、ぉ···っ!」
「ごめんなさい、ごめんなさいね···っ」
美白も泣いてはいなかったけど、泣きそうな顔をして私と共にお母さんを抱きしめ返していた。
親子三人がこうして抱きしめ合うのは、一体いつ以来だろうか。
久しぶりに感じるお母さんの体温と温もりが懐かしくて、ただただ愛しかった。
「お母さん···私ね、お母さんにいっぱい話したいことがあるの···」
「ええ、ええ!聞かせてちょうだい···!私も、あなたたちとお話がしたいわ···!」
けれど、ひとまずはこの温もりをずっと感じていたかった。
母親への愛と伝わる母親の愛が、今まで閉じていた私の凍っていた時間を溶かしていくように感じた。
話したいことは山ほどあった。
けど、今はまだこのままで居させて。
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