第10話 深淵

 あくびは一人汚い部屋の中のテレビで火事の事を知った。間違えなく先日教えた『生分解性プラスチック研究事務所』だ。

 ちょっくら探ってやるかと思い、昼過ぎに家を出てミヤコの元へを向かった。

 

 午後3時ごろ着くと、ミヤコが機嫌よさそうに花に水をあげていた。

 『ごきげんよう、ミヤコさん。』

 ミヤコはしばらく不思議そうにこちらを見、少しすると私に気が付いたようだ。

 『あら、もしかしておデブちゃん?随分と様子が変わっちゃったわね。もしかしてお薬全部飲んじゃったのかしら。』

 『その呼び方、よしてくれるかい。この通り腹も引っ込んだんだしさあ。』

 あくびの姿は一変していた。お腹は凹み、20歳ほど若返ったかのような肌つや、もともと目はクリっとして大きく、ぽっちゃり系のかわいい子と言っても過言ではない姿に変わっていた。一瞬、ミヤコが下をうつむき、なんというか気の毒なものでも見るかのような態度を取ったように見えた。

 『あなた。男の肉でも焼いて食べたの。』

 『まあ、いいじゃないかい。あんたたちが教えてくれたんだよ。』

 『あなた、ねずみ島に行っていたみたいね。まさか、知事候補殺ったのもあなた?困るのよねえ、あまり派手な事してくれると。』

 『そういうあんただって、派手な事したようじゃないかい。』


 ミヤコはくるっと向きを変え、また花に水をあげ始めた。少しするとまたこちらに向きを変え、目は合わせないまま超会話で話し始めた。

 『まあ、あなたが情報くれたおかげでゴミ掃除がとても進んで助かったわ。叔母様も大喜びよ。積年の恨みが晴らせたってね。

 悪事はお互い様かしら。お互い秘密にしましょう。いかがかしら。』

 『まあ、いいわ。ところであんたさあ。あんたはねずみ島に行ったことはあるんかい?』

 『いいえ、ないわ。知っててあんなところに喜んでいく女なんているのかしら。あなたは何しに行ったの?』

 『数日前の大火事の事を調べにねえ。』

 ミヤコは一切目を合わせてこない。せっかく情報与えてやったのに私の事はよっぽど嫌いらしい。花に水をあげ背を向けながら会話している。

 少しだけ動きが止まったように見えた。何やら上のほうを見上げ、匂いでも嗅いでいるようだ。

 

 少しすると、ミヤコは「ちょっと待ってて。」と言うと家の中に入っていった。しばらくすると車のキーとなにやら写真のようなものを手に持ち出てきた。

 「駅まで遠いでしょ。送って行くわ。」

 どういう風の吹き回しか。また無視して家の中に引っ込み出てこないかと思っていた。

 

 車に乗り、少し走り始めるとミヤコは写真を見せてきた。

 「それ、この間あなたに教えてもらった事務所にあったの。良く映ってないけど、監視カメラの映像の一部かしら。

 大きな荷物持った小学生くらいの男の子か女の子に見えるでしょ。あなたの探しているのこれかしらね。

 私も、叔母さまも魔女狩りの情報いただけて、とても感謝しているのよ。それ、お礼と言っては何だけど差し上げるわ。」

 そこに映っている人物は確かにぼやけていて認識できないが、持っている大きなバッグには見覚えがあった。思わずほおが緩む。

 「ありがとよ。これを探してたんだ。」

 「あなた、それでどうするおつもり?」

 「まあいいじゃないかい。」

 

 ミヤコは最寄りの駅から数駅先の構内大型店舗を構える駅まで送ってくれた。ミヤコは終始ご機嫌な様子で本当に感謝しているようだった。


 あくびを降ろすとミヤコはまっすぐ家へ戻った。

 まだ彼女はうちには着いていないようだ。最寄り駅でのんびりしている。本当にマイペースな子だとつくづく思い、自然と一人で笑ってしまう。

 

 幸い渋滞などなく予定で通りにうちに着いた。ちょうど彼女が家の近くの道を歩いていたので車から声を掛けた。

 「こんにちわ、お姫様。」

 「あ、ミヤコさん。すみません、いつも急に訪れてしまいまして。」

 「あら、良いのよ。あなたいつもとてもいいタイミングで来てくれる。さすがよね。お姫様の素質のなす業かしら。」

 

 ティナを家に招く。ティナは元気がないように見えた。

 「あなた、大丈夫?元気ないようだけど。お薬飲んでる?」

 「お薬は飲んでます。少なめにしてますけど。」

 ティナは、お菓子をつまんで少し間を挟み変なことを聞いてきた。

 「あの、ミヤコさん。最近は一般の人も風俗やアダルトな世界で働くようになったのですか?」

 「はあ?」

 ティナの話では、最近自殺しようとしていた人と出会い、その人たちが言うには今まではお金に困った人や男性に騙された人が風俗で働いていたが、今は育ちが良く有名大学に通うような女性まで自主的に風俗で働くようになっていて格差ができているとのことだ。「蛇の喉元」の近くにいると確かにそんな人たちと出会うことがある。あのブタさんのような別の人達とまた出会ったのだろう。しかしながらそんなことを私に聞かないで思う。ティナは真剣な眼差しだ。回答に困ってしまう。

 

 「前にも話したけど、国が言うほど一般庶民にとっては景気が良くないし裕福にもなってないし、将来への不安が大きい女の子も多いから稼げる仕事に手を出しちゃう子も多いのかもね。

 最近は昔と変わって、そういう世界からタレントになる子とかいて、良く理解していない若い子が簡単に考えたり、憧れたりしちゃうのかも。」

 「でも、だって、女性なら恥ずかしくてそんな仕事、誰もやりたくないと思うのですが。」

 「なんか最近の子は私が若いころとは感覚が違うのかもねえ。感心はしないけど。」

 「なぜ有名大学に通うような人までそのような世界に入ってしまうのでしょう。」

 「今は、大学を卒業しても就職が困難な時代で、大学を出るのが当たり前みたいな感じなのよね。だから、さほど裕福でない家庭で育った子でも大学に入るのよ。奨学金とか利用してね。

 大学の教育費も私立になればものすごく高いし、奨学金も無利子じゃないの。だからまだ働いていない学生の時に何百万って借金を追うことになるのよ。その返済に不安を感じる女の子がそういう世界に手を出すって言うのは聞いたことがあるわ。大学の学問なんてあまり仕事とかに役に立つような内容じゃなかったり、学生も勉強には全然意欲的でなく遊んでばかりだって言うし何のために大学に行くのだか。

 あとは、一般家庭で金銭に余裕のない子が裕福な子に出会って、憧れてお金が欲しくなったり、お金がないと友達ができなかったりで悩んでそういう世界に行く子もいるようね。」

 「そうなのですか・・・。」

 「あんた、まだ子供だからわからないと思うけど、女の子の人間関係ってとても複雑なの。だから悩みが多いのよ。」

 「あの、男性は同じような状況だとどうするのですか?」

 「男は自分で働いてかないと生きていけないってわかっているから、将来頑張ろう見たいな感じで大学時代に借金を減らそうなんて考えないんじゃないかなあ。あとは単純で何も考えてないか・・。

 女性が将来に不安になるのは、結婚して子供ができたら職を続けられるのかわからなくなるし、そもそも職場での仕事内容や給与で男女格差がいまだにあって将来が見通しずらいのよねえ。いまだこの国は男性中心の世の中なのよ。もちろん活躍している女性も沢山いるけど。」

 「なぜ国が、お金に困っている人の学問のために奨学金としてお金を貸しておいて、その返済に利子を請求するのですか?」

 「知らないわ、そんなこと。貧乏学生を騙して設けたいんじゃないの。あはは。」

 ティナは困惑した様子だ。

 

 「それはそうと、お姫様。とても重要な話しをしておかなければならないの。」

 「は、はい。またお仕事でしょうか?」

 「もうお仕事は大丈夫よ。でもお仕事って言ったらこれが最後のお仕事かも。あなた、魔女の掟で叔母様からこれは教わった?」

 ある掟をティナに伝えると、ティナは知らない、でも当たり前なので大丈夫だと答えた。

 「もしかすると、ある魔女があなたのところに来るわ。その時この掟を絶対に忘れないで。それがお仕事かなあ。」

 「わ、わかりました。」

 ティナはさらに困惑した様子だった。

 「あなた、ほんと最近元気がないわ。お薬はまだあるの?ちゃんと飲みなさいね。」

 「はい、まだ少し残ってますので大丈夫です。」

 「なくなったら私のをあげるわ。私はあまり飲まないし。」


 数時間後、ティナを車で最寄り駅まで送り届けた。トコトコと帰って行く少女の背中を少しの間見つめていた。


 夕日が暮れるころにうちの近くに着く。カラスが鳴きわめき、生温かい風に吹かれ森林が揺れる。木々の間から朱色の混じった薄暗い光が差し込む。

 嫌な風と空気。胸騒ぎを感じる。木々に覆われ周りが見通しずらくなった薄暗い土の道を歩き家の近くまで来ると、一人の女性がこちらを凝視し家の壁際に立っていた。家の中は電気が付いており、窓からの光がその女性の顔を横から照らしていた。見たことのない若い女性だった。

 『お帰りなさい。お嬢ちゃん。』

 血の気が引く。超会話。魔女だ。あちらは私の事を知っているようだが誰だかわからない。

 『ど、どなたですか?』

 「あくびだよ。」

 そこには、知っているあくびとは全く違うすらっと痩せ、少し小さく、10歳以上若返った綺麗な女性が立っている。

 「ど、どうして。」

 「あら、知らないのかい。魔女なのにさあ。魔女はさあ、男を食べると若返るんだよ。おかげで美貌を取り戻せて素敵ったらありゃしないよ。」

 男を食べると若返る?初めて聞く。

 

 「それはそうと、ヤクモはどうしたんだい。家にいないじゃないかい。」

 「それが私が出かけているうちに出て行ってしまいまして。」

 「目を離したのかい。当たり前だろう。もうたぶん生きてないよ。あんたのせいだよ。」

 「数日、一緒に生活していて落ち着かれたので、少し安心していたのです。すみません。」

 「フン。それはそうと、あんたさあ、ねずみ島に行ったことあるねえ。しかもあの火事の日にいたよねえ。」

 なぜそれを?思わず何も言えなくなってしまう。


 「最初っから怪しんでたんだけどさあ、どうやってあの島に行ったかが全く分からなくてねえ。水の移動ねえ。あたしも使えるようになったから行って来たさ。火事の焼け跡、あたいの彼が働いているって言ってた場所だったよ。あんたあの日ねずみ島で何してたんだい。」

 何も言えず黙り込む。

 「あんたよね。あの火事起こしたの。爆発するかのように燃えたって魔法でやった証拠じゃないかい。」

 「あの日、私もお店に勧誘されて思わず怒ってしまい。悪質な業者に騙されているのだと思い。」

 「フン。認めたね。」

 「知らなかったんです。私、女性達は悪質な男たちに騙されて無理やり働かされていて、みんな開放されたいと思っているって思って。」

 「なんだい。あたいの彼が悪質な男だっつーのかい。

 確かにさあ、女を騙して自分だけ楽しんでるクズみたいな男はこの世にわんさかいるよ。でも風俗の世界だって良い奴はいる。本当に女性の受け皿になって助けたいって思っている人だっているんだよ。

 どこにだって悪い奴なんているじゃないか?キラキラの夢を見させて、超安月給で残業代も払わず死ぬまで従業員を働かせるクソみたいな経営者なんてそこら中に転がってるじゃないか。で、自分に都合が悪くなりゃ使い捨てる。この世はそんな奴らばかりじゃないか。風俗の世界を悪と汚いと決めつけ、排除することしか頭にないやつらに本当に私たちみたいな女が救えるって言うのかい。ばかばかしい。」

 「本当に知らなかったんです。」

 「あたしゃさあ、あんたみたいなキラキラのポエムの中で育った何もわからない理想論主義者や正義語る奴が大っ嫌いなんだ。そんな奴らのためにどれだけ意味のない理屈を押し付けられ、差別を受け苦しめられてきたことか。」

 あくびの両手が濃い赤に染まり始める。あたりの闇が赤い火に照らされる。


 「あたいの唯一の救いだった彼、返しとくれ。」

 「ごめんなさい。」

 あくびがものすごい形相でこちらに近づいてきた。

 何も言えないし、逃げることもできない。でも、そんなことしたらあくびさんだって。どうすべきかわからない。

 その次の瞬間、あくびの顔も赤く染まり出し、あくびの髪の毛から青白い火が立ち上り始めた。あくびの形相は赤く溶けるように垂れはじめた。

 「あ、熱い。熱い。なんだい。何が起きたんだい。」

 あくびが自分の顔を触ると、手が顔の中にめりこみ、また何本かの指が溶けて落ちた。全身が見る見るうちに赤く溶けてゆく。苦しみながらのたうち回り、家の壁に手をつく。

 「ああ、醜い。なんて醜いんだ。な、なんで・・・。」

 窓に映った自分の顔、姿を見、何とか出せる低く力のない声で呻き、膝から崩れ落ちる。青白い火に包まれながら、火に掛けたチョコレートのように溶けてどんどん無くなっていく。

 「助けて。死にたくない・・・」

 それが最期の言葉。その、そよ風にもかき消されそうなほど小さく弱い言葉と共に服の燃えカスだけを残しあくびは溶けて無くなっていった。家の壁には黒い焦げカスが薄く残った。

 その一部始終を瞬きすることすら忘れ見ていた。ミヤコから教わった「魔女は魔女を決して傷つけ殺してはならない」の掟に背いた呪い。あくびは本当に私を殺そうとしたのだ。気が付くと、大粒の涙が頬を伝っていた。


 足に力が入らない。全身震えて自由に動かせない。

 そんな状態でガクガクしながら前へと進んだ。家の横を通り、体は自然と「蛇の喉元」へと向かっていった。

 

 なぜ、なぜこんなに苦しいのか。

 何が悪いのか。ただ、数年前に教わった男の悪が本当なのか、そして女性がそれに苦しんでいるのなら助けたい、ただそう思っただけ。

 

 薬を手に取るが、飲むのを躊躇した。これもおそらくあれなのだろう。そう思うと飲めなかった。

 苦しい。息をするのも、歩くのも。視界もぼやけて見える。

 のたりのたりとその体は「蛇の喉元」へと近づいていった。


 崖下を眺めると身がすくんだ。

 灯台の光がうっすらと崖下にかかると黒い波が激しく岩肌にたたきつけているのが見える。風が強く、不意に何かに押されたような感じを覚え思わずしゃがみ柵にしがみつく。

 

 小学校の頃からお母さんの言うことをずっと聞いて生きてきた。他の子と同じように公園で鬼ごっこ、ゲームなどをして一緒に遊びたかった時も何度もあったが、でも毎日のようにお母さんが見つけてくれた塾に通い勉強した。勉強が好きなわけじゃないけど決められた事だから我慢してやったし、お母さんもそれで喜んでくれた。お母さんの気持ちを裏切りたくなかったし、怒られるのも嫌だったから少し嫌でも我慢して勉強した。そのせいか学校でのお友達はできなかった。

 お父さんは芸能関係の仕事をしていて、とても多忙だった。たまに帰ってくるといろいろと芸能関係の楽しい話をしてくれて嬉しかった。

 家は都市部の駅から近いタワーマンションの上階でみんなから「莉乃ちゃんはいいなあ」とうらやましがられた。私にとってはこれが普通だったので、その言葉になんと返してよいのかわからなかった。


 中学校はお母さんが決めた有名私立校を受験して合格した。お母さんも喜んでくれてとても嬉しかった。お母さんは厳しい人で家事、仕事共に妥協無く行動する人だったし、少しでもだらしないと私に説教した。私が勝手に選んだ洋服を着て出かけようとすると、コーディネートがバラバラだとか、ほころびがあるからと言って着替えされたりもしたし、髪型もお母さんが決めた。一緒に歩くのだからしっかりとした格好をしてほしいという理由からだった。趣味の面でもお母さんからピアノをやるよう言われ押し付けられるかの如くやらされた。嫌だったことも多々あったけど、そんなお母さんを尊敬していたし、お母さんのような人になることが当たり前で、人生はそうなるために頑張らないといけないことだと思っていた。中学受験の合格はその頑張りが報われた瞬間で、この時、自分の努力が喜びになることを初めて実感した。

 

 中学生のある日の事だった。お母さんが同じマンションに住む女性に挨拶をしたとき、その女性があからさまに無視したのを見た。何かあったのか聞くと、「別に何でもないのよ。」とお母さんは答えた。不思議に思い、それから同じマンションの人達のお母さんに対する振る舞いを気にするようになった。最初は気のせいだと思っていたが、無視、あからさまに避ける、こちらを見てコソコソと何か話しをする光景を見るようになった。

 

 お父さんが家に帰ってきたある日の夜、私が部屋で寝に入った後、ダイニングテーブルでお父さんとお母さん二人で話している会話をこっそりと聞いてしまった。

 「嫌がらせを受けている。引っ越したい。」

 旦那が芸能関係の仕事、娘は有名私立に通う、マンションの高層階に住んでいてお金持ちな事が皆の羨望の的となり、嫌がらせになっている。無視、嫌みを言われる、よからぬ噂を流されるなど陰湿ないじめを受けているのだという。先日も何の相談もなく勝手に理事会の責任者にされており、いろいろと仕事をすることになってしまったとのことだった。

 

 それを知ってから、私の中で何かが崩れていくような気がした。

 私もずっと鈍感だったせいで気がつかなかったけど小学校では遊びの輪の中に入れてもらえなかったことが良くあり、入れてもらえても嫌がらせの様なことを受けたりした。私が忙しいから仕方ないのかなと思っていた。たまに私に聞こえないようにヒソヒソ話しているのも何度か目にした。勇気をもって聞いたことがあったが教えてくれなかった。でも気にはしていなかった。

 

 中学校も勉強や習い事で大変で友達があまりできない。しかし、他のみんなも部活や塾などで忙しそうだけど友達とワイワイ楽しんで話している光景も目にする。スマートフォンの無料通話サービスで友達のグループを作って楽しんでいるのも見る。私にも連絡が入ることはあるがグループ登録は一つもない。

 たまにお話しする友達もいる。普通に会話はするけどなんだかよそよそしい。友達通しで別の人の悪口を言っているのをたまに耳にすると、私もみんなから無視され、よからぬ噂が広まっていて、悪口を言われみんなから敬遠されているのだろうか。そう思うようになった。

 

 ずっと尊敬していたお母さんが仲間外れにされ嫌がらせを受けている。私も気が付くと同じ立場。

 今、中学校2年生。修学旅行の季節になりグループ決めの話題でみんなが盛り上がり始めると恐ろしく怖く、みじめで自分がどうしてよいかわからなくなる。誰にも相談できず家で一人泣く。


 打ち付ける波を見ながら、何もないところに問いかける。

 「私は何のために努力してきたの?私の何がいけないの?これから何を信じればいいの?

 私、これからどうすればいいの・・・。」

 一人になりたくなっただけであてもなくいつもと逆の電車に乗り、気が付くと終点にたどり着いていた。インターネットでこの駅周辺について調べ、いつの間にかここに来ていた。

 波の動き、一枚岩、たまに薄暗く照らす光の揺らめきが私を招くように見える。


 宇佐美莉乃は、崖の下を覗いていた。

 不意に強い風が背を押してきた。反射的にかがみ、木の柵にしがみつく。

 崖底の暗い海面には丸い一枚岩がありゆらゆらと揺れている。それを挟む、ちょうど蛇の口にあたる岩肌を見ていると、それが徐々に広げた腕のように見えてくる。一枚岩はまるで微笑んでいるかのよう。「温かく優しく抱きしめてあげる。おいで。」と「蛇の喉元」から声がするような錯覚に陥る。


 また風が吹く。風も私の自殺を応援しているかのよう。

 ふと風が吹いたほうに人の気配を感じた。見ると遠くにふらふらしながら歩く少女がいた。一瞬、その挙動から小さなおばあちゃん、または浮遊する幽霊にも見え恐怖を感じた。

 その少女は生気がなく、小さく震え、今にも泣き出しそうな顔でふらふらと近づいてきた。風が吹くと、紙っぺらのように傾いた。

 やがて少女はこちらに気が付き私の顔を見た。泣きそうで力のない顔が急に引き締まる。この少女も私と同じ、ここを人生の最期にするべく訪れたのだろうか。

 「す、すみません。どうしてこちらに・・・。」

 その声は風にかき消されるほど小さく、そして震えていた。想像と違う問いかけだった。私が逆に聞きたいくらいだ。あなたはいったいどうしたのって。

 「少し、悩み事があって。」

 「悩み事ですか?」

 「ええ、少し、仲間外れにされているというか・・・。」

 

 その瞬間、その少女は飛び掛からんばかりに私に近づき、そして力強く私を抱きしめた。あまりの反動でそのまま崖に落ちるかと思いヒヤッとする。

 私を抱きしめた少女のその体は今までいっさい生気が感じられなかったとは思えないほどの温かさと力に満ちていた。

 「おねがい。もう、もう誰にも死んでほしくない。そんなことで死のうなんて思わないで。」

 震えた、でも力のある声だった。

 胸元には生暖かさを感じる。泣いている。こんな今あったばかりの名も知らないであろう私のために泣いてくれている。あなただって私よりももっと辛そうにしていたのに。

 目からこらえていた涙がどっと溢れてきた。


 少女は私の胸に、そして私は少女の背中に顔をうずめ二人で泣いた。

 涙を袖で拭い、大丈夫、ありがとうと言おうと顔をあげたその瞬間だった。

 辺りの闇に、浮遊する白銀の光の粒が現れ辺りを包み一斉に照らし始めた。それは、まるで何万匹もの蛍が一斉に飛び交っているかのよう。はたまた、星たちが光を浴び一斉に輝き空を舞っているかのようだった。

 光はどんどんと強くなり辺り一面を覆い今までの暗闇が白銀の世界へと一変する。光の高原とでも表現すれば良いのか。なんと美しいのだろう。間違えなくこれまでに見たことがない最高の美しい光景だ。このようなものがこの世の中に存在するのか。天国にでも来てしまったようだと思った。

 ふと「蛇の喉元」のほうを見ると、崖の中腹あたりに大きな人の形のようなものが見える。限りなく薄く透明ではっきりとはわからない。

 だが一つだけはっきりと感じる。それは決して手招いているのではない。絶対に来てはいけない、と何とかして追い返そうとしているのだ。


 ふと気が付くと、光の粒は消え、また辺りは闇の世界へと戻っていた。また何の感情もない風が顔に吹きつけ涙を横に流した。

 ほんの一瞬だった。何だったのか。一瞬夢でも見たのか。

 その美しい光景はずっと目に焼き付いて離れなかった。

 

 私を抱きしめる少女はまだシクシクと泣いていた。たまに力なき声で「駄目。死なないで。」とつぶやいていた。

 なぜか、自分が、今ここで悩んでいたことが馬鹿らしく思えた。本当に悩んでいたことが信じられないくらいだった。

 「大丈夫。私は大丈夫だよ。ごめんね。だから泣かないで。」

 少女の頭を優しく撫でながら、はっきりとした口調で伝えた。

 それでもしばらく少女は泣いていた。少女から徐々に力が抜け落ち着いてきたので、お家の場所を聞き、そこまで肩を抱きながら送り届けてあげた。

 

 玄関に着くと図々しいとは思ったが一緒に家の中まで入り、少女を椅子に座らせ背中をトントンと叩いてあげた。少女の顔は赤く貼れ、涙の痕がくっきりとついていた。

 何があったのかを聞いたが、少女は「大丈夫。」とだけ答え何も教えてはくれなかった。

 ずっと無言のままでいるのが気まずく感じ、なんか頭がすっきりしていろいろと喋りたくなり、重ねて図々しと承知しながらも私がここに来た経緯を勝手に話した。少女は元気なさそうながら、私の話を真剣に聞いてくれていた。まだ小学生なのだろう。出会ってまだ1時間くらいしか経っていないのに、その心の強さ、誠実さは私とは比べ物にならないほどしっかりしている子であると感じた。

 

 少女が落ち着いたので、私は親が心配しているから帰ると告げると少女は言った。

 「莉乃さん。先ほどのお話で海外で人を助けるような仕事に就きたいっておっしゃってましたね。もしよろしければこちらをお持ちになってください。」

 そう言って渡されたものは、エルティア行のチケットと手のひらサイズの小さな勲章だった。

 「その勲章は、城の特別教育を受けるための推薦状の代わりになります。良かったら訪れてみてください。」


 なんだか急にものすごいものをもらった。こんなものいただけないと断ったが「助けてくれたお礼です。是非」と言うので恐縮ながらいただくことにした。

 まったく意味が分からなかった。まるで鶴の恩返し、浦島太郎にでもなった気分だった。

 

 帰り、少女は玄関まで送ってくれた。少女は、「夜道、暗いのでお気をつけて」と言いながらなんとか作っている笑顔で手を振ってくれた。

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