第2話 分かたれた枝葉は燃やされる

『じゃあジャンヌ。今日は右足をお願いね。なんだかひどく……そうだな、うずくから』

『はい……、ちゅっ、ちゅく、』

 その辿々しい口付けを要求するようになったのは、いつからだったろう。

 ジャンヌはひどく従順だった。それほどまでにわたしが見たことは彼女にとっては秘密にしなくてはならないことだったのだろう。そんな姿がひどく魅力的に思えて、だけど、同時にどこかで苛立ちも覚えていた。


 誰かの名前を呼びながら自分を慰めるくらい何だというのだろう? わたしはそれよりずっと汚いことを強いられている。

 まだ生きていたいんだろうと嘲笑われながら、こうでもしないと食い繋げないと蔑まれながら、名前を呼びたくもないような相手をじかに受け入れているというのに。彼女に舐めさせている右足だって、さんざん臭くて汚い唾をまぶされたのを上書きしたくてたまらなかったからそうしていただけ。あぁ、そんな穢れきった脚で彼女の桜色の、きっと未来の伴侶しか知らずに、愛と祝福と慈悲の言葉ばかりを口にするのであろう唇を汚しているのだと思えば、少しだけど気分も晴れるかもしれなかった。

 けれど、その日はどうにも気が晴れなかった。

 むしろ彼女にこういうことを強いるようになってから尚更、わたしの中にある彼女への感情は変質の一途を辿っていたのだと思う。遠巻きに見ているだけなら、彼女のことを【まこと慈悲深き現代の聖女様】などと、将来的に彼女を担ごうとしている町の大人たちみたいなことを言えたのかもしれない――けれど、わたしは図らずもそうじゃない彼女を知ってしまったから。

 人並みに性欲を持ち、人並みに誰かを欲する、当たり前の人間なのだと知ってしまったから、彼女の従順さが気に入らなかったのだと思う。


『ねぇジャンヌ』

 だから、降りしきる雨の冷たいその日。

『舐めるのはもういいから、次は自分でして見せてよ』

 わたしは、彼女への要求をより深いものに変えたのだった。



   * * * * * * *


 祝福の雨が降り注ぐ――婚礼の日には相応しいと言えなくもなかったけれど、それでもわたしは夫となる人物に向けてちゃんと微笑めているのか、自信がなかった。

 雨空を見ていると、どうしても思い出してしまうのだ。

 聖女とまで持て囃された彼女が、わたしを通して『人間』に堕ちていった、その始まりの日を。



   * * * * * * *


 結論から言えば、ジャンヌは自慰を強要されてもそれに逆らうことなどせずに従ってみせた。彼女のつたない指つきを見つめているうちに胸の奥が燃えるように熱くなっていくのから目を背けながら、わたしはそんな彼女を冷笑していた。

 彼女がわたしを求め、そして何がなんでも従ってきた理由はわからない――けれど、人間なら。欲望に苛まれ、煩悩を抱えて生きる人間なら。自我を持ち、他者を認識できる人間なら。

 嫌だって、言えなかったの?

 涙を浮かべながら、耳まで赤くしながら、それでも果てるまで自慰をやめようとしない彼女への苛立ちは、そのまま要求のエスカレートと同一だった。


『ジャンヌ』

 どこまでのことを言えば、彼女が拒むのか。

 どうすれば何でも聞き入れて受け入れる彼女から「ノー」を引き出せるのか。いつからか、そんなことばかり考えるようになっていて。


『わたしにもさせてよ』

 雨音に包まれた廃墟のなか。

 わたしたちは、退路を失った。

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