第26話

 電話越しの声が元気がないのではなく、疲れているということに気づいたのはその言葉を聞いてからだった。

「それは構いませんが...お仕事の方は大丈夫なんですか?」

 緒方の声が途切れる。そして吐息交じりに言った。

『休みを貰いました。なんというか、今は休んだ方がいいかなと思って』

 琥太郎は緒方の顔を覗くように画面を見つめた。しかし、当然その表情はわからない。

「わかりました。明日いらっしゃるんですか?」

『はい、そうしようかと思います。昼頃に着けばいいなと』

「そうですか。では、明日の昼合流しましょう。僕たちは午前中に用がありますので、それが終わり次第向かいます」

 結局斎藤と景倉の再会を記念したお茶会、とはならなかったなと琥太郎は思った。

「明日、斎藤先生と会ってきますよ」

 瀬立が言うと、緒方はああ、と頷いた。

 そして低い声で言った。

『そうなんですか。ならよかったです、俺...いや、俺だけじゃないだろうな。あの人には会いたくないから』

 え、と思った。しかし瀬立は納得したように笑い、電話を切った。


 翌日、斎藤に指定された喫茶店で琥太郎達は待っていた。瀬立が紅茶、琥太郎はイチゴミルクを頼んだ。甘いものが脳に染みる。時間帯が早いせいか、店内の人の気配はあまりない。

 しばらく雑談をしていると、一人の女性が店に入ってきた。そしてわずかにきょろきょろとした後、琥太郎たちに気がついた。席の方に近づくと、

「あの、瀬立さんでしょうか?」

と言ったので、瀬立は立ち上がり笑みを浮かべて答えた。

「ええ。斎藤美佳さんですね。本日はありがとうございます」

「いえいえ!むしろ連絡があってから待たせてしまって申し訳ないです」

 斎藤はショートカットに丸く大きな目が印象的な、見るからに快活そうな女性だ。彼女は挨拶を手短に済ますと、コーヒーを注文した。

「改めまして、瀬立瑞樹と申します。こちらは部下ですね」

「どうも」

 琥太郎が名乗ると斎藤はわずかに目を見開いたが、すぐに笑顔で言った。

「あ、ああ、びっくりした!こんなに若い子が来るなんて思わなかったから!すごいね、今いくつ?」

 琥太郎は顔を顰めながら答えた。

「今年で十六ですけど」

「そうなんだ!え、じゃあバイト?」

「いえそうじゃないですけど。というか、今なんか関係ありますか、それ」

 すると斎藤はわざとらしく両手を顔の前で合わせた。

「ああごめんね?気に障ったかな?ごめんごめん、ちょっと場を和ませようかと思ったんだけど」

「...はあ」

 琥太郎はわずかに斎藤を睨む。しかし彼女は気にせずに笑って続けた。

「中卒で働いてるんだ。すごい、偉いね!でも、もし何か困ったことがあったら周りの大人に相談するんだよ?大丈夫、君の周りには頼りになる大人がたくさんいるからね?君を助けてくれる社会は、いくらでもあるんだから!」

 不意に襲いかかる不快感を抑えて、低く言った。

「そりゃあどうも。でも必要ないので本題に」

 なんだこいつと思い、強制的にこの話題を終わらせるために琥太郎は肘で瀬立を小突く。バトンタッチだ。

「では、当時の話を聞かせてもらいたいんですが。まず、景倉さんが虐待を受けていたことをあなた方は知っていましたか?」

 え、と琥太郎は思う。まさかここでその話題を提示するとは思わなかった。てっきり当時の景倉の人柄などを聞くのかと思ったのだが。

 それに、『あなた方』とは。

 瀬立の顔は笑顔だった。

 しかし対照的に斎藤の顔からは笑顔が引いていく。そして目を泳がせながらどんどん頭が下がっていく。

 そしてポツリ、と落ちた。

「...し、っていました」

 そして斎藤はそのまま大げさに顔を覆った。

「違うんです、私は、私はちゃんと気づいて、それで連絡したんです。でも、どうにもならなかったんです。それで、私は...」

 言葉を継いだのは瀬立だった。

「私は、どうしたんですか。どこの誰に連絡して、景倉さんはどうなったんですか」

 顔を覆っていた手をどけた斎藤の顔は別人のように冷酷に、笑っていた。

 琥太郎は背筋が凍るのを覚える。

「私はちゃんと連絡したんですよ。児童相談所に。『うちの生徒が虐待にあってるんです。だから助けてあげてください』って」

 そして注文したコーヒーが届けられどうも、と笑顔でマスターに返した。コーヒーの香りをかいでからカップに口をつける。カップが離れた唇の端には茶色い液体が口紅と混ざっていた。

 瀬立が聞く。

「その後、彼女がどうなったかはご存知ですか」

「どうにもならなかったと聞きました。だからその度に私連絡して...でもやっぱり何も変わらなくて。でも私、児童相談所に連絡しましたから。それに、兎田先生もそう言ってましたし」

 琥太郎は以前聞いたその名前を思い出す。確か、緒方と景倉の担任の名前だったか。

 瀬立が聞き返すと、斎藤は顔をパッと明るくして言った。

「そうです!兎田先生、ご存知ですか?兎田先生、言ったんですよ!『君は正しいことをした、教師として、一人の生徒の苦悩を見逃さなかった』って、褒めてくれたんですよ!私、嬉しくて嬉しくて...その日飲んだお酒は美味しかったなあ!」

「兎田先生は知っていましたか」

 瀬立が聞くと、斎藤は身を乗り出して言った。

「ええもちろん!兎田先生は素晴らしい先生ですから、景倉さんの他にも何人もそういう生徒を助けてきたと仰ってました!本当に素敵な先生です!」

 そこまで言うと急に斎藤は肩を落とす。なんというか、身振りがいちいち芝居がかっている。

「二年前に亡くなってしまいまして。私、景倉さんたちが初めて担当した生徒で、兎田先生にはとってもお世話になったんです。だから兎田先生は人生の師なんです。だから私、教え子以上に泣いちゃいまして。まったく、お恥ずかしい限りですよ。あ、そうだ!緒方君から連絡あったんですよね?会いたかったなー久しぶりに!もちろん、景倉さんにも!」

「緒方さんなら」

 瀬立が食い気味で入った。相変わらずの笑顔で。

「緒方さんは、あなたに会いたくないと言っていましたよ」

 明るい声で、けれどとても冷淡な声で瀬立が言った。

 斎藤は一瞬笑顔を固まらせたあと、酷く暗い目で瀬立を見つめた。

 ぞっとした。息を呑んだ。

 何なのだこの女の不快な違和感は。どうしてこんなにも少しづつ歪んでいる。一見とてつもなく真っ直ぐに見えるのに、その実情はミリ単位で歪んでいるのだ。近づけば近づくほどその歪さが露見する。

「会いたくない、ですか...。彼がそう言ったんですか?」

 ええ、と瀬立が頷くと斎藤はわざとらしく頭を抱えた。

「おっかしいなぁ。同窓会やるんですよね?なら会うじゃないですか、当然当時の先生たちだって呼ぶでしょ?え、もしかして生徒だけでやる会なんですか?知らなかったぁ、私」

 笑っている。

 なんというか、随分と若く見える人だ。先ほど最初に担当した生徒が景倉たちだと言っていたので、おそらく三十代前半なのだろう。だが、それよりもずっと若く見える。まるで今も新人教師のように純粋なのだ。

 だが、だからこそ余計に可笑しく見える。

 十年も同じ場所で働けばある程度は落ち着くのが人間というものだろう。それはキャリアと同時に自分も同じ分年をとっているからである。仕事の明るい部分も暗い部分も見えてきたからこそ達観できる。それは成長だ、むしろとてもいいことである。

 しかし彼女には、それが見られない。

 彼女には多分、明るい部分しか見えていないような気がする。

「斎藤さんは、いつ同窓会が行われることを知りましたか?」

 瀬立が紅茶を飲み干してから言った。

 斎藤は笑った。

「いつって、やだなあ、瀬立さんが連絡してくれた時ですよ。言ったじゃないですか、あなた。『今度同窓会を開くから、景倉彩香さんの連絡先を知りませんか』って」

 琥太郎は緒方が彼女に会いたくないと言った理由を理解した。

 ああそうか。そのままの意味だったのだ。多分、クラスメイトたちも同じ。だからこそ、彼女に連絡しようと思わなかった。同窓会に呼ぼうとも思わなかったのだ。

 この人は嫌だ。たった数分話しているだけでこんな気持ちになるくらいに、彼女のことが嫌だ。いや、おそらく最初から嫌だったのかもしれない。ずけずけと人のデリケートな部分を踏みにじってきて、求めてもない言葉を振りかけてくる。厄介で迷惑で、目障りだ。それをただの親切心でやってくるのが余計に嫌いだ。

 口の中が苦くなる。琥太郎は甘いイチゴミルクでそれを無理やり胃に流し込んだ。

「そうですね。では、僕たちは用がありますのでこれで。今日はありがとうございました」

 瀬立はそれだけ言うと伝票を二枚持って立ち上がった。斎藤は自分の伝票まで持った瀬立を止める。

 しかし瀬立は笑みで答えた。

「ここは僕が払いますので、お気になさらず。行くよ、琥太郎」

「え、あ、うん」

 慌ててショルダーバッグを肩にかけ、斎藤に小さく形だけの礼をして瀬立を追いかけた。

 喫茶店を出て車に戻ると、瀬立は珍しくため息をついた。

「珍しいな。瀬立がそんな風なの」

「まあね」

 小さく答えると瀬立は喫茶店の方を眺めた。外からでは中の様子はわからないが、今頃斎藤がコーヒーを飲んでいるのだろう。

「熱意や明るさはあるけれど、その使い方を少し間違っている人なんだろうね。あるいは、現実の暗さに気づいていないのか。どちらにせよ、結果的に人を不快にさせてしまうのは、少々疲れるよね」

「緒方さんたちは敢えてあの人に連絡しなかったんだな?」

「だと思うよ。クラスの総意となると、彼女は一体何をしたんだろうね。そこまで嫌われることもなかなか難しいよ」

 まったくその通りだ。毎日ホームルームで長話するだけでもそこまでにはならない。

「もちろん、いつまでも初心忘れずみたいな考え方は大切だとは思うけどね。それに信念を持つことだって悪いことじゃない。明るい方を信じ続けるのも必要なことだと思う。でも、暗いものを見つめることだって大切な強さだ」

 暗闇を見つめる強さ。

 景倉は虐待を受けていて、彼女は児童相談所に連絡した。そのあとはどうなったのだろう。解決したのだろうか。していたのなら、景倉の家族は夜逃げなんかしなかっただろう。きっと、解決なんかしていなかったのではないか。

「それに、児童相談所に連絡したことが引き金にもなるからね」

「引き金?」

 瀬立は喫茶店から逃げるように車を発進させた。

「児相に連絡したことで、逆に子供が傷つけられることはあるんだよ。だから、虐待が発覚した、じゃあ児相に連絡して親をどうにかしようなんて、むしろ軽率すぎる。斎藤さんはそういう軽率な間違った判断をしてしまったんだろうね」

 真偽はわからない。けれどもしかしたら景倉は彼女のせいで、余計に苦しい思いをしたのではないか。

 もしそうだとしたら、彼女は。

「それだけじゃないよ。多分、もっと厄介なのは」

 低く言った瀬立の言葉のその先は、聞けなかった。


 車は昨日三好が言っていた表通りに辿り着いた。その通りの真ん中にあるカフェで緒方は待っていた。

「どうも」

 対面した緒方の顔にはどことなく疲れが滲み出ていた。傍の少し大きめのトートバッグは少し膨れただけで、大荷物にもなりきれていない。旅行というか、ちょっと出かけるついでに長野まで来たという感じだった。

「すみません、俺なんか来ても迷惑ですよね」

 瀬立は緒方の前の席に座って言った。

「いえ。大丈夫ですよ」

 それでも緒方の下がった眉は上がらなかった。なんだかこの前会った時と随分と印象が違う。

 適当な飲み物と軽食を頼むと、テーブルに沈黙が訪れた。

 すると瀬立が突然、話を始めた。

「緒方さんは最近、どんな音を聞きましたか?」

 突如始まった謎の会話に、緒方はもちろん琥太郎も不思議な顔で瀬立を見た。当の瀬立は笑顔である。

「お、音、ですか...?そうですね、えっと...」

 緒方はなんとか会話を繋げようと頑張ってくれたが、なかなかその先の答えが出てこなかった。辿り着いた答えは、

「覚えて、ない」

だった。

 それを聞いた瀬立は長いまつ毛を動かしながら頷いた。

「僕は音の話を集めるのが趣味でしてね。今までに色々な人の話を聞いてきました。その中に、こういう人がいたんです」

 頼んでいた飲み物が運ばれてきた。しかし、琥太郎も緒方も瀬立の話に耳を傾けていて、それにきづいたのは少しあとだった。

「ある男性がいましてね。その人は会社を経営していたんです。ですが、不況の影響でその人の会社もかなり大変なことになったそうで。社員全員、毎日必死で働いたらしく、そのおかげでなんとか倒産は免れた。そんな激動の日々を終えたある日のことでした」

 その男性はいつも通り軋む身体を起こして朝、窓を開けた。

 その瞬間、世界は音に溢れたのだという。

「車が道路を走る音、近くの電車が線路を走る音、上に住む人が洗濯物を叩く音、鳥が羽ばたいていく音。まるでつけていた耳栓が取れたみたいに、一斉に音が聞こえたといいます」

 琥太郎は少し前の記憶を思い出す。琥太郎にもそんなことがあった。ある日の帰り道、瀬立に言われた通り耳を澄まして音を聞いた時、似た感覚になったことがある。

「忙しすぎて、周りの音すら聞こえていなかったんですよね。いや、正確に言えば、耳に入ってはいたのでしょうけど、認識ができないほどに忙しかった。緒方さんも多分、そうなのだと思います」

「俺も、ですか?」

 瀬立はゆっくり頷いた。

「電話もかけるのも一苦労なほどに忙しいというのは、なかなかありませんよ。それが休日もとなると、会社を疑いたくなるくらいに。まあでもそれは一度置いておいて、そんな忙しさの中で生活をしていたら、そりゃあ音なんて聞こえなくなります。不要な情報ですからね、脳が処理したくないのでしょう。でも、それでは身体によくない」

 瀬立は緒方の目をまっすぐ見つめた。

「仕事熱心なことは良いことです。けれどそれと同時に、自分のことも大切にしなければなりません。街の音は普遍的な情報です。それを認識できないというのは、余裕がない証拠なんですよ。精神的にも、身体的にもね。多分今、緒方さんは会社を休んだうしろめたさがありますよね?」

「...はい」

 せっかく任せられた企画で、中心人物の自分が休んでしまっている。

「それは緒方さんの長所だと思います。それをどうとは言いません。しかし、休むことは必要ですよ。誰であってもね。社長だろうが企画の中心だろうが、関係はありません。誰でも、休むべきなんです」

 その資格は誰にでもあるものだから。

「それが今の緒方さんのやるべきことだと思います。思いっきり休めばいいんですよ。そしてほんの少しだけ、音を聞いてみてください。特に何か効果があるわけではないですが、仕事のことは忘れられますよ?」

 言うと瀬立は頼んだ紅茶を一口、口に含んだ。さっきも紅茶を飲んでいたし、この男一日に何杯紅茶を飲むつもりだ。と思いつつ、琥太郎は頼んだサンドイッチにかぶりつく。

 緒方の表情はしばらく固まっていた。呆然と手元のアイスコーヒーの水面を見ては、目をパチクリとさせるばかりである。

 そして小さく、呟いた。

「そっか...俺、休みたかったのか」

 サンドイッチの中のトマトの味を噛み締めながら、琥太郎は思う。きっと緒方は自分でもその忙しさに気づけないまま、日々を過ごしていたのだ。任せてもらったから、人一倍強いその責任感は、彼を彼自身で縛り付けて締めていったのだろう。

 顔を上げた緒方は少しだけ笑った。

「そうですよね、うん、そうだ。休みたかったんだよな、俺!」

 その顔に現れた彼らしい笑顔に、琥太郎はつられて小さく笑った。

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