第14話 遠い日々(その1)
香住はポツリポツリと語り出した。それは沙良に向かってと言うより、沙良の背後に拡がる神来の森の神への告白に聞こえた。
東京の西部、多摩丘陵に建つ西立山病院。そこが香住の職場だった。この病院では外来患者の薬の処方は外部の薬局が行っているが、病院内での手術や入院、検査などで用いられる薬は香住の配属されている薬剤部門で調剤している。もとより『薬物』を扱う部門であるから、何らの間違いが許されるわけはなく、香住は緊張の日々を過ごしていた。
そんなある日、内部教育の一環として香住は先輩薬剤師の小児科病棟での服薬指導に随行した。
順番に回ってゆく病室の一つに、その小児科医が居たのだ。香住は主治医であるその小児科医による問診を先輩とともに後ろで聞いていたのだが、中年と言ってもいいその医師は、子どもと同じ高さの目線で語りかけていた。
そして話の最後に白衣のポケットから丸いものを取り出した。
え? オカリナ? 香住はびっくりした。
医師はそれを口に当てると軽やかに吹き出したのだ。
♪ だれかがー こーっそりー こみちにー このみ うずめてー ♪
患者の子どもは嬉しそうに身体を揺らして一緒に歌っている。傍にいた母親も小さく手拍子をしている。病室は即席の幼稚園になったようだった。柔らかい音色の演奏が終わると思わず香住も拍手をしてしまった。医師が振り返る。優しい目、笑顔、つられて微笑んでしまう。
その医師の笑顔は香住の胸の奥に大切にしまい込まれた。職業的なことだけではない。歳の差は随分あるけど、香住の胸の奥に突然生まれた小さな蕾のような想いと一緒にしまい込まれたのだ。その後、香住がその医師に関する話を聞くたび、その蕾は少しずつ膨らんでいった。
+++
それからしばらく後、ちょうど1年前だ。香住は小児科病棟に薬を届けにやって来た。率先して小児科病棟の仕事を引き受けたのは、あの医師に会えるかもという下心があったことは否めない。
エレベータを降りて廊下を歩いていると、前方を看護師が車椅子を押している。検査の帰りだろうか。香住は車椅子を追うように歩いていた。
ポテ。
車椅子から何かが転げ落ちた。ん? 香住は小走りに歩み寄る。拾い上げたそれは小さなマスコット。車椅子の患者が持っていたのかな。香住は足早に車椅子に近寄った。乗っていたのはまだ小さな少女だった。小学校低学年くらいであろうか。
香住は車椅子を押していた看護師に会釈すると、少女にマスコットを差し出した。
「これ、あなたのかな?」
眠そうだった少女の表情が変わった。
「あ・・」
「だよね。落っこちたよ」
香住はマスコットを少女の腕に抱かせる。手首に巻かれたネームタグには『豊田 絢(とよだ あや)』とある。絢ちゃんって言うんだ。
「キツネさんだね?」
少女は目を輝かせた。
「うん。キタキツネだよ、パパのおみやげなの。だいすきキタキツネさん」
香住は看護師に喋っていいか目で問うた。看護師が頷く。
「キタキツネってね、お姉さんのおうちの近くにいるよ。時々お散歩してる」
「ホント?みたことあるの?」
「あるよ、数え切れないくらい」
「いいなー、あってみたいなー」
絢はマスコットを抱きしめる。間もなく車椅子は病室に着き、香住はその部屋番号を記憶した。
+++
翌日、休憩時間に香住は絢の病室のあるフロアのナースステーションを訪れた。
「あの」
「はい?」
「豊田絢ちゃんって、お
「ああ、大丈夫よ。いつも一人だから喜ぶよ」
「一人なんですか?あんな小さいのに?」
「うん。お父さんがお見えになるけど昼間はお仕事だから殆ど夜だけね。だから見てても不憫でね。良かったら散歩にでも連れていってくれたらこっちも助かるよ」
香住は看護師のその言葉に意を強くして、絢の元を訪れた。絢は個室に入っていた。
「絢ちゃん」
「あ」
「ちょっと遊びに来たよ」
「わぁ!」
「屋上に行ってみようか。気持ちいいよ」
「うん!でもいったことない」
「お姉さんが押して行ってあげるよ」
「ほんと?」
香住は車椅子を押して屋上に上がる。病院は丘陵の上なので、屋上からの見晴らしは抜群だった。しかし絢の興味はそこじゃなかった。
「ねえねえ、せんせい」
「あは。先生じゃないけどね。お薬作る係りなの。名前は三村香住よ」
「香住ちゃん?」
「そう。お友だちになろうね」
「うん。じゃあキタキツネさんのおはなしきかせて。なにたべるの?おさかなだけ?ケーキとかすき?おうちはどんなの?」
絢からは小学生らしい質問が矢継ぎ早に飛んで来た。香住は一つ一つについて丁寧に答えた。絢はいちいち感動している。賢い、でも可愛い子だな。香住もほっこりした。
「そうなんだぁ。ほっかいどぉかぁ。いってみたいな」
「退院したらお父さんにねだってみたら?飛行機だったらすぐだから行けると思うよ」
「うん!そうだ。ほっかいどぉはトウモロコシがおいしいって、おともだちがいってた」
「そうね。美味しいよ、焼き立ては香ばしくて」
「絢もたべてみたいなあ。パパはおしごといそがしいからかってこれないの」
「じゃ、今度あたしが北海道へ帰った時、たくさん持ってきてあげるよ」
「わぁーい!」
そんな日々が何日か続いた。香住にとっても理解の速い絢と話すのは楽しかった。
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