第1話 捨て犬

 沙良は野生のキツネが住宅街を歩くのを初めて見た。それは通学路でもある神来かむらい公園の外周道路、神来公園は森と繋がっているので野生動物が出てきても不思議はない。しかし、以前住んでいたカナダの都市も自然に恵まれてはいたものの、自宅から目と鼻の先をキツネが歩くようなことはなかった。


 なので早速『キツネ、見た!』とクラスメイトに告げて回りたかったのだが、またバカにされるのがオチなので自分の胸に酸っぱい気持ちと一緒に畳んでおくしかなかった。クラスの殆どは地元、もしくは道内の子ばかりだ。キツネなんて見飽きていることだろう。


『今さら何?』

『毎日どこ見てんの』

『外国で見聞広まったんでしょ』


 返って来る言葉が容易に想像できる。小野田沙良(おのだ さら)が帰国子女として半年前の秋、北海道の中堅都市にある神来中学に編入してから何度も噛み締めた酸っぱい思い。それは決して青春っぽい甘酸っぱさではなく、やり切れない、悔しい、胃酸のような苦い酸っぱさだった。


 それから幾度となく沙良はキツネを見かけた。両親からキツネを触ってはいけないと言われていたが、そんな隙もなくキツネはさっさと森の方へ消えてゆく。沙良はまるで自分のようだと思った。誰とも喋らず1日を過ごす日々。


 実は転入前から沙良は覚悟はしていたのだ。英語の発音がネイティブ並みであること、勉強の進度が全然違うこと、両親からも聞いていたので馴染むのに時間がかかるとは思っていた。しかしここまで放っておかれるとは思っていなかった。ランチタイムに一人ぼっちで食べることになるとは思っていなかった。涙が零れたことも一度や二度ではない。だけど沙良は前向きに考えようと思った。永遠にこの状態が続くわけではない。止まない雨はない。沙良は高校はインターナショナルスクールに進みたいと両親に告げ、内諾を貰っていたからだ。


 半年を過ごしてみて、この地域の事は好きになった。広々とした街や自然はカナダを彷彿させるものがあったし、生活に不便はない。少し行けばアウトレットだってあるのだ。学校さえ変われば全部が好きになれる。砂を噛むような日々を過ごしながらも期待を胸に抱いて、沙良はその日も自転車で公園脇の外周道路を走っていた。


 キャン!


 ん?


 公園の外れ、森にかかったところで甲高い声が聞こえた。犬?


 キャンキャン!


 んー? 


耳をすませばカサカサ葉擦れの音も聞こえる。沙良は自転車を降りて公園に入った。 


キャン!


 公園内から森を見透かすが、その姿は見えない。沙良は腰をかがめて枝を避けながら森に入ってみた。少し行くと、いきなり空間が現れた。


「なに、ここ」


 思わず声が出てしまう。それほど不思議な空間だった。直径数十mに亘って木々がなく、中央部分の地面が大きく凹んでいる。その凹みの縁から声が聞こえていた。沙良は足元に気を配りながらゆっくりと近づいてゆく。


あ。


 草に覆われているが、凹んだ地面の端に小さな背中が見えた。生い茂った蔓と地上に出た根っこらしきに足を挟まれている。懸命に手足で地面を蹴るが、ずるずると土が崩れ、蟻地獄のような状態だった。子犬のようだ。


 キャンキャン、キャン


 切羽詰まったように連呼が響く。


「あー、ちょっと待ってね」


 沙良は足場を固め、草をかき分ける。茶色に銀色が混ざったような毛並みが見えた。可哀想に、罠にかかったみたいになったんだ。沙良は子犬の足に絡まる蔓や根っこを一つ一つ外してやる。子犬の背中全体が現れた。覗き込むと、口と鼻の周囲が黒いまだ小さな子だった。


「ほら、もう大丈夫だよ。キミ、捨てられちゃったの?」


 真っ黒いつぶらな瞳が振り返って沙良を見上げた。


「あれ、動けない?」


 キャン!


 沙良はもふもふの背中から手を回し、前足の付け根を持って抱き上げた。軽い!


「あ。足、怪我してる」


 だらんとなった右後脚の毛並みが血でこびりついている。これが痛くて歩けないんだ。滑った時に石にでもぶつけたのかな。どうしよう。沙良は子犬に話しかけた。


「ウチのお父さん、動物アレルギーなのよ。だから連れて帰ってあげられないんだ。だけど怪我痛いよね。どうしよう」


 沙良はしゃがんで子犬をそのまま膝の上に載せる。子犬は助かったと安心したのか急に大人しくなり目を閉じかけている。


「わ、ちょっと、大丈夫?死んじゃわないでね」


 沙良はふと思いついた。少し戻ったところにドラッグストアがある。病院じゃないけど何とかなるかも。沙良は子犬を抱き上げたまま来た道を戻り、自転車の前カゴにそっと子犬を置いた。子犬は驚いたように前足をバタバタするが立ち上がれない。前カゴに入っているリュックにもたれるように挟まっているので落ちることはないだろう。沙良は子犬をなだめながら、そーっと自転車を押し始めた。


 300mほど押し歩いてドラッグストアに入る。丁度入口の脇で、ティッシュペーパーやトイレットペーパーを積み直している白衣の女性がいる。沙良は自転車を押したままその女性に近づいた。


「すみません」


 女性は沙良を振り返り、そして目を丸くした。

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