楽園を追われた小鳥の囀りは

遊月奈喩多

第1話 蛇はその舌を伸ばして誘った

「あなたは――――を夫とし、生涯愛することを誓いますか?」

「誓います」

 嘘だ。


 わたしは、生涯彼を愛することはないだろう。

 しかし、彼という存在はわたしにとって特別な意味を持つだろう――捨て去ったこの心の名前は、芽生えた瞬間からもう、はっきりわかっているのだから。


   * * * * * * *


 子どもの頃、わたしには天使が見えていた。といってもそれは突然聞こえた天啓のようなものとかではなく、みんなの目に見えていたもの。ただ、わたしの目には紛れもなく天使に見えていた。

 奇しくも彼女の名前はかの聖女と同じジャンヌ。大きなお屋敷に住んでいた彼女は誰にでも分け隔てなく優しくて、まさに現代の聖女と呼ぶに相応しい人格者。誰もが疑わなかった、彼女こそがこの世界における『光』になれると。


 かつて大きな災厄があったというのは、祖父から何度も聞かされている。そのせいで大勢の人が大切なものをなくし、路頭に迷い、人の成功を妬み、誰かから何かを奪うのが当たり前になってしまったのだ、と。そう教えてくれた祖父自身も、食べるものに困ったという浮浪者の凶刃にたおれているし、わたし自身も幼い頃は知らなかっただけで様々な人から嫌な目を向けられていたらしい。

 けれど、そういう視線もジャンヌの前では何の意味もなさなかった。彼女の温かな眼差しを受ければ誰しも心に小さな炎が灯ったみたいに心が満たされたし、わたしだって何度彼女に救われたかわからない――人の悪意に曝されることなんて、数えたくないくらいにたくさんあったから。生きるためなら仕方ないんだ、悪意や薄汚い感情だって、呑まなければいつ死ぬことになるか、わからないのだから。

 わたしがそんな彼女に特に気に入られたのは、半ば奇跡みたいなもの。わたしにだって理由がわからないのだから、もうそうやって呼ぶしかないのだと思う。ジャンヌがわたしの名前を呼んで……もちろん、こんなこと誰に言っても信じてはもらえないだろうけど。


『ジャンヌ、何してるの?』

 誰にでも優しくて、それこそ歴史に名高い聖女様のような娘。そんな彼女の秘密を垣間見たとき、たぶんわたしの中で何かが歪んだ。


 ジャンヌはわたしが見てしまったそれを、とても恥ずべきことだと思っていたらしい。涙ながらに秘密にするよう頼んでくる必死さに、どうしてかそれまで彼女に対して抱いていたのとは別の感情が芽生えていた。

 ずっと昔から家名の続く名士の娘、いずれはどこかの貴族に輿入れするか、はたまた彼女自身が身を立てて民衆を導くかなどと言われる彼女の、他愛もない少女を知っているのは、他でもないわたしだけだったのだ――しかも、わたしの名前を呼びながらだなんて。


 それは、わたしからしたら何の変哲もない本能的な行為。けれど、彼女にとっては何より秘すべきことだというなら。

『わかった、誰にも言わないよ』

 嗚呼、きっとそう笑ったわたしの口元は、人を堕落に突き落とすモノと同じ歪み方をしていたに違いなかった。

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