第16話 遠い日々(その3)
「三村さん、小児科の秋野先生が話があるから、小児科の談話室に来て欲しいって」
ある日、香住は小児科から連絡を受けた。秋野先生とは秋野竹人(あきの たけと)医師。香住が密かに想いを募らせている男性その人である。小児科の病室でオカリナを吹いた後の、あの笑顔は今も香住の胸に焼き付いたままだが、一方で、仕事にはストイックなドクターとも聞いている。
何だろう…。調剤で何か間違ったかな。それとももしかして…、いや、そんな話を勤務中にする人じゃないか。それにしても対面で話すって初めてだ。
ドキドキしながら期待半分で談話室の扉をノックして開ける。
「失礼します、薬剤の三村です」
机の向こう側には秋野医師と小児科病棟の看護師長である笹島雅代(ささじま まさよ)が座っていた。これは只事じゃないかも…。香住は自分の浮かれ気分を引き締めた。秋野医師が香住を一瞥して言った。
「三村さん、座って」
「はい」
向かいに座った薬剤師のネームホルダーを秋野医師は確かめるように眺めた。名前は知っている。ずっと前に薬剤部長が喋っていた薬剤師だ。
「ウチに秋野先生のファンがいるんですよ」
「ファン? 小さい子供でもいるの?」
「いや、そう言う意味じゃない、マジなファンですよ。三村さんって言ってね、まだ若いし、秋野先生やるなぁと思いましたよ」
「何言ってんだよ。一応僕はバツイチの中年男だよ」
「そこがいいんじゃないですか。渋くて」
「バカ言いなさんな。職場でそう言うのって今はややこしい事になるから勘弁してくれよ」
「本気ならいいんじゃないの?ハラスメントにもならないし不倫でもないし」
「もういいってさ」
あしらったものの名前は記憶に残っている。この
一方の香住は落ち着かなかった。秋野先生の目が厳しい。何だろう。香住の不安顔を見ながら秋野医師は切り出した。
「豊田絢ちゃんについてだ」
絢ちゃん?何か処方したっけ。香住は思い出そうとするが、秋野医師の眼差しの方が気になった。
「キミは絢ちゃんに勝手に差入れをしているそうだな」
あ、とうきび。でも、身体に悪いものじゃない筈。香住はくらっとなった。
「あ、はい、とうもろこしですが」
「彼女はこの頃食事を残すことが増えた。初めは運動もしていないしと考えていたが、余りに多いので笹島さんが聞いてくれた。初めはもじもじして躊躇っていたそうだが、トウモロコシを食べたって絢ちゃんは言った。キミにもらってとな」
「はい。食べたいって彼女が言うので北海道から持ってきました。成分的にも治療への影響はないと思いますし、何等の副作用もない筈です」
「それはこちらが判断することだ。そういう問題じゃない。入院患者の食事は管理しているんだ。絢ちゃんにとってトウモロコシ1本は結構な量になる。肝腎の食事が取れなくなると、投薬の計画も狂うだろう?見舞客がお土産に持って来るような話なら荒立てたりはしないが、病院スタッフとなると話は別だ。それ位解っているだろう?」
笹島看護師長も口を開く
「家庭で調理してきたものに衛生的な問題があった場合、どう責任とるつもり?」
香住には反論できなかった。全くその通りだ。今考えると軽率そのものだった。香住は憧れの人の前で
「仰る通りです。軽率でした」
「ま、キミが言う通り成分や副作用は問題ない。だがこれがエスカレートして他のものにならないとも限らない。こう言う事は止めてもらいたい」
「はい。判りました」
「もう一つあるのよ」
今度は看護師長だ。
「あなた、絢ちゃんのお父さんと何かあるの?」
え? その質問は香住にとって全くの想定外だった。
「い、いえ、何もありません」
「そう?噂になってるの気づかなかった? 絢ちゃんの病室でいい感じになってるんじゃないかって」
秋野医師は苦虫を潰したような表情になった。待って、待ってよ。
「そんなんじゃありません。あの、絢ちゃんとお話していたらお父様も入って来られて、一応邪魔しないように引き上げようとするんですけど、一緒に居てくれって言われるんで」
「一応そう聞いておくけど、あなたの方があそこで待ってるんじゃないかって思う人が多いのよ」
そんな・・・。
秋野医師が口を開いた。
「個人的な交際についてとやかくいうつもりはないが、ここはキミにとっては職場だろう。節度と言うものが必要なんじゃないのか」
「はい、いえ、あの、絢ちゃんのお父様は既婚者だし、そんなつもりはありません…」
「あら、奥様はいらっしゃらないのよ。まさか知らなかった訳ないでしょ?後釜狙いだろってみんな言ってるよ」
看護師長が蔑んだ眼差しで香住を見る。
「本当ですか? 知りません!あたし、そう言うの全然知りません!」
秋野医師が腰を上げた。
「まあそう言う事にしておくけど、今の噂じゃ誰も信用しないよ。せめて病室に入り浸らないように心掛けることだな。総務は知らないようだから現時点では懲罰対象にはならんと思うが、以後気を付けなさい」
そう言うと秋野医師は扉を開けて出て行った。
「まだ若いからそういう気分になるんだと思うけど、先生の仰った通り、職場は神聖なところだから、気を付けてよ」
笹島看護師長も低い声で言うと出て行った。
そんな・・・。そんなこと、そんな噂、なにも知らなかった・・・。
よりによって秋野先生の前でなんてこと。香住は絶望を感じた。
+++
香住が注意を受けたことは密かに病院内に広まった。勿論、絢や涼太には知られていない。しかし香住はもう病室には足を運べなかった。それでも噂は残り続ける。あからさまな処分がないだけ余計に噂は陰湿なものになった。
そして香住は退職届を提出した。絢には何も告げずに。
+++
香住の長い話は終わった。勿論、中学生相手だから所々を端折って話したのだが、沙良は概ねを理解した。
「あの人、そのお医者さんですよ。香住さんを探してるんです」
「なんであたしを探すの?」
「きっと香住さんの事を見直したんです。それで後悔してるんです。だって香住さん、ちっとも悪くないんだもん」
「そう? でも秋野先生の髪は黒だったよ」
「うーん、後悔し過ぎて銀色になったとか」
沙良は話しながら美芽にもらったコンサートのチラシを思い返していた。突然言われた『待っとるけんね』。
そう、風向きは変わることがある。沙良は国語の時間に習ったことわざを反芻した。
待てば海路の
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