第29話
家につき、シワまみれになったスーツに手を伸ばした。ハンガーにかけ、誤魔化し程度にシワを伸ばす。こんなことならクリーニングに出しておけばよかったと、少々後悔した。
少しだけオレンジに染まった空を窓の外に写し、俺は持ってきた日記を机の上に置いた。
ブルーの表紙に「十年日記」と記されているそれは、絶妙な古さを感じさせる。使い古されているようで、けれどどこか新品のようにも思えて、不思議な感じだ。
景倉がすでに亡くなっていることを知らされた時は、信じられなかった。今もまだ信じてはいないのかもしれない。実感が無くて、もしかしたら同姓同名の違う人の話をしていて、しれっとどこかで生きているのではないかとすら思う。
この日記を開けば、それが全て分かる。
彼女が死んでしまったという事実を頭から受け入れることになる。
不意に怖くなる。このまま閉じたままにしておけば、景倉は俺の中でずっと生き続けられるのではないか。今もどこかで生きている未来を、この日記は永遠に閉ざしてしまうのではないか。
でももし、ここで自分が開かなければ。
この日記は永遠に開かれることはない。
三枝夫妻はこの日記を諦めた。読むのが怖くて、真実を知りたくなくて。気持ちは痛いほどに分かる。
でも、ここで俺が引けば。
景倉の想いを知る人は、もう誰もいなくなってしまう。景倉が何を考えていて、何を思っていたのか。その全てが闇の中に閉じ込められてしまう。
それは嫌だった。
俺は震える指先で表紙をゆっくりなぞり、ページを捲った。
十二歳一月、日記を書き始める。理由は特にない。ただ本屋さんで面白いものを見かけたから、買ってみた。
十年日記。十年間日記を書き続けるらしい。
私は景倉彩香。小学六年生。普通の小学生だ。
普通じゃないことといえば、親が普通じゃないこと。母親は私のことを殴るし蹴る。そして母親の彼氏も一緒に私のことを打った。
タチの悪いことに、それは顔以外。お腹や胸、背中とか、見えない場所に痣をつくるの。
死にたい。
毎日思う。
けれど死ぬ勇気もない。
なかったから、笑った。
きっとそういう家庭の子はいじめられると思ったから、必死に普通のふりをして、笑った。勉強ができないとそういう家族のこともばれると思ったから、人一倍勉強を頑張った。おかげで、テストはいつも百点だった。
そのうちに、勉強が楽しくなった。いつか大学に行けたら、なんて思うことも増えた。小学生でも、そう思えるほどに勉強は救いだった。
だから中学生になれた時、とても嬉しかった。いろんなことをたくさん知れて、すごく楽しくて、嬉しかった。
新しい友達もできた。家に帰る時間が遅くなっても何も言われない。中学生は楽しいなと、そう思った。
日記が少しずつ埋まっていくのも見ていて好きだった。三日坊主で終わると思っていたけれど、書き始めていくと結構楽しい。日々を重ねている実感が湧いた。
そして十年後のことを思った。
十年後は二十三歳になる。もしかしたら、大学を出て働いているかもしれない。そう思うと、暴力を受けている時も不思議と気が楽になった。
そんな日々を積み重ねていると、母親の恋人が変わった。今まで見てきた人の中で、一番綺麗な服を着ている人だった。
会話を少しだけ聞いてみると、向こうは会社を経営する社長のようだった。その人は変わった人で、私にも優しくしてくれた。母親の恋人で優しくしてくれたのは、彼が初めてだった。
そんな人を嫌いになる理由もなく、むしろ私は快く彼を家に迎え入れた。彼はお金を持っていたから、学校に必要なお金も与えてくれた。
彼は悪い人ではない。そう思っていた。
それが変わったのは、中学二年生になってからだった。
夕方、家に帰った。母は仕事で夜はいないから、私はいつも鍵を開けて家に入る。しかしその日は、鍵が開いていた。
家にいたのは、母の恋人。
今までそういうことはなかったから、私はとても驚いた。でも、相手がその人だとわかってすぐに安心して部屋に戻った。
その時だった。
私が扉を閉めようとした時、彼の左手がそれを防いだ。そして部屋の鍵をかけ、私をベッドに押し倒した。
その直後、セーラー服のリボンが強引に解かれたことと、制服のボタンが引き千切られたことは覚えている。それ以上は、記憶に蓋をした。
翌朝、目が覚めると私が身につけていた制服はベッドの上から地面に散らかり、下半身が痛んだ。思えばあの鍵も、あいつが二週間前に設置したものだった。『母からあなたを守るためだ』ってそう言って。けれど本来の目的に気がついた時の絶望といったら、この世で他にはない。
終わった。
人生が終わった。
そう思った。
死んでやろうと思ったけれど、勇気が出ないまま時だけが経ち、下着が血に染まったのを見て、やめた。あの時ほど安堵した出血は無かった。
その日以降、私は警戒しながら家に帰り、あの人がいる空間に近寄ろうと思わなかった。それでもお風呂に入っている時、死ぬほど落ち着かなかったことは今でも忘れられない。
水の音が嫌いだ。その時のことを思い出すから。扉の前でじとっとした顔でこちらを覗いている人影を思い出すから。
母親には言わなかった。自分がどうなるかわかっていたから。信じてもらえるわけもない。信じてもらえたとして、私があいつを誑かしたとか、そういうことを言って、私を殴るだけだから。
恐怖に怯えながら生活し、私は中学三年生になった。
クラス替え。いつまで経っても慣れない。けれど、前の座席になった彼には見覚えがあった。
緒方俊平。
一年の時にも見た光景だった。その時より少しだけ、背が伸びている。
『おお、景倉。今年も一緒だな』
明るい人だった。私が持つ暗闇なんて微塵もないんだろうと思わせるくらい。
どうしようもないくらい、羨ましくて。
『一緒だね』
けれど不思議と嫌な気がしないのは、彼の人柄だと思う。
彼は部活が無い日、よく私の前に来た。勉強を教えて欲しいと言われ、私はそうした。一人きりで勉強するのも好きだったけれど、誰かと勉強するのは新鮮だった。
楽しかった、のだと思う。
同性の友達はいた。千夏という、静かな人で優しい人だった。彼女はとても繊細な人だったから、守ってあげたいと思うようになって、近くにいたのだ。
けれど、緒方はその逆だった。
初めてできた男子の友達。それに彼は一緒にいるだけで人を元気にしてしまう才能に溢れている。それは彩香だけではなく、老若男女問わずだった。
そんな彼が自分を頼ってきてくれるのが嬉しくて、そしていろんな話をしてくれるから、楽しくて仕方がなかった。時には勉強をしないで、ただ喋るだけで終わる日もあった。
『ここわかんねー!どうやって解くんだよ、わからん!もう知らん!』
『そんなことないよ。ちゃんと見ればわかるから』
『そりゃ景倉はできるだろうけどよー?俺は景倉みたいに頭よくねえの。そういうやつには教科書に落書きしてやる』
『あ、良くないよそういうの』
『はい。すんません。八つ当たりだな、ちょっと休憩するわ。図書室で参考書借りてくる』
そんな普通の中学生の日々が嬉しくて。
だから私はあの時、そっと書き記した。
そんなある日、彼が突然言った。
『景倉はさ、将来の夢とかある?』
彼の突然の問いに、私はしばらく固まった。
わからなかった。
考えたこともなくて。
思えばそんなこと、聞かれたことなんてなくて。
私の、将来。
『そうだな...私は』
その先の答えを、彼は今も覚えていてくれるだろうか。
『景倉、高校どこ受けんの?』
『え?』
『いや、そういえば聞いてなかったなって思って』
『んー...内緒』
『えぇ?なんだよ、教えろって!』
『ううん。内緒』
内緒にしたかったのは、単に恥ずかしかったからで。
中三だ。この日々はいつか終わってしまう。それは最初からわかっていた。
だから、彼と同じ高校を志望した。この日々を少しでも続けたくて、高校生になっても放課後、チャイムがなるまで一緒にいたくて。
でももし、自分が彼と同じ高校を志望していることがバレれば、私がレベルを下げた学校を受けたことがバレてしまう。そうなれば、いつか自分の気持ちもばれてしまうんじゃないかと思って、言い出せなかった。
入学した四月、ちょっとしたサプライズになればいい。その程度に思っていた。
だから必死に頑張って、彼にも勉強を教えた。彼が落ちてしまうのは二重の意味で嫌だった。
また一緒に話せるように。
そう思って。
そう思っただけなのに。
受験の前日だった。
私は真夜中、目が覚めた。緊張していたのだと思う。浅い眠りを繰り返し続けたので、一度体を起こしたのだ。
そして、絶望を見た。
その日は鍵を開けて家に入った。あいつはいないのだと思って安心して、過ごした。
けれど、あいつはいたのだ。
私のベッドの下に、ずっと息を潜めて。
むくりとベッドの下から這い出てきたそれが上に覆いかぶさってきた時、私は叫んだ。
明日は受験なんだと。絶対に休めないのだと。だから今日はやめて。今日以外だったらいいから。
だからお願い。
するとそれは汚い声で言った。
『高校の学費を払うのは、俺だ。逆らうなら、学費は一切払わないし、母親に言うぞ』
絶望の上書きだった。
星のない空はどれほど暗いのだろう。衝撃の中、私は考えていた。
長野の空は綺麗だ。小さな星々が連なって、大きな河をつくるのだ。暗い部屋から眺めるその星空が、幾度ともなく私に勇気をくれた。手を伸ばしてみても届かないのが、悔しくてたまらなくて。
ああ、私もあの星になれたら。
あの星の中の一つになって、誰かに光を与えられたら。
あの人のように、ほんの少しだけでいいから。
意識が途切れた。
このまま目覚めなければいいと、心の底から願った。
目が覚めたのは翌日の夕方になってからだった。
目覚めてしまった自分を刺し殺したくなったのは言うまでもない。前回のことがあったので、ピルを飲んでいたので最悪の事態にはならなかったと言えるのかもしれない。
ただそれだけだ。私以外の人にとっては、本当にそれだけ。
絶望を抱えながらその後の日々を過ごした。いつの間にか緑山高校に進学することになっていたのは、母親の計らいだったらしい。あれが私にやったことが母の目に触れた。母は、私を殴らなかった。
卒業式を迎えられたことが、嬉しかったのか悲しかったのか、あるいは腹がたったのか、わからない。けれど、出てよかったとは思う。
児童相談所に無責任に連絡した副担任のことは大嫌いだったし、当たり前のように虐待を無視する担任は殺したくなるほど憎んでいたが、それ以外の教師はしっかりと授業を教えてくれた。
それに何より、大切な友人がいたから。
『彩香ちゃん、これ、私の住所。もしよかったら、お手紙、書いてくれると嬉しいな』
ありがとう。必ず書くから。だから待っていてね。もし、あなたが受け入れてくれるなら、話したいことがたくさんあるから。
『景倉ー!』
何度も聞いた声だった。
『景倉、その...写真撮ろうぜ!ああ、ほら、円堂も一緒に!』
その時撮った写真を貰いそびれたのは一生分の後悔だ。
『なあ、景倉』
春風の中、彼は言った。
『十年後、同窓会やろうよ。俺絶対やるからさ、そん時は景倉も来てくれよ?』
ちょうど十年後。その頃にはあの十年日記も書き終えていて。
『うん。約束』
そうやって何度も、新しい十年を更新して。
四月。
思えば十年日記はすでに三年分書かれていた。十分の三がすでに埋まったのだと思うと、不思議な感じだ。
あれは家に来なくなった。理由は知らない。けれど、別れたわけではなさそうだった。どうでもいいけど。
治安の悪い高校だということは事実だったらしく、緑山高校は最初は肌に合わなかった。
けれど、普通に生きていれば徐々にそうでもないことがわかった。恐いと思っていた人たちは、話してみれば意外と純粋な人が多かった。よく話すようになったし、毎日はむしろ楽しかった。
それが終わったのは、七月。夏休みが始まる少し前だった。
私はいつも通り家に帰った。鍵を開けて、家に入った。
いつも通り、誰もいない家だった。それでもその日はそのままなにも気にすることなく眠りについた。
異変に気付いたのは翌朝のことだった。
いつも帰ってきているはずの母親の姿が見えない。私はおかしいなと思いつつも、気まぐれでどこかに寄り道でもしているのだと思った。だからその日は気にせず、家を出たのだ。
しかし、いつまで経っても母親は帰ってこなかった。知らぬ間に家に帰っているのかとも思ったのだが、その痕跡はどこにもない。彼女は紛れもなく、家に帰っていなかった。
彼女は逃げた。
私を置いて、どこかに。
一週間が経った時、音がした。
プツン。
糸が切れた。
これまでずっと張り詰めていた糸。それでも私を繋ぎ止めていた糸。
それが切れた。
ああ、終わったのだと。そう思ったから、退学届を書いた。
担任は驚いていた。その時少しだけ、決意が揺らいだ。けれどもうどうしようもない。どうせ学費はもう払えないのだ。辞めざるを得ない。
振り返らなかった。振り返ってしまえば、涙が出そうだったから。
家に帰り、私は薄いリュックにわずかな有り金と数学の教科書、そして十年日記だけを持って家を飛び出した。
涙が止まらなかった。置いていかれた悲しみなんかじゃない。悔しくて理不尽で、馬鹿みたいだ。
私は何のために耐えてきた。暗い夜を、星一つない夜空の中を幾度も歩いて、その闇に体を埋めたのは一体何のためだった。結局こんな終わり方なら、最初から望みなんてしなかった。
涙、涙。
乾いた時には、堕ちていく決断をしていた。
向かった先は、夜の街。休憩中だったのか、一人の女性が煙草をふかしていた。私はその肩に向かって言った。
『ここで働かせてください』
彼女は突然の告白に驚いたようだったが、私の願いを断った。年齢がそれを阻んだのだ。
意外だった。こういう店は全部受け入れてくれると思っていたのに。
彼女は私に表通りで仕事を探せと言った。他にどうすることもできなくて、私はそうした。どうせ他の店に掛け合ったところで同じなのだとわかったからだ。
それからしばらく、ふらふらして仕事を探した。けれど、逃げてきた私を受け入れてくれるところはどこにもなかった。
お金も力も尽きて座り込んだ。遠く、車が走り去る音が聞こえた。
このまま死ぬのか。明日には死体で見つかって、いろんな人に迷惑をかけるのだろうか。それは嫌だな。迷惑かけたくないし、まだ死にたくないのに。
意識が途切れかけた、その時だった。
優しい声が聞こえた。何かを言っている。けれどわからない。
『ねえ、あなた、帰れる?』
声が言った。
帰れる。
帰る。
どこに。
私が答えると、声は私を引き上げた。
星々が、久しぶりに見えた気がした。
三枝夫妻は私をもう一度繋ぎ止めてくれた。切れた糸を結び直して、私をここに繋いでくれた。
優しくしてくれて、愛情をくれた。おじさんが淹れるコーヒーも、おばさんが作る料理も美味しくて。
血は繋がっていなくても、家族以上に家族だった。
満天の星々ではない。たった二つだけ輝く、私だけの星。
でもそれは何よりも明るく、私を照らす。
ここで生きていくのだ。そして、いつか約束した十年を果たしに行こう。それができたら、あの時のことを伝えよう。今ならきっと、伝えられるから。
私はようやく、辿り着いたのだ。
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