不老不死

「ねぇ、ニュース聞いた?」

 その友人の問いに、私は手元の端末の操作を止めて、隣に座る彼女の顔を見た。

「何の?」

 そう聞いた私に、彼女はあれだよ、と言った。私が知っているだろうと確信している顔だった。

「不老不死の秘薬が結局不認可になったって話?」

 不老不死になれる薬が完成した。

 そのセンセーショナルなニュースが世界を震撼させたのは、もう二年も前になるだろうか。二年前、そのニュースが世界中を駆け巡り、どの局でもその話題が出ない日はなかった。アニメやドラマは報道番組に入れ替わり、バラエティもそれに関連した番組が急遽生放送で放映された。SNSのトレンドも全て不老不死の秘薬関連の言葉で埋め尽くされた。

「うん。どう思った?」

「なんだかんだ言いつつ、認可されるのかなって思ってた。だからちょっと驚いたかな」

 つい、ついと端末を操作をして適当なニュース記事を開いた。今日この日も、世間のトレンドは不老不死の秘薬一色だ。

 彼女と一緒に端末を覗いて、ニュースのトップに表示されている文字を読み上げた。

「『不老不死の秘薬、実用化には至らず』」

「『道徳性に欠けるという声がそこかしこで』」

 二年前、偉そうな学者先生だか評論家だかが討論番組でこれは世界を変える薬です、なんて唾を飛ばしていた。結局あの人の言っていた通りにはならなかったなぁ。なんて、顔も名前も思い出せないオジサンの言った事だけが、ふっと考えの表面に浮上した。

 そういえば、不老不死の秘薬を完成させたフランスの学者はその年のノーベル生理学賞を受賞していたっけ。

 今朝のニュース番組で彼の名前と国籍を聞いたから、それだけはまだ覚えていた。

「でも、不老不死って実際どんなんなんだろうね。秘薬、まあ、世界に大々的に発表されちゃったんだから秘薬でもないけどさ。実際に認可が降りたら、皆その薬を欲しがったのかな」

 思考の海に沈んでいた私を彼女の声が引き揚げた。その問いのような、ただの呟きのような、その声に私はううん、と曖昧な相槌を返す。

「さあ。あんたは?」

 私が問いを返すのが意外だったのだろうか。彼女は二、三回目を瞬いた。

「うーん、飲みたくないかなぁ」

「やっぱり、『道徳性に欠けてる』?」

 そういうわけじゃないんだけどさ、と彼女は言った。その後はこの友人にしては珍しく、口をつぐんだ。相応しい言葉を探している彼女の隣で、私はゆっくりと続きを待っていた。

 私はどうだろう。不老不死に、なりたいだろうか。

「なんていうかさ、本当に不老不死を望んでいる生き物って、どこにもいないと思うんだよね」

 いつもと同じように、軽い調子で溢された声に、私は無言で続きを促した。

「きっとあのフランスの学者さんも、テレビに出てたオジサンもさ、死にたくはないだろうけど、ずっと生きてたいってわけでもないと思うんだよね。マジョリティに同調するわけでもないし、自分の考えが世界の多数だって思っているわけでもないけど」

 彼女の言う通りだと思った。きっと不老不死の薬を完成させた研究チームだって、薬の使用を求めてはいなかったろう。それは彼らの好奇心が生んだ副産物に過ぎなかったに違いない。

「死ねないってのは、きっと生きるのをつまらなくするよ」

 その視線の先で、彼女は何を見ているのだろう。死者は天に昇ったというが、そんな彼らに思いを馳せているわけでもないだろう。

 彼女がそっと目を伏せて、瞬き一つ挟んで私に顔を向けた。

「あんたは?」

「そうだねぇ」

 私はわざと勿体振るような調子を付けて目を細めた。実際、まだよく分からなかったのだ。彼女の言葉を聞いても、ニュースサイトを眺めても、不老不死というのは、やっぱりどこか自分とは違うフィクションの世界の出来事のようだった。

「ところでさ、人間って絶滅すると思う?」

「急だねぇ。今不老不死の話をしてるってのに。まあいいけどさ」

 私が答えになってない事を言っても、彼女は笑って許してくれた。こういうところが好ましい。

「いつかはするんじゃない? NASAでやってるあの計画、なんだっけ」

「異星移住計画?」

 私が数か月前にニュースで見た計画の名前を口にすると、彼女は私にビシッと人差し指を向けた。

「そうそれ。そんな計画が進められてるらしいけどさ、それが実用化するのなんてそれこそ何十年後、何百年後らしいじゃん。その計画が頓挫して地球が終わっちゃうかもしれないし、計画が完成する前に隕石とかが落っこちてきちゃうかも。あとは移住先の星の環境が合わなくて絶滅するかも」

 あくまで明るい口調で、彼女は何度死を意味する言葉を紡いだのだろう。自分で言わせたというのにそんな事を考えて、すぐに振り払った。

「すっごく強かったティラノサウルスだって絶滅したし、太陽の寿命だってあと半分もないんでしょ? それなら人間なんてきっと絶滅するよ」

 今にも笑い出しそうな調子で、彼女は話す。何がおかしいのかと問われても、きっと彼女も私も答えられない。

 ああ、そうだ。もう一つだけ聞いてもいいだろうか。

「もし、私達がその絶滅する人間だったとしたらさ。その時は使いたいって思うのかな」

「さあ? その時になんないと分かんないんじゃない?」

 少し薄情にも聞こえるが、きっとそれが真実なのだろう。少なくとも私はそう思った。

 未来の事など不確定で、今予定した事がその通りに運ぶとは限らないのだ。例えば今私はワッフルが食べたいけれど、いざコンビニに入ったらスナック菓子が食べたくなるかもしれない。

「そっか、そうだね。きっとそうだ」

 きっとそれと同じなのだ。そう思ったから、私は一つ頷いた。

 今、不老不死になりたくないと言っていても、それは漠然としているが寿命までは生きていけるだろうと思っているからだ。いざ死に直面したのなら、形振り構わず不死を求めてしまうかもしれない。

 人間は理性的なようでいて、その実何よりも欲に素直であるのだ。理性などそれは安息が約束されているからこそ働くのだ。己の命が脅かされたとしたら、そんなものを押し退けて本能が前に出るのだ。

 だから、彼女の言葉は正しいと思う。

 私達は健康で文化的な生活を送れていて、こうして雑談に興じる事が出来る国と時代に暮らしている。でも、"いざ"という時、今と同じ事を言えるかと聞かれると頷けない。

 だって、分からないだろう。私達は結局自分が経験した事しか知らないのだ。テレビやネットで遠くの国や時代の事を見聞きしたって、その実態はそこに生きている人にしか知り得ないのだ。私達はそこにいないから、想像する事しか出来ないのだ。

「で、結局あんたは不老不死の薬、使いたいの?」

 そうだった、そんな話をしていたのだった。

 私はああ、と声を漏らした。彼女はそんな私に苦笑を溢した。うっかり忘れてしまった事なんてお見通しなのだろう。

「私も、使いたくないや」

 やっぱりそうか、なんて言い合って、二人でまたお喋りを続けた。

 もし、不老不死の薬が認可されたとしても、私達がこういう毎日を繰り返すのは、変わらなかっただろう。

 人というのは、存外に変わらないものなのだ。

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