第2話 手当て

「どうしたの?」

「あの、この子、そこの公園で足に怪我したみたいで、歩けないんです」


 沙良は自転車のスタンドを立て、子犬を高く持ち上げた。女性の視線が後足に注がれる。


「あーホントだ。血がこびりついちゃってるねえ」

「はい。獣医さんとかよく判んなくて、取り敢えずここならどうにかなるかなって」

「ふふ、優しいのね。首輪とかしてないけど、この子、一人で居たの?」

「はい。森の中の穴みたいなのに落ちかけたみたいで、滑って動けなくなってました」

「あらあら可哀想に。捨て犬…なのかなぁ」

「多分。周りに人もいませんでしたし。キャンキャン鳴いて痛がってました」

「そっか。でもここ薬局だから治療は出来ないのよねえ」

「そうなんですか」


 その女性は子犬の頭をそっと撫でる。首からぶら下がってるネームプレートには『薬剤師 三村 香住(みむら かすみ)』とあった。薬剤師さん。香住さんって言うんだ。


「でも放っとけないよねえ。まだ生まれてすぐに見えるしね、あなたが飼うつもりなの?」

「いえ、それがウチ駄目なんです、動物」

「そう…、じゃやっぱ届けなきゃだけど、取り敢えず業務外という事で考えてみよう」


 香住の言葉に、俯き加減だった沙良の顔がパッと明るくなる。


「お願いします!手伝います」

「ふふん、ちょっとここで待ってて。動物は店内に入れないのよ」

「はい」


 沙良はしゃがんで子犬を降ろし、頭を撫でた。子犬は顔を沙良の方に向ける。


「良かったねえ、取り敢えずは」


 少しして香住が袋を下げて戻って来た。


「えーっと、まずは怪我してるところが判らないからさ、ここの毛を切っちゃおう。あなた、えっと、何て名前?」

「小野田沙良です」

「沙良ちゃんね。じゃ、沙良ちゃん、暴れると噛んだりするかもだからさ、このタオルを頭からすっぽり掛けるから、その上からしっかり押さえていてね」


 そう言うと、香住はバスタオルらしきを子犬の頭から被せた。沙良はその上から前足と頭を抱え込む。


「うん?意外と大人しいね。お腹空いてるのかな」


 言いながら香住は使い捨ての手袋をはめ、子犬の後ろ足を手に取って、血がこびりついている毛をハサミでザクザクカットした。子犬が震えているのがよく判る。


「うーん、剃る訳にいかないから、この上から洗い流すよ」


 香住は大きめの霧吹きを持ち上げた。


「はい。消毒ですか?」

「ううん、水道水。人間用の消毒液は沁みて痛いかもだからさ、可哀想だし暴れると困るでしょ。水道水でも塩素入ってるから充分なのよ」

「へぇ」


 足に水を吹きかけ、ティッシュで軽く拭うと、今度は袋から軟膏らしきを取り出す。


「これは動物用だから大丈夫だよ。と言っても皮膚病のケア薬なんだけどねー」


 チューブから軟膏を出すと、綿棒の先につける。


「はぁーん、ちょっと皮膚が切れちゃったんだね。ぶつけたのかな。ごめんねー痛くないからねー」


 香住はカットした毛の中を慎重に探って、綿棒の軟膏を塗りつける。少しして顔を上げた香住は手をはたいて、子犬のバスタオルを取った。


「うん、一応これでおしまい。偉かったねえ、大人しくしてて」

「有難うございました」


 沙良は頭を下げ、香住はまた子犬の頭を撫でる。

 

「んで、どうする? 交番に持ってくと落とし物になって、誰からも申し出がないと沙良ちゃんが引き取ることになると思うよ」

「それはちょっと」

「じゃやっぱ保健所ね。保護犬扱いで誰かに貰われるまではそこにいることになる」

「はい、それしかないかと」

「何犬だろうね。秋田犬かな、ちょっとポメにも似てるけど、やっぱMixかなぁ、色が銀色入ってるもんねぇ」


 香住は子犬の全身を撫でながら観察する。あれ? ふいに香住は沙良を振り返った。


「沙良ちゃん、この子、森に居たんだよね、そこの神来公園の」

「はい」

「犬じゃないかもよ」

「え?」


 香住は子犬の尻尾を手にして沙良に見せる。


「ほら、先っぽが白いし足も黒っぽいし、キツネじゃない? キタキツネ」

「えー?」

「それにこの爪、鋭くてキツネっぽい」

「あー。でもキャンキャン鳴いてましたよ、コンコンじゃなくって」

「はは、コンコンはお伽噺だよ。キタキツネはワンとキャーみたいな高い声だよ」

「そうなんですかぁ」


「ね、沙良ちゃん噛まれたりしてないよね」

「はい」

「キタキツネだったら、病原虫持ってるから気を付けないと」

「そう…なんですか…」


 沙良には子犬が急に未知の生物に見えてきた。


「それにキツネなら元の所に返したげないと、親が探してるかもよ」

「ですね…」


 子犬か子ギツネか判らない生き物は、つぶらな瞳でじっと沙良を見返す。


「じゃ、返します。でもあの、名前つけてもいいですか?」

「うん、いいんじゃない。誰にも知られないけど、何か付けたいのあるの?」

「はい、チロ」

「チロ。可愛いこと。なんでチロ?」

「キタキツネさんだったら、アイヌの言葉でチロンヌプって言うって聞いたので」

「なるほど、いいんじゃない。じゃあチロちょっと失礼するよ」


 香住は再びバスタオルでチロを包んだ。


「ちょっと待っててね、店に言ってくるから」


 店内に戻った香住はスニーカーに履き替え、ゴム手袋をしてすぐに戻って来た。チロを沙良から受け取る。


「じゃ、行こうか。まあ怪我の手当て位じゃ野生に戻る妨げにならないと思うけどね、エサはあげちゃ駄目なのよ。自分で捕れなくなっちゃうから」

「へえ」

「人間でもキツネでも一度楽すると横着になるってね」

「なるほど」


 公園に着いた二人は沙良の先導で、先程の森の凹みのところへやって来た。


「ちょっと穴から離しておかないと、また落っこちちゃうと困るよね」

「はい」


 沙良がチロを抱え、香住がそこらの草を抜いて、少し離れた場所の木の下に草を敷き詰めて簡単なベッドを拵えた。


「ま、この上なら眠れるでしょ」

「はい」


 沙良が草の上にそっとチロを降ろす。チロはキョロキョロしている。


「さ、情が移らないうちに行こう」

「はい」


 もう、ちょびっとばかり移りかけてるけど・・・


 沙良は思いながら、心の中でチロに呼び掛けた。お母さんがすぐに来てくれるよ。無事に大きくなってね。


 二人がそっと立ち去るのをチロはじっと見ていた。沙良は一度だけ振り返り、その黒い瞳を目に焼き付けた。

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