第28話

 景倉彩香と名乗った少女を家に置いた。老夫婦だけの家に人が来たのは随分と久しぶりだった。

 当初は困惑しながら生活していた彩香だったが、日が経つにつれ徐々に心を開いていった。元来、明るい子なのだとはなんとなく感じさせた。

 ある日、夫婦は聞いた。

「あの日、どうしてあなたはあそこにいたの?」

 すると彩香は暗い目をして答えた。

「親が夜逃げをしたので、どうにもできなくなって家を出ました。それで、働くところを探したんですが、どこも雇ってくれなくて。それである人に表通りで探せって言われて...でも力尽きて」

 気がつけば蹲っていたという。詳しく聞いたわけではないが、それでも壮絶な過去だった。夜の街の子というのは勘違いだったのである。

「じゃあ、うちで働かない?」

 夫婦は彩香にいてほしいと思っていた。夫婦には娘がいたが、北海道で働いているためになかなか帰ってこない。寂しさはいくらでもあった。

 しかし彩香は最初それを断った。理由を尋ねた。

「もしかしたら、親の借金を取りにくる人が私のところにも来るかもしれない。迷惑、かけたくないから...」

 夫婦は首を横に振った。

「そんなの、大丈夫だから」

 だからあなたは、ここにいればいい。それだけを願っていた。

 それから彩香には店の手伝いをしてもらった。日に日に笑うようにもなったし、よく働く子だったから、お客さんの反応もよかった。勘定くらいは暗算でいくらでもこなせたし、客の注文をメモも取らずに覚えていた。賢い子だなのだろうと思っていた。

「学校、ですか?...辞めちゃいました。お金も払えないだろうから」

 どうやら私立高校に通っていたようで親が夜逃げしたせいでどれだけ自分がバイトをしたところで払えないと見切りをつけたらしい。

「彩ちゃん、私立に行ったのね。頭いいから、てっきり公立に行ったのかと」

「私もそうしたかったんですけど」

 そこまで言うと彩香は言葉を切った。そして静かに、その目に暗闇を写しながら、

「受験の日に少し...アクシデントがあって」

 と言うと彩香は口を噤んだ。

 彼女には過去があった。でもそれを夫婦は聞こうとしない。聞いてしまえば、彩香が消えてしまうような気がしていた。それだけは嫌だった。寂しさを埋めるためではなく、その頃にはもう、この世界から彩香に消えて欲しくなくなっていたからだ。

 何よりも大切だった。

 たとえ血が繋がっていなくても、彩香は家族だ。


「彩ちゃんはたまに、思い出話をしてくれたんですよ」

 芳江が穏やかな顔で言った。何かを思い出すように、確かめるような素振りで。

「あんまり昔のことは話してくれなかったけど、でもよく中学時代の話をしてくれて」

 俯いた緒方の肩がわずかに動いた。琥太郎は静かに、その先の言葉を待つ。

 芳江は嬉しそうな顔で言った。

「特にお友達の話をしてくれました。友達の...そう、確か円堂さん。彼女の名前は何度か聞いていて。それから...」

 芳江が考える素振りをすると、横から光雄が言った。

「緒方くんの話はいつもよくしていたね」

「そう、緒方くん!」

 すると緒方がそこで漸くばっと顔を上げた。その様子を見て芳江と光雄は顔を見合わせ、あっと声を上げた。

「もしかして...」

「...俺です。緒方俊平は、俺です」

 緒方は震える声を必死に抑え、三枝夫妻に聞いた。

「景倉は、なんて言っていましたか」

 芳江は静かに語った。


「緒方くん?」

 ある日の夕食後の話だった。

「そう。よく話してたお友達がいたんです」

「へー、でも男の子のお友達なんて、珍しいな」

 光雄が言った。芳江はその肩を軽く叩いた。

「そんなことないわよ。今時の子は男女の友達なんて普通なんだから。ね、彩ちゃん?」

 すると彩香は笑って言った。

「そんなことないですよ。緒方くんは特別だっただけで」

「あらやだ。もしかして彩ちゃんの想い人だったり...」

 今度は芳江が軽く小突かれる。彩香はそれを笑って見ていた。

「緒方くんは...初めて私の未来を想ってくれた人なんです」

「未来を想ってくれた?」

 すると彩香は目を閉じた。その奥にある風景を思い出すように。

「景倉は将来の夢とかある?って聞いてくれたんです。私、今までの人生でそんなこと言われたことなかったから、すごく嬉しかった。そっか、私も未来があるんだなって、その時初めて想えた」

 彩香は笑っていた。でも、どこか泣いているようにも見えた。

「彩ちゃんは、なんて答えたの?」

 芳江が聞いた。それに彩香は人差し指を唇に立てて、

「ないしょです」

と言った。


「これだけじゃない、彩ちゃんは何度もあなたの話をしてくれた。それだけあなたとの思い出が、印象的だったのでしょうね」

 芳江が目尻に浮かんだ小さな涙を拭いながら言った。瀬立がハンカチを差し出し、ありがとう、と言って芳江は受け取った。

 琥太郎はどこかで安堵していた。話の冒頭は景倉の身を案じていたが、三枝夫妻との出会いにより、最悪の結末にはならなかったのである。

 しかし、その考えはすぐに打ち砕かれた。

 いや、訪れている。

 彼女は亡くなっているのだ。

 十分すぎるほどの最悪の結末だ。

「それで、彼女はどうして亡くなったんですか」

 瀬立の声が通る。涼やかな声が言葉も相まって冷たく感じる。

 瀬立に答えたのは光雄だった。

「彩香がうちに来て、一年も経たない頃でした」


 五月、よく晴れた日の朝だった。

 彩香は喫茶店の手伝いの他に、弁当配達の仕事も掛け持ちしていた。少しでも夫妻の役に立ちたいという意思だったという。

 主に年配の客たちのためにデリバリーをするという仕事だったらしく、明るい彩香はお年寄りたちにも人気だったという。だから発見は早かった。

 ある一人の客がいつもの時間になっても彩香がこないので不審に思い三枝夫婦の元に連絡をした。しかし、家には帰ってきていない。不安になった三枝夫婦は、配達ルートを探したのだという。

 そしてあるマンションに来た時、彼女はいた。

 非常用階段の外階段の下で倒れていたという。発見した時にはすでに冷たくなっていた。

 景倉彩香は、死んでいた。


 琥太郎はちらと横目で緒方の顔を見た。こんな話を聞いて緒方が心配になったのである。せっかく探していた人は家庭事情が複雑で、その上すでに死んでいた。その事実を受け入れることは今の彼の精神状態で可能だろうか。

 しかし彼の顔は琥太郎が思っていたよりもずっとまっすぐに三枝夫妻の方を見ていた。その目に揺らぎはなかった。

「警察はなんと言っていましたか」

 淡々と続けるのは瀬立だった。琥太郎はその態度に冷徹さすら感じた。

 光雄が続ける。芳江はもう話せそうになかった。

「自殺、という結論になりました」

 え、と声が漏れる。その状況からすれば事故だと思っていたが、そうではないのか。

「階段から転げ落ちたわけじゃないんです。手すりから身を乗り出して...彩香の過去は訳ありだったのもあって、それに...」

「それに?」

 瀬立が問うた。光雄は苦しげに言葉を振り絞る。

「リストが、見つかったんです」

「リスト?」

 今度は琥太郎が問うた。

 そのリストというのは、景倉の部屋から出てきたものだという。日記に挟まれた一枚のメモ用紙に十個の項目が書かれていた。

「『やりたいことリスト』って書かれてたんです。あれをしたい、とか、どこどこに行きたい、みたいなことを十個書いていて...それが警察の目には、『死ぬ前にやりたいことリスト』に見えたらしくて」

 それでそのまま、景倉は自殺で処理された。

 光雄は涙を流しながら言った。

「でも、そんなわけないんです。彩香はあの日、行ってきますって言って、いつも通り、出て行ったんです。帰ったら一緒にご飯を食べるんだって、そう言って...!自殺なんてするわけない、だって、ようやく彩香は...!」

 琥太郎は全てを肯定できなかった。そうですよね、とか、俺もそう思いますとは言えなかったのだ。もしかしたら景倉は本当に自殺を考えていたという可能性だってなくはない。いつも通りに出て行っても、本当はその奥で何を考えているのかはわからない。死にたいと、思っていたかもしれない。

 自殺か事故かなんて、結局本人にしかわからないのだから。

 生きている者がどう考えたんだとしても、それが事実かどうかなんて分かるはずがない。

 でも少し、ほんの少しだけ、琥太郎は思う。

 もし自分が同じ状況にいたのなら。ようやく辿り着けた居場所で過ごして、時間が経った時、何を思うのか。

 その時隣にいてくれる人から、離れたいと思うのか。

「ねえ、緒方さん」

 涙を拭った芳江が言った。緒方は瞬きで返事をする。

「その、これは私たちからの提案なんだけれど」

 言うと芳江は厨房の方へ赴き、箱から分厚いノートを取り出した。それを緒方の前へ差し出す。

 それはいわゆる十年日記だった。

「これは...」

「彩ちゃんのものなの。毎日欠かさず彩ちゃんが書いていたものなんだけどね、これ、あなたに渡したいの」

「え...」

 琥太郎は緒方と同じ動きで三枝夫妻を見た。彼らは首を縦に振り、緒方の方を見ていた。

「...私たちも読もうと思ったの。でも、これを全て読み切ってしまった時、私たちの中の彩ちゃんがいなくなってしまう気がして。それに、彼女に何が起こっていたのか、私たちには受け入れる勇気もなくて。でももし、あなたが持っていてもいいと思うなら」

 それは多分、彼らなりの別れであり、出発なのだろう。

 血は繋がっていなくとも、遺族として。

「例のリストも入っているし、もしかしたら嫌だって思うかもしれないけれど。どうかしら?」

 緒方はじっと日記を見つめていた。そしてその表紙に手を伸ばしそっと撫でる。景倉を辿るような手つきが三枝夫妻の涙を加速させた。

「...読みます。俺は...景倉のことを知りたいから」

 

 日記を抱えた緒方を連れて喫茶店を出た。この時ようやく昼飯を食い損ねたことに気づいたが、いつものように喚き散らすことはできなかった。そんなことをできる空気でもなければ、そんな気持ちでもない。

「緒方さん、この後、何かご予定は」

 瀬立が言った。緒方はずっしりと重い日記を片手に答える。

「いえ、特に何も考えていなかったので...まあ、帰ろうかと」

 本来であれば景倉に会えて、久しぶりの再会に会話を弾ませていた時間なのだと思うと、無性に心がざわついて落ち着かない。彼の手に持たされたその紙の束はそうなってしまった現実を言葉以上に物語った。

「じゃあ、駅まで送りますよ」

「いえ、悪いですよ」

「気にしないでください。僕たちは気にしないので」

「いや、俺は気にす...」

「何か言ったかな?琥太郎」

「いえ。何も」

 目の奥が笑ってないよ瀬立。

 瀬立が琥太郎の頭を押さえつけながら申し訳なさそうな緒方に言った。

「緒方さんは人に甘えることを覚えるといいですよ。人一倍努力ができる人は、少しばかり甘えることが苦手なところがありますから。だから、これは僕たちができるそのお手伝いです。これから緒方さんが適度に人に甘えられるようになるための、その一番最初の相手にさせてくれますか?」

 瀬立が車の後部座席を開け、その前で左手を中に向けて誘導する。そのスタイルと顔の良さが相まって、見た目はさながらどこぞの執事だ。まあ、現実はむしろ瀬立は迎えられる側なのだが。

 それでも緒方は戸惑っていた。いや多分、瀬立の扱いに少々気が引けたというのもあるのだろうが、その場からなかなか動こうとしない。

 琥太郎はシビレを切らし、緒方の背中を押した。

「早く行った方がいいですよ。じゃないと、あの状態のままいつまでも待ちますよ、あいつ。日が暮れます。そしたら困るのは緒方さんの方でしょ?」

 流石に明日は出勤だろう。長野に取り残されて困るのは緒方の方だ。

 その言葉が刺さったのか、緒方は大きく息を吐いた後、苦笑した。

「そうですね。じゃあ、お願いできますか?」

 瀬立はニコリと笑い、彼を車内へ誘った。


「これで依頼は完了ですけど」

 車が発進してしばらくした後、瀬立が言った。

「はい。ありがとうございまし...」

「もう少し、おつきあいいただけますか?」

「「え?」」

 琥太郎の声と緒方の声が重なった。瀬立だけがにこりと笑みを浮かべながらハンドルを握っている。

「え、でももう景倉は見つかったし...これ以上は...」

「ええ。ですので、この先は僕からの提案です」

 赤信号になった。車が止まる。瀬立は後ろにいる緒方を鏡越しに見た。

「音の話、ありますよね。それ、その日記を読み終えた後にお聞きするというのはどうでしょう」

「読み終えた後?」

 瀬立は相変わらずの笑みで続ける。

「そうです。それまで、この依頼は継続ということにするのはいかがですか。そして読み終えて、もう一度ここに来ませんか。」

「もう一度、ですか?でも、なんのために」

 景倉はもうここにいないのに。そう聞こえた。

「緒方さんのためにですよ」

「俺の...ため?」

 琥太郎は右側に座る瀬立を見た。横顔がわずかに真剣な表情になっていた。

「僕は別にロマンチストではありませんから、死者と話せるとか、そういうことはできないと思っています。それができれば苦労しませんし、死んだ意味もないですからね。ただ、生きている者としても考えるんですよ。気持ちの問題というんですかね、整理したいじゃないですか。急に死を知らされてしまった人なら尚更。緒方さんは、話したかったことがあるのでしょう?景倉さんに」

 緒方は何も言わなかった。しかしその沈黙は言葉以上の同意である。

「なら、それを話してみませんか。思い出話とか、伝えたい思いとか、そういうもの全部、一度吐き出さないといけないと思います。これは緒方さんのために言っています。死んでしまった景倉さんではなく、生きているあなたが、この先も生きていくために、彼女に話をすべきだと思います」

 だからもう一度、この場所へ。

 瀬立の瞳は真剣だった。そのまっすぐさはもはや突き刺さるようなほどに尖鋭で、圧があった。しかしふっとその顔が柔らかくなる。

「死人に口はないですが、生きていればいくらでも話が出来ますから。せいぜい僕たちは死んだ者たちの分も話をするべきだと、そう思いませんか?」

 柔らかく、穏やかな声で瀬立は言った。

 しばらくの間緒方は黙っていた。しかし、その答えはもはや誰にも明らかだった。

「じゃあ、待っていてくれますか」

 瀬立と琥太郎は声を揃え、頷いた。

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