無題

伊島糸雨

 


 降りしきる雨の滴りは、時に押し殺した悲鳴のように耳に届く。

 鉄の階段を踏む靴音は陰鬱な都市の狭間に蟠り、白い吐息は未練がましく宙を漂って霧散する。排水溝の呻きが四方を満たし、水を吸ったシャツが肌に吸い付いて、離れない。

 鍵はかけ忘れたのだったか──ドアを肩で押し開け、よろめきながら暗闇に身を浸す。肩に回された腕の重みを抱えたまま、濡れそぼった髪を乱し、荒い息を吐く片割れに目を向ける。虚ろに投げ出されていた視線が私を捉え、その瞳のうちに暗い欲動の火が灯るのを、私は見た。

 すがりつくように回された腕に引き寄せられる。仕事着のスーツの隙間、襟をかき分け首筋に鼻先を突き入れた彼女が、舌を這わせてこびりついた血を舐める。かすかな痛みは瞬く間に悦楽へと姿を変え、傷つき流した血と、傷つけ流した血の芳香に、私たちは酔っていく。

 命の危険に晒されながら他者を害すれば害するほど、四肢を巡る血潮は熱を持ち、甘い疼きを伴って鼓動する。ずっとそうだった。私たちがともに手を血に染めてから、二人一組、この雨に溺れる街で、暴力の担い手として日々を送ってきた。幼い頃には私たちも異なる道を歩み、それぞれの平穏を享受していたが、今や二つの生の線は絡み合い、逃れ得ぬ運命に全身を貫かれている。電話一つで人を殺す。そんなろくでもない運命に。

 スーツを脱ぎ捨てながら、部屋の中央へと向かった。薄明かりに照らされるのは、古びたベッドと、壁際に並べられたいくつもの水槽。本来あるべき魚の姿はなく、張られた水は光を透過して、粘つく輝きを投げかけている。

 魚を飼おう、と言ったのはどちらだったろう。たいした知識もないまま、水槽を用意し、適当な金魚を買い、水の中に放り込んで、結局死なせた。何か温かな命をたくさん飼えば、少しは満たされるかと思ったが、ダメだった。返り血のような赤い鱗も、喪服に似た黒い鱗も、最終的には生臭く白い腹を晒して死に絶えた。目を濁らせた金魚たちが水面に浮かぶ様を、人の水死体じみて間抜けだと思ったのをよく覚えている。

 生命を生かすなど、私たちにはできやしないとわかっていた。だからそれきり、水槽に水以外のものが入ったことはない。ずっと空っぽ……空っぽだ。

 ベッドに倒れこみ、死の匂いの纏わり付いたシャツを脱ぎ去って、私たちは露わになった互いの姿を真に認める。傷跡にまみれてもなお、弱く、柔らかく、頼りないこの肉体、臓腑の詰まった、彼女の身体を。

 貪るような口づけをしながら、口内の裂傷を探っては、舌先を押し付け桜色を赤く染める。彼女がくれるこの痛みこそが、私たちにとっての理解の証だった。昂ぶるものを与え、共に高揚する。冷たく閉塞した都市景に一抹の熱を灯す。目を逸らし、耳を塞ぎ、口を縫い付け、指を落とせども、心を苛む憂鬱から逃れるために。

 雨音は激しさを増し、湿った腐臭が室内に漂っている。きつく握りしめられたシーツが皺を刻み、血臭が呼気と混じる。見下ろした彼女の首には、指の跡がくっきりと残っている。私はそれを指先でなぞり、彼女の頷きに誘われて、ゆっくりと、力を込める。

 血流を、気道を塞ぎ、雨の降るこの水槽で溺れるように。細く苦しげな呼吸を乱せば、彼女の頬は赤みを増した。窒息と快楽の境界を揺らぎ、その応酬に、彼女の指が痣に触れる。

 痛い、痛い、と頭の中が喚くほど、他のたくさんの鬱屈も、記憶に刻まれた苦しさも、すべて遠ざかって私から離れていく。今この瞬間を生きて行ける──彼女と共に。

 どれほど上等な服を拵えたって、自分と誰かの血で台無しになる。そうとわかっていても、覆い、鎧わずにはいられないのは、私たちが愚かだからだ。どんな悪徳を重ねても、孤独のままに消えてしまうのは、いつだって怖いと思う。

 空っぽなのは私たちも同じだった。与えられた器を、吐瀉物で満たすことしかできない。

 私たちはあの哀れな金魚だった。下水に集う雨水に窒息してようやく、どん底から浮き上がる。

 他の生き方を知らなかった。おそらくはそれこそが、私たちが犯した、何よりの過ちだったのだ。


 ふと、どこかで着信音が鳴り響いた。微睡みを引き裂き、殺せ、奪えと耳元で囁く、あの甲高い旋律が、どこかで鳴っている。

 私たちは手を止めて、その音に耳を澄ませる。


 いつか、私たちは罰を受けるだろう。積み上げた罪に見合った、相応の裁きを。

 それは凄惨な死であるかもしれないし、あるいは刃で彩られた生かもしれない。結末へと至る過程がどのような形をしているのか、私たちが知ることはない。運命とは往々にしてそのようなもので、しかし結末だけは、どんな時でもはっきりしている。

 穏やかな幸福はありえない。可能性は閉塞し、都市の水槽には止まない雨が降り注ぐ。そしてその片隅で、汚水に塗れて死んで行くのだ。

 願わくば二人でと思う。しかしそれすらも、私たちには過ぎた祈りなのだろう。


 電話が鳴っている。

 私たちを暴力へと誘う甲高い旋律が、どこかで、鳴っている。

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無題 伊島糸雨 @shiu_itoh

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