第36話 それぞれの宿敵
「出直した方がよさそうですな。これでは戴冠式どころではあるまい」
法王はロホランにそう告げ、直臣の兵たちに護衛されながら去って行った。彼にならい、国賓たちもそそくさと見物客の輪の最前から離脱していく。ロホランはなにも言わず、宰相のキホルはうろたえるばかりで事態を収拾させることはできなかった。
一方、大勢の見物客たちの真ん中あたりでは。
「
先の貴婦人姉妹――に見えていた二人のうち、小柄な方が周囲の人々に例の紙片を配っていた。かぶっていた帽子を
「どうぞ、好きなだけ持っていってください。昨日徹夜してたくさん書いたんですから。ね、ミルティーユさん?」
ポミエはそう言ったが、背の高い方――ミルティーユの背中はすでに群衆に紛れていた。
そのころ、処刑台の上では。
眼下の特等席に座るロホランに、フレーズは大胆にも剣の先を向けて言いはなった。
「ロホラン、アンタたちはもう終わりよ。いさぎよく負けを認めなさい」
「…………」
ロホランは椅子の肘掛けに頬杖をついてフレーズを睨んでいたが、
「たしかに、状況は芳しくないようだな」
そう言うと、おもむろに椅子から立ちあがった。
「だが、おまえの言葉のとおりにするわけにはいかん」
ロホランは腰の剣を抜き、それを背後を守る兵とその先の群衆に向け、大音声を張り上げた。
「道を開けよ!」
その声は群衆のさらに先にそびえる城壁に反響した。
掲げた剣に切り裂かれたように、群衆が真っ二つに割れて道ができる。その道をロホランは城壁へ向かって歩き出した。
「待ちなさい!」
フレーズは助走をつけ、狭い足場を強く蹴って跳んだ。
その瞬間、彼女のスカートの中を見た者がいれば、薄桃色の『勝負パンツ』から電流のような光がほとばしるのを目にしたことだろう。
そうして彼女は跳んだ――というより、飛んだと表現するほうがふさわしいほどの、それは大跳躍だった。
宙を舞うフレーズは警備の兵の頭上を越え、そのまま十人ほどの群衆の上も飛び越えて、我が道を歩いていたロホランのすぐ横に着地した。そのまま余勢を駆って十歩ほど走りぬけ、土埃をあげながら急停止する。
振り向いて顔を上げたフレーズは、ロホランの前に立ちはだかっていた。剣の先を再び向けながら言う。
「逃がさないわよ」
その姿を見て、ロホランは高笑いをした。
「ははは、面白い! この俺に戦場以外で刃を向けたのは、おまえが初めてだ。いいだろう、少し稽古をつけてやる」
少しのためらいもなく、ロホランはフレーズに向けて剣を振りかぶった。
「――ッ!」
鋭い金属音が鳴り響く。
「ぬぅッ⁉」
ロホランは驚きに目を見張った。防御したフレーズの剣に、攻撃した彼の剣がより大きく弾かれている。予想だにしない感覚だった。相手は小娘、自分が力負けするはずはない。
歴戦の勇者の勘でもって、彼はいったんさがってフレーズから距離を取った。
それは後方で見守る兵たちにとって驚きの光景だった。ロホランはかつて戦場で自ら刀槍をふるい、数々の武勇伝を打ち立てた英雄だ。その彼が小娘を相手に後退するなど、考えられないことだった。
「ロホラン様!」
主の元へと駆けつけようとしたゴーシュの、目の前に突如なにかが降ってきた。
「まぁ待て。おまえの相手はこっちだ」
「貴様……また僕の邪魔をする気か!」
ゴーシュは眼前に立ちはだかった男――無一に憎しみのまなざしを向けた。互いに剣を抜き、しばし睨みあう。が、彼にとって優先すべきは宿敵との決着をつけることではない。ゴーシュは背後の兵たちに向かって怒鳴った。
「なにをしている、早くロホラン様をお助けしろ!」
命令を受けた兵のうち数人が、さきほどロホランが群衆を割ってできた道を駆け出そうとしたとき。
「行かせはせん!」
野太い声とともにライデンが躍り出て、白刃を抜き放った。対峙していた数人は国王直属騎士団の所属だったが、数日前まで兵団長だった男の強さを知らないではない。彼らは一瞬ひるんだが、多勢に無勢だと思い直して眼前の男に挑もうとした。しかし――
「近衛兵団の皆さん、ライデンを守って!」
王妃ロランジュの鶴の一声で、近衛兵団所属の兵たちが一斉に動いた。数の上では国王直属騎士団に勝る彼らである。ライデンに向かっていこうとしていた数人をたちまち取り押さえると、寄り集まって“道”を封鎖した。国王直属騎士団の兵たちは、その先のロホランの元へと馳せ参じることができなくなってしまった。
「近衛兵団のなまくらどもめ……。僕の命令を破ってただで済むと思うなよ」
憎々しげにゴーシュが言うと、兵団の中の一人が返して言った。
「団長様、私たちよりご自身の心配をなさったほうがよろしいのでは?」
ゴーシュははっとしてロホランの方を見た。
そのロホランは、いまだフレーズと剣戟を交えている。
「……つまらん」
何度か白刃を打ち鳴らすうちに、彼は眼前の相手がいまだ迷っていることに気づいていた。すなわち、彼女には殺してでも自分を止めるというほどの覚悟はない。だから、剣に冴えがない。そのうえ、当初は驚いた
このまま時間を稼がれても、彼にとっては一向に面白くなかった。遊びはこのくらいにしておくか……。
「ノワ、この娘を殺せ」
虚空に向かってそう命じたロホランを見て、フレーズは血迷ったのかと思った。
だが、その直後。
「承知した」
どこからか声が聞こえたかと思ったときには、もう遅かった。
鈍い銀光が目の先でひらめく。フレーズにはそれが顔面に向けて投げられたナイフだということだけがわかった。それはすなわち、死を意味していた。
瞳の中で閃光がはじける。
だが、予想に反してフレーズの意識が闇に呑まれることはなかった。
彼女の瞳は、視界の端で地面に突き刺さったテーブルナイフを映していた。そして一瞬ののち、見慣れた黒い靴を履いた女の脚がそこに現れた。
「お嬢様、お下がりください」
ミルティーユが現れていた。フレーズの目の前、同じくいつの間にか現れていたノワとの間に。
そのミルティーユが、背負っていたパラソルの先を眼前のノワに突きつける。
「お嬢様に手を出すなら、殺しますわよ」
「こっちのセリフだ」
武器を向けられたノワもまた、首を刈り取る形をしたナイフを両手に構えた。
二人の発するすさまじい殺気の波動が宙空でぶつかりあい、火花を散らす。
思わず息を呑んだのはフレーズだけではなかったろう。気を取られたのは一瞬。
だが、その一瞬のうちにロホランはフレーズの横を通り過ぎ、城壁の方へ早足で歩みを進めていた。
「フレーズ、追え!」
無一の声が聞こえ、フレーズははっと我に返った。
「お嬢様、彼を逃がしてはなりません!」
「フレーズ殿、頼みますぞ!」
ミルティーユとライデンの声も聞こえてくる。
「うん……行ってくるわ!」
皆の言葉に背中を押され、フレーズは走り出した――はずだった。
だが――駆けだして数歩のところで足がもつれ、転びそうになった。慌てて剣を地面に突き立て、それを杖にして身体を支える。息が弾み、全身から汗が噴き出た。フレーズは自分が異常なほど疲労していることを悟った。しかし、なぜ……。
(あわわわ……。フレちゃん、もしや魔力切れでは……?)
林立する人々の間から顔を出して見ていたポミエだけが、フレーズの状態を正確に察知していた。
膝に手をつき、肩で息をしながら、フレーズは顔を上げた。そして、城壁の階段を上ってどこかへ行こうとしている宿敵の姿を睨んだ。
(……疲れたなんて言ってる場合じゃないわ。走りなさい、フレーズ!)
自分自身を
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