第27話
雑談と昼食を取り終え、作業は再開した。せっかく長野まで来たので自分にも手伝わせてほしいという緒方の猛烈なプッシュもあり、三人で手分けして探すことにした。
二時間ほど聞き込みをした後、琥太郎の元に緒方がやってきた。
「どうかしましたか」
琥太郎が聞くと、緒方は首を横に振ってペットボトルを差し出す。
「お茶買ってきたよ。まだ暑いし、喉乾くでしょ?」
「あ、どうも」
気づけば着慣れたTシャツが随分と汗ばんでいる。琥太郎は受け取り、蓋を開けて口をつける。冷たすぎるくらいの液体が体に心地いい。
いい飲みっぷりだ、とにかっと笑う緒方に少し安堵する。徐々にいつもの緒方に戻ってきているようだ。
琥太郎がペットボトルのお茶を半分ほど飲み干した時だった。
「ちょっと聞いてもいい?」
突然緒方が言った。琥太郎はペットボトルを口から離す。
「その、もし話したくないんだったら答えてもらわなくていいんだけど」
「なんすか」
口ではそう言いつつも、なんとなく話の見当はついている。
緒方は少しだけ笑って、警戒させないように話した。
「琥太郎くん、かなり若いよね」
「今年で十六です」
「そうか。やっぱりね。初めて会った時、バイトだと思ってたんだけどそうでもなさそうだし。夏休みでもないのに長野まで来ちゃうんだから」
「中卒で働いてます」
端的に答えると、緒方は驚きもせずにただゆっくりと頷いた。
「そっか。そうだと思ったよ。あ、ごめん、俺が話したかったのはこういうことじゃなくって」
緒方は申し訳なさそうに両手を合わせる。琥太郎は慌ててそれをやめさせた。緒方にその気がないことは十分伝わっている。彼はそういうことはしないはずだ。
「大丈夫ですよ。俺、気にしないので」
「そう?ごめんね、なんか気遣わせちゃって。俺が言いたかったのは中卒云々とかの話じゃなくて、どうしてここで働いてるのかなって」
緒方のまっすぐな瞳が琥太郎を捉えていた。
その言葉の意味はきっと、どういう経緯でここにいるのかではなくもっと本質的で概念的な話だ。
どうして何でも屋なのか。答えは一つだと思う。
「特に理由はないですよ。たまたま拾ってもらっただけで、別に思い入れとかあるわけじゃないし。俺はただ、生活ができればそれでいいから」
緒方にとってこの返答は予想外の答えだっただろうか。それとも、想像通りだったのだろうか。琥太郎にはわからない。瀬立のように人の音を聴いて、その人が考えていることがわかるほど、琥太郎は鋭くない。もっと鈍くてくすんでいて、まっすぐ輝くことはできない。
「でもまあ」
他に理由があるとするなら。
ここにいようと思える理由があるなら。
「少しだけ人の音を、聴きたいと思えたからだと思います」
「人の...音?」
琥太郎は通りの方を見つめて頷いた。
「前に瀬立に言われたんです。『人の音を聴け』って。きっと役に立つから、そう言われて」
その真偽はわからないし、今のところ大して役に立ったという実感はない。もしかしたら適当なことを聞かせられただけなのかもしれないと思うことだってある。
でも、こうして『WAVES』にいる理由は多分。
「今はただ、信じてみようと思ったんです。瀬立瑞樹っていう、何考えてるかよくわからない、変な趣味持った人間のこと」
今まで誰かを信じたことなんてなかったから。親も友人のような人も教師も社会も何もかも信じてこない人生だった。信じたいと思える人と出会えなかった人生の一幕だった。
でもようやく、会えたのだと思う。自分のことを考えてくれて、少し前を歩いてくれる人に。
だから今度は少しだけ、信じてみたいのだ。人生の二幕は、そうやって始めたい。
わずかな沈黙が流れる。自分が言ったことが急に気恥ずかしくなって琥太郎は髪をぐしぐしと掻いた。
「変なこと言いましたね、俺。忘れてください」
しかし緒方は優しく笑って首を横に振った。そして琥太郎の頭に両手を置き、わしわしと撫でた。
「わ!ちょ、やめてください!」
「いいや、やめない。琥太郎くんはとっても良い子だ!」
緒方の両手から逃れるように身を低くして離れた。まったく、最近やたら頭を撫でられる。
頭から両手を剥がされた緒方は穏やかに笑って言った。
「じゃあ、今度は俺の話を聞いてもらえる?」
緒方は耳打ちするように口元に手を添えた。
「俺の、淡い初恋の話だよ」
「げ」
「げってなんだよ。せっかく恥ずかしい話に恥ずかしい話で返してあげようと思ったのに。知りたくない?人の初恋だよ?」
それはどうも、ありがた迷惑だ。他人の初恋の記憶を聞いてどうしろというのか。
そんな琥太郎の気持ちを察したのか、緒方は小さく息を吐いてわかったよわかったと言った。
「俺の初恋の相手、知りたくない?」
「...必要ない」
もうとっくに知っている。
しかしその日も有力な情報には巡り会えず、ホテルへ戻ることにした。緒方は明日も休みにしたようで、途中で別れた。流石に聖象ホテルへは一緒に行けないらしい。近くの民宿に泊まるようだ。話の流れで瀬立が社長の息子だということを知り驚いていたが、同時に納得もしていた。琥太郎と同じ反応である。
その日の夜、ベッドの中で考えた。
もし、自分に会いたいと思ってくれた人がいたのなら。人の手を借りてでも会いたいと願ってくれて、もし、それが叶ったとしたら。
自分はそれを、受け入れるのだろうか。
目の前にまでやってきたその人を遠ざけようとしないだろうか。
わからない。答えはいつまでたっても出なくて、眠りに落ちるしかなかった。
軽く朝食を済ませたのは瀬立で、琥太郎は朝からがっつり小さめのパンを十個食べた。そのおかげか、朝から体がよく動いた。
結論から言おう。今日、景倉彩香は見つかる。
しかし、当然この時の琥太郎と瀬立が知るはずもない。むしろ焦りに近い感情で聞き込みにまわった。緒方もまた同様である。
朝から歩き回ることおよそ数時間。昼下がりになったところで、琥太郎たちは昼食をとることにした。
瀬立が聞き込んでいた辺りにポツンとあった『
すでに昼下がりになっている。店内にほとんど人はいなかった。老夫婦が経営するお店らしく、雰囲気のいい店だった。
琥太郎が席に着くと、奥さんの方がお冷やを運びにテーブルの方にやってきた。しかしそれを気にする事なく琥太郎は瀬立と緒方に進捗を聞いたのである。
「見つかったか、景倉さん」
その瞬間、頭に冷たい衝撃があった。
否、頭から上半身にかけて徐々に冷たい衝撃が伝っていった。
冷たい衝撃は痛みにも似ていた。衝撃と共に視界もぼやけたので、数秒は刺されたのかと思ったが、どうやら違うらしい。ぽたぽたと目の前を伝う液体は赤くはない。むしろ無色透明で余計にわからない。ぽたぽたと音を立てながら衝撃が地面に垂れていく。それを見てようやく、その正体が水だとわかった。
そして水が降りかかった方角を見てみると、震える皺まみれの手が空になったコップを握っていた。
「...ちゃんを...」
震える口が何か言っている。琥太郎は耳を澄ました。
「彩ちゃんのこと探して、あんたここに何しにきた!借金取りなら帰んな!あんたに返す金なんて一円もないよ!」
鬼のような剣幕で言った夫人に、琥太郎は未だ水の垂れる顔で呟いた。
「...借金取り?」
不自然な時間の流れだった。氷水に濡れた服が冷房にあたって、ひどく冷たい。
酷い人生を送ってきた覚えはある。しかしまさか自分は借金取りになっていたのか。
はて、どういうことだろう。
「申し訳ありません!」
喫茶店の婦人、
「俺なら大丈夫なので、だから頭を上げてください」
すると芳江はゆっくりと頭を上げた。その顔はまだ申し訳なさそうに眉を下げたままである。
どうやら芳江は何かを勘違いしてお冷やを琥太郎の顔面にぶち撒けたらしい。琥太郎は突然の衝撃に驚きすぎて腹を立たせることもできなかった。その呆けた顔に芳江は違和感を覚え、勘違いに気づいたらしい。彼女が顔を真っ青にして謝ったのは水をふっかけてから一分も立たなかった。
わずかな客を返し、店は臨時クローズになった。客はかなり驚いていたが、琥太郎の説得もあり勘違いだったということは伝わったようである。常連でよかったと心底感謝した。
店の中には水が滴る琥太郎と戸惑う緒方、若干笑っている瀬立と三枝夫妻の五人だけになった。
すると奥から喫茶店の主人が琥太郎の前にコーヒーを持ってきてくれた。
「すみませんね、うちの妻が何か勘違いをしてしまったみたいで」
主人、
「いえ、大丈夫です。コーヒー、ありがとうございます」
琥太郎はご厚意に答えるとともに冷えた体を温めようとしてカップに口をつける。しかし口に含むと舌が焼けるような熱さと苦みで若干飛び跳ねる。苦い。
「...ごめんなさい...私てっきり...」
芳江が泣きそうな声で言った。もはやどっちが氷水をかけられたかわからないほどに彼女の顔は青い。
「あの、聞いてもよろしいですか」
瀬立の涼やかな声が穏やかな店内の中に響いた。カントリーミュージックがぼんやりとかかる店内にその声はよく通る。
「彩ちゃん、というのは、景倉彩香さんのことでしょうか」
三枝夫妻、そして緒方がはっとした。琥太郎の氷水に紛れて気にならなくなっていったが、確かにさっき、芳江が言った。
『彩ちゃんのこと探して』
芳江の肩を支えるようにしていた光雄が瀬立に向かった。
「あなた方は、彼女を探しているんですか」
瀬立は頷く。すると光雄は少し警戒の姿勢をとった。緒方は椅子から立ち上がり、言葉を継いだ。
「あ、あの!俺が探してるんです。えっと、俺、中学の同級生なんです景倉の。それで、今度同窓会をするので連絡を取るために探してるんです!」
その頬は若干上気している。それはそうだ、やっと憧れの人物に会えるのだから。探し続けた相手に会えるのだから。
緒方が言うと、夫妻は体の緊張を解いた。
しかし次の瞬間彼らに訪れたのは、深い哀しみの表情だった。
「そうだったんですか...彩ちゃんの同級生の。ありがとうございます、わざわざ来ていただいて...でも、会うことはできません」
緒方の顔が固まった。あるいは、空気が凍ったのかもしれない。
「ど、どうしてですか...」
わなわなと震える唇で緒方が言った。三枝夫妻は今にも泣き出しそうな顔を緒方に向ける。その顔を見た瞬間に、琥太郎は全てを理解した。当然瀬立も同じだっただろう。
緒方だけが、きっとわかりたくなかったはずだ。
芳江の薄い唇がわずかに開く。言葉が紡がれてしまった。
「彩ちゃんはもう、亡くなっています」
先ほど少年が受けた氷水の衝撃が生温く感じるほどに、その言葉は体に突き刺さった。生きている心地がしなかった。とてもリアルな夢を見ている気分だった。
「彩ちゃんはもう亡くなっているんです。だから、会うこともできないし、同窓会に行くこともできないんです」
芳江と名乗った女性の言葉があまり入ってこない。こだまして、反響してよく聞こえない。
彼女は何を言っているのだ。悪い冗談だ。疲れているから、きっと悪い夢を見ているのだろう。夢の割には背中を伝う冷たい汗の感覚が生々しい。それ全部ひっくるめて悪夢だ。
悪い夢なんだと。
そう思いたくて。
店内に流れるカントリーミュージックがグラグラして聞こえる。先ほどまであれほどはっきり聞こえて、リズムに乗ってすらいたのに、今はそのリズムを捉えることさえできない。
しばらくそうしていたような気がする。多分、秒数にすれば二十秒くらいだ。長い長い時間だった。
そしてプツン、と何かが切れた音がした。
心臓の鼓動が落ち着いていく。グラグラしていた聴覚は徐々に正常に直立しだして、カントリーミュージックが心地よく体に鳴った。体から力が抜けていくのを感じ、自然と椅子に落ちた。
「...そうか...景倉は...」
いないのか。
呟いたその声がテーブルの上に落ちる。ニスのツヤが天井の照明を照らしていた。眩しくて目を閉じたくなった。
「詳しいお話を聞くことはできますか」
涼やかな声が傍から聞こえた。瀬立だろう、淡々としている。俊平は顔を上げることもできなくて、陽気な音楽に被さる声だけを聞いた。
「ええ...少し、長くなりますけど」
芳江の声が聞こえた途端、俊平は目を閉じた。
景倉彩香と初めて会ったのはもう九年前だ。とても暑い日だった。
ある日芳江は同窓会の帰りに駅前のコンビニに寄った。歯磨き粉がちょうどなくなっていたのだ。普段ならばスーパーで買うのだが、その日はもう遅かったから、コンビニで済ませようとしたのである。
歯磨き粉を買い、コンビニを出ると外は真っ暗だった。その日は星空を覆うように雲が広がっていたから、星の一つも見えない。ここは都会ではないから、駅前であっても街灯も少ない。だから目をこらしながら歩くのだ。夜の闇の中にある一筋の道を探すため、芳江は目をこらして歩いた。
家兼店である喫茶店を目指して歩いていた時、ふと道端に黒い塊を見つけたのである。
喫茶店がある通りの、すでにシャッターが降りた八百屋の前に黒い塊があった。しかしそれはよく見てみると、塊ではない。うずくまった人の姿だった。
芳江は一瞬怖くなったが、そのまま見過ごすこともできないので声をかけた。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
するとわずかに頭が上がった。長い髪がはらりと流れていく。塊は女の子だった。
しかしそれ以上彼女は動くことがなかった。芳江は困ったと思い、しゃがみこんでその顔を確認した。
華やかな目だった。目鼻立ちもはっきりしていて、なかなかの美人である。だから余計に芳江は思った。
(この子は多分、夜の街の子だ)
少し歩けばスナックなどが立ち並ぶ夜の街がある。この子は多分、そこからやってきたのだろう。何かわけがあって、ここまで歩いてきたのだろう。この時はそう思った。
「ねえ、あなた、帰れる?」
わずかに頭が動く。震える指先がカーディガンの袖から見えた。
そして唇を震わせながら、言った。
「...帰れます。帰る場所があれば」
なんて寂しい言葉なんだろうと思った。
その瞬間、芳江は口にしていた。
「温かいコーヒーでも飲みましょ?ご馳走するわ」
華やかな目がこちらに向いた。それでもその奥は星のない夜空のように暗かった。
夫の光雄はとても驚いていた。しかし、すぐに全てを察したのか、閉めた店の厨房に立ってコーヒーを淹れた。香ばしい匂いが漂う中、少女は下を向いてリュックサックを抱えたまま微動だにしない。
光雄がカフェラテを彼女の前に置いた。置いた瞬間、ビクッと肩を震わせた少女を見て、芳江は言った。
「ほら、どうぞ?主人の淹れるコーヒーは美味しいの」
すこし間を置いて、彼女恐る恐るカップに手を伸ばした。その指は、なみなみ注がれたカップを持ち上げるのも不安になるほどに細く弱々しかった。
両手で包み込むようにカップを持つと、口元へ運んだ。表情は髪で隠れてわからない。
「...おいしい...」
息のような声が聞こえ、芳江は安堵すると共に嬉しくなった。
「よかった。ねえ、お腹は減ってない?何か作るわ」
芳江は少女の答えも聞かないうちに厨房に立った。定年を迎えた三枝夫妻の人生が動いた瞬間だった。
芳江は作ったナポリタンを彼女の前に置いた。カフェラテの中身が先ほどよりも減っている。
彼女の手がフォークを掴み、くるくると麺を巻いて口に運ぶ。その手が止まらないのを見て、芳江はほっと一息をついた。
彼女はその皿を綺麗に食べきった。それを見て、光雄が優しく聞いた。
「美味かったかい」
少女はこくりと頷き、
「ご馳走様でした。ありがとうございます」
と答えた。
悪い子ではなさそうだと思った。だから聞いた。
「ねえ、どうしてあそこにいたの?」
少女の肩が強張る。それを見て芳江は一層穏やかな声で言った。
「帰るところがないの?」
少女はゆっくりと、頷いた。そして薄いリュックを抱きしめた。
守らなければ。
芳江は、三枝夫妻はそう思った。
「ねえ、あなた」
芳江は少女の元へ近寄り、リュックを抱きしめるその手を握った。真夏なのに、すっかり冷え切った手だった。
「もし行くあてがないのなら、ここにいてもいいのよ」
ただその時は思っていた。この子はきっと深い夜の中を歩いてきたのだと。星明かりもない中、ずっと歩き続けてきたのだと。
その夜明けになることはできなくても、せめてもの光を灯せるように。
暗い夜空にポツリと光る星になれたらいいと、それだけを思っていた。
返事はなかった。その代わりに、名を問うた。すると彼女は言った。
「景倉彩香」
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