お題「三味線」「メダル」

兎角@電子回遊魚

第1話

 陽の当たる世界から月明りの世界に。境界が揺らぎ、曖昧に溶ける時間。

 道往く人は何も思わないのか、それぞれの(往)復路を、無表情に歩く。

 その人混みの中、私は何処へ向かおうというのか。取り留めのない思惟に耽りながら、ただただ足の向くままに。

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 母が亡くなったと聞かされたとき、私は涙一つ流すことができず、ただ心に穴が空いたような感覚に陥った。現実味がなく、まるで小説の出来事。それでも心に空いた穴は確かなモノで。

 仏壇に納まった遺影と、何故か私宛てに遺されたという三味線。それは母が大切にし、奏で、聴かせてくれることはあっても触れることを許さなかったモノ。

 いつだったか、『これはただの三味線じゃないんだよ』と語った母の姿は、今でも鮮明に思い出せる。あまりに真剣な眼にただならぬ何かを感じ、そして『奏は絶対に触らないでね』と。その言葉の真意はわからなかったけれど、わざわざ触ろうとも思わなかったし、その言葉を守って過ごしてきた。

 触れるな、とわざわざ忠告したモノを何故、私宛てに遺したのだろう。

 今になって私のモノになった、この三味線。

 嗚呼、何故だろうか。見つめていると不思議な気持ち、否、衝動に駆られそうになる。母が存命の間は欠片も抱かなかった感情。触れてしまいたい。『触れてしまえ』と誰かが囁く声が聴こえる。

 三味線なんて母の物に限らず触れたことはないし、当然ながら奏で方なんて知らない。それなのにどうして……?

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 溶けた境界が不意に集束する。

 焦点の合った世界は、今までと何も変わらない景色。少し呆けていたのか、すっかり帳が下りている。そして、先程までの往来が嘘のように、静まり返った風景。

『あれ、ここは何処だろう』

 不意に心の内に湧いた疑問。景色に異常はないはずなのに、いつも見ている景色と何かが違う。

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 一度、猫が鳴いた。

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『猫……?』

 そういえば、あれだけ居た人々は何処へ行ってしまったのだろう。

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 二度、猫が鳴いた。

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 猫。

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 三度、猫が鳴いた。ただそれだけのことなのに、怖気が走る。見ている景色はいつもと変わらないはずなのに、何かが違っている。でもその「何か」に焦点を当てようとすると、「ソレ」の輪郭が揺らいで、溶けて、無くなってしまう。それなのに「ソレ」が居るということを、肌が感じ取る。

 私は怖くなって駆け出した。見ている景色に差異がないのであれば、家に帰ればきっと、馬鹿げた話だって笑い飛ばせる。そう強く自分に言い聞かせながら。

 一歩、二歩、そして三歩。たったそれだけの間に魔が差す。誰かの声が木霊する。誰かじゃない。猫だ。「ソレ」は猫の形をしている。そう、ただの猫。それなのに、耳に付いて離れない。猫の声が幾重にも重なって木霊し続ける。音が「ソレ」一色に浸食されていく。

 景色が揺らぐ。再び境界が現れる。その蜃気楼の向こうに、「ヒト」が居る。人だ、ヒトだ、ヒトダ。喰ッテヤル。

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 ある日、誘惑に耐えきれず、私は「三味線」に触れてしまった。ただそれだけ、触ったからって何かが起きるわけでもなく。母の真剣な眼差しを思い出しはするけれど、やっぱり何を意味していたのかわからない。

 偶然だろうか。その日から、「猫」をよく見かけるようになった。いつもの通学路。人の往来。群像の中で、なぜか猫を見つけ出す頻度が上がった気がする。元々猫は好きだったけど、かと言って混雑した往来の中見つける程ではなく。

 そもそも、いつも通るこの道に猫が居たことなんてない、はず。けれども居る。猫が居る。そして、私が目を向けると、猫も見つめ返してくる。猫好きとしては嬉しい話。私が猫を好きなように、猫も私を好いてくれているんだと、思った。

 それだけの話。猫との遭遇率が上がったからって何か不幸なことが起きるわけでもないし。だから、気にも留めなかった。

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『猫に「視られて」いる』

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 だから、三味線が何なのか、私は知らなかった。そして偶然、音楽の授業で三味線が話題に挙がった。三味線は。

『三味線には、猫の腹の皮が使われている』

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『お前も喰ってやろうか、それともヒトを喰う側、その皮を剥いで襲わせるか』

 木霊の中、そんな言葉が聞こえたけれど、私はもう、私が猫なのか、猫が私なのか、私が私をわからない。抗い難い衝動。

『ワタシはヒトを喰いたい』

 思わず口にしかけて。木霊の彼方から別の音が流れてきた。

 凛と張りつめているようでいて包み込むように優しい旋律。どこか一つでも音が違えば台無しになりそうな、繊細な音色。聞き覚えのある、懐かしい、音。

 嗚呼、これは母が奏でた音。あの三味線で奏でられた音。猫皮の三味線。それなのに、今までこの身体に奔っていた衝動が嘘のように霧散していく。木霊を続けていた猫の鳴き声も、怖気の走る声も、その全てが。

 三度、世界が揺らいだ。境界が溶けて流れ出、蜃気楼はその輪郭を確かなものに。

 気が付けば、私は再び、人の往来の只中に居た。呆けてでも居たのだろうか。人々が胡乱気な視線を寄越している。

 いつだったか、『これはただの三味線じゃないんだよ』と語った母の姿は、今でも鮮明に思い出せる。あまりに真剣な眼にただならぬ何かを感じ、そして『奏は絶対に触らないでね』と。その言葉の真意はわからなかったけれど、わざわざ触ろうとも思わなかったし、その言葉を守って過ごしてきた。

 直観的に、その言葉の意味を理解した。

 嗚呼、奇々怪々。この三味線は、ただの三味線ではない。面妖を以てして造られたんだと。そして母の奏でる音色が、その面妖を抑えていたこと。

 母はもう居ないはずなのに、何故。そう疑問に思いながら頭を振った際に、何かが落ちる気配を察し、寸で掴んだそれは、幼い頃旅行した際に作った記念メダル。母の名前が刻まれたメダル。手にした瞬間、それは幻のようにぼぅ、と輪郭を失い、境界に「喰われた」。

 声が聞こえた気がする。母が私を叱る声。幼い時分、母の言葉を聞かず三味線に触れようとした私を叱る声。

 それを最後に、母の存在は一欠けらも残さずに消えた。

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