第15話 旅立ちと別れ

 翌朝。

 ミルティーユは走っていた。

 屋敷のある丘から港へ向かう下り坂を全力で駆けおりる。息を切らし、汗まみれで、色白の顔をさらに蒼白にして。



 昨晩。

 一日の仕事を終えて湯浴みを済ませたミルティーユが、自室のベッドに横になろうとしていたときだった。

 ノックの音に応じて扉を開けると、そこには寝間着姿のフレーズが枕をかかえて立っていた。


「その、なんだか眠れなくて。久しぶりに……いい?」


 もちろんミルティーユは一も二もなく快諾した。

 彼女にせがまれて『よく眠れるお香』を炊き、二人並んでベッドに身を横たえた。

 久しぶりの、そしてこの上ない幸せ。ミルティーユの頬が緩む。けれど――


「なにかお悩みがおありなのですか」


 やはり、そのことが気になった。話してほしかった。けれど。


「うん……。だから早く寝て忘れたいの」


 そう言われると、無理に聞くことはできなかった。


「でしたらよく眠れるように、昔のように抱きしめて差し上げましょうか♪」


 半ばふざけて言うと、「さすがにそこまでしなくても」と苦笑された。


「でも、ありがとう。……大好きよ」


 そうささやくと、フレーズは頬にキスをしてくれた。

 ミルティーユは脳内が真っ白になった。幸せだった。



 初めて屋敷で見たとき、フレーズはまだ赤ん坊だった。

 なんてかわいい赤ちゃんなんだろうと、当時九歳だったミルティーユは感動した。

 だから、屋敷の主人から彼女の世話を命じられたときは心おどった。


 けれど『お嬢様』は、最初のうちはなかなか懐いてくれなかった。いなくなった両親が恋しかったのだろう。「ママ」という唯一喋れる言葉を連呼していつも泣いていた。

 抱っこしてあやすミルティーユも大変だった。彼女自身もまだ十歳にも満たない子供だったのだから当然だ。乳母ナースメイドになるにはまだ若すぎた。


 考えた末に、ミルティーユは「ママ」になることにした。

 赤子が「ママ」と泣くたびに、優しく抱っこして「ママですよー」とささやく。最初のうちは余計に泣きわめかれたが、来る日も来る日も根気よく続けた。


 ある日、いつものようにあやしていると、ふいに赤ん坊が泣き止んだ。「おや」とミルティーユは首をかしげた。

 赤ん坊はそれからどうしたかというと――

 ミルティーユの指を小さな手で握って、「ママ」と笑ったのだった。


 その瞬間、ミルティーユの人生が決まった。


 その日以来、立場としては乳母ナースメイド侍女メイドでありながらも、ミルティーユはときには母として、ときには姉としてフレーズと接してきた。十五年ものあいだ片時も離れることなく、彼女を育て、共に暮らし、成長を見守り、愛情を注いできた。

 ずっと『お嬢様』を愛していた。愛することが幸せだった。



 けれど――昨夜は幸せすぎたのがいけなかった。そのことがミルティーユの判断を曇らせた。

 今朝彼女が目覚めると、隣にフレーズはいなかった。

 枕の上に手紙が置かれていた。

 それを読んだミルティーユの目から、ひとすじの涙が流れた。



 ミルティーユが港に着いたとき、フレーズの乗った船はまさに出航したところだった。

「お嬢様!」

 叫び声が聞こえ、フレーズは船の縁から身を乗り出す。桟橋の先端に最愛の侍女メイドの姿があった。


「どうして……どうして言ってくださらなかったのですか!」


「だって、言えばきっと止められると思ったから」


「当たり前ですっ!」


 怒声に涙の色がまじった。二人の距離はすでに、互いに声を張り上げなければ会話すらできないほど離れている。


「理由も告げずに大陸へ行かれるなんて……」


「ごめんね。でも、どうしてもやらなきゃいけないことがあるの」


「島はどうなりますか。この島を守る騎士になるとおっしゃっていたではないですか」


 痛いところを突かれ、フレーズは胸が痛んだ。彼女は拳を握りしめて言った。


「だから行くの。島を守るには大きなことをしなくちゃいけない。この島にいたらこの島は守れない。島のためなの!」


「だとしても、なぜわたくしが一緒に行ってはいけないのですか」


「ごめん……でも理由は話せない。巻き込みたくないの」


 これまでずっと育ててくれた。守ってくれた。

 そんなミルティーユのことが大好きだからこそ。


「今度は私があなたを守りたいから!」


「お嬢様……」


 差し伸ばしていたミルティーユの手が、力を失ったように身体の横に垂れた。もう連れ戻すことはできないと悟ったかのように。


「フレーズ様、船室にお戻りを。これ以上大声を出されますとキホルたちに勘づかれます」


 いつしか歩み寄っていたゴーシュにうながされ、フレーズは島に背を向ける。


「フレーズ!」


 大きな声に振り向くと、ミルティーユの隣に無一の姿が見えた。たったいま走ってきたのか、肩が上下している。


「覚悟はできてるんだろうな?」


 フレーズは彼に見えるように大きく頷いてみせた。


「そっか。気をつけろよ」


 去って行く船の背中に声を張って声援を送ると、無一はその場にどっかりと座り込んだ。懐から愛用の煙管キセルを取り出し、中身もないのにそれを咥えてぼんやりとする。


「……なぜ、もっと強く止めてくださらなかったのですか」


 背後から涙声で問われたが、無一は振り向かずに船を見つづける。


「あんたが止めても聞かなかったんだ。俺なんかがなにを言ったって無駄だろうさ」


「でも……」


「あいつはなにかを決意して巣を飛び立ったんだ。信じて見送ってやるのも、親心ってもんじゃねえか」


 親心……。そうか、これが親の気持ちなのか。ミルティーユは少し腑に落ちた。


「…………そう、かもしれませんわね」


 ミルティーユはハンカチで涙を拭いた。大事な娘が他家に嫁ぐときの親の気持ちも、こんな感じなのかもしれない。愛していればこそ、いずれ味わわなければならない感情だったのだ。それに、もう二度と会えないというわけでもない。



 桟橋に立ち尽くすミルティーユの姿が見えなくなると、船上のフレーズは涙を拭った。

身を翻し、進行方向へ向かって甲板を歩く。端にたどり着くと、細くなった船首の先が波を切り裂いて進む様子を眺めた。

フレーズは剣を鞘から抜き、その切っ先を前へ――倒すべき相手のいる王国の方向へと向けた。そして、自分自身に対して決意を宣言した。


「ロホランの野望は、私が必ず止めてみせる」

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