第17話 退院
沙良の推測は当たっていた。香住が姿を見せなくなって1ヶ月後、絢が退院した日のことだ。
元気になった愛くるしい少女に病院スタッフは花束を贈り、喜びの送別となった。主治医だった秋野医師も格別の思いがあった。かつて絢と同じ歳で失った愛娘と絢を重ねて治療に当たって来たのだ。この子は必ず家に帰す。秋野医師の執念が実を結んだとも言えた。
「せんせー、ありがとー」
花束を持った絢は秋野医師の頬にチュッとキスをする。
「うん。もう病院なんかには来ちゃ駄目だよ」
「はーい」
「楽しいところじゃないからね」
「ううん、たのしかったよー」
「そう?注射とか嫌だっただろ?」
「うん。でもトウモロコシ、おいしかったー」
トウモロコシ? あ、あの退職した薬剤師が無断で持っていった奴か。秋野医師は返答に困った。
「病院では知らない人に貰ったものは食べちゃいけないんだよ」
「えー、しってるもん、香住ちゃん。いなくなっちゃったけどしってるもん・・・」
涼太の前だ。微妙な話に秋野医師が益々返答に困っていると、その涼太が秋野医師に話しかけた。
「異動でもされたんですかね、三村さん。本当に絢が懐いちゃって、助かりましたよ。昼間独りぼっちって言うのもストレスみたいでね。夜中にさめざめ泣いてたのが、三村さんと話するようになってピタッと止まって。看護師さんもお忙しいですからね、母親がいない絢にとってはママと友だちが一緒に来たみたいになって、本当に喜んでましたよ」
「そうだったんですか」
「やっぱ男親は駄目ですわ。こんなに小さいけど女子同士の方が話が合うみたいでね。病気の治療って医学だけじゃないんだなって思いましたよ。で、今はどこにいらっしゃるんですか?」
秋野医師は別の意味で返答に困った。しかし隠すのも変だ。
「いや、三村さん退職されたんですよ。地元にお戻りになったようで」
「え?もしかしておめでたい話ですか?」
「いや、そうじゃないと思いますがね。詳しくは知らなくて」
「絢がずっと三村さんと会いたがってましてね。もう元気になったから北海道へ行くってうるさくて」
「いくー、香住ちゃんとキツネさんにあいにいくー。あいたいー」
絢が真剣な表情で騒いだ。
「あの、北海道のどこら辺にいらっしゃるかご存知ですか?」
「いや私は知らないですけど、病院の総務なら何か知ってるかもです」
「そうか。じゃ、また聞いてみます。絢、香住ちゃんのいる所、今度聞きに来ような」
「うん!」
家に帰る父娘を秋野医師は複雑な、いや少し後悔の混じった気持ちで見送った。自分たちの言ったことが香住を退職に追いやったことは間違いない。放っておけない噂を聞きつけて彼女を叱ったのだ。しかし、あれは本当に正しかったのだろうか。絢ちゃんのあの表情がその答えになっているのではないだろうか。父親の言う通り、絢ちゃん自身の治癒には却ってプラスになっていたかも知れない。秋野医師の中で困惑と後悔がぐるぐると回った。
患者は家に帰せた。これは自分にとっては満足な結果だ。しかし不本意に地元に帰らせた女性が一人。それももしかしたら自分に好意を持っていたかもしれない女性。その想いと人生を無茶苦茶にしてしまったかも知れない。自責は秋野医師の髪を次第に銀色に変えていった。
そして秋野医師は休みを取って北海道に通うようになった。
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