第25話

 夫人の証言をもとに、車は隣町を目指した。

 が、先に腹ごしらえである。道の駅で長野名物のおやきを買った。おかず系からスイーツ系まで様々種類があり、どれにしようか迷っている小太郎に瀬立が一種類ずつ買おうと提案した。人生初おやきはベーシックな野沢菜である。

 せっかくなので一つを半分に割って二人で食べた。シェアできるというのはなかなかに効率がいい。少し大きい方を瀬立は渡してくれた。

「さっき成田さんから連絡があったよ。斎藤さんと連絡が取れたって。土曜日に会ってくれるって」

 今日は木曜日だ。しかし琥太郎は一つ気がかりなことがあった。

「その前に景倉さんが見つかったらどうすんだよ」

 土曜までの間にはわずかだが期間がある。もしそこで景倉が見つかってしまえば斎藤と会うことに特に意味はない。当の本人が見つかっているのにわざわざ情報を聞きにいくというのも無駄な気がする。

 しかし瀬立は笑って答えた。

「それならそれでいいんじゃないかな。むしろ景倉さんも一緒に連れてきて、久しぶりの再会の席にしちゃえばいいよ」

 そんなものでいいのかと思う。

 しかし、それでいいのかもしれないと思う自分もいた。目的は景倉を見つけることだ。そして今、そのゴールが遠目に見え始めてきている。ならばむしろ土曜日が再会の席になる方がいいことのような気がする。

 しばらくすると車は隣町に入った。景倉がいるであろう街だ。

 車を降りると、瀬立は言った。

「よし。じゃあ、聞き込み頼むよ琥太郎」

「え」

 瀬立は琥太郎の肩を笑顔でポンと叩いた。

「聞き込みだよ。景倉彩香さんのこと知りませんかって、あ、景倉さんの写真なら緒方さんから借りて携帯の写真に入ってるから、それを頼りに。そうだな...俺は向こうの通りから西の方角に攻めていくから、琥太郎はこっち側よろしく」

 テキパキと説明を始めた瀬立に琥太郎は食い気味に突っかかった。

「おい、ちょっと待てよ!ほ、本気で聞き込み?なんかもっとないのか、こう、最短ルートで行く近道みたいなの」

 行き交う人々に手当たり次第に聞いていくなんて、はっきり言って効率がいいとは言えない。瀬立のことだから、もっと効率のいいやり方を提案するものだと思っていたのに。

 しかし瀬立は首を横に振った。

「これが一番の最短ルートだよ。足で稼ぐ、それが一番。大丈夫、もしかしたら最初に声をかけた人が景倉さんを知ってるかもしれないし。ね?」

「まじか」

「まじです」

 まじか。

 琥太郎はしばらくわずかに唸りながら逡巡した。そしてがしがしと髪を掻くと、

「わかったよ!やってやるよ、それしかねえんだろ!」

と言った。上司がそう言うのだ、やるしかないだろう。信じてついていくのが部下の役目だ。

「じゃあ頼む」

 瀬立が言ったのを合図に、琥太郎は通りの方へ駆け出した。

 通りに入り琥太郎はちょうどカフェから出てきた若い女性に声をかけた。

「あの、すみません。この辺でこの人見かけたことありますか?景倉彩香さんという人なんですけど」

 琥太郎は瀬立に言われた通り、携帯の写真フォルダから一枚の写真を画面に表示する。卒業アルバムの景倉だった。

 頼む、知っていてくれと瀬立が言っていたもしかしたらの可能性にかけてみた。

 が。

「んー、ちょっとわからないですね。ごめんなさい」

 と女性は言った。

 これは長くなりそうだ。

 それから夜まで琥太郎はひたすら辺り一帯を細かく移動しながら聞いてまわっった。しかし、誰も景倉について有益な情報を持っていなかった。

 歩数が二万歩を超えたところで瀬立から連絡があった。

「今日は帰ろうか。日が暮れると、この辺は治安が悪いみたいだし」

 どうやら瀬立は裏路地の方を聞いて回っていたらしい。琥太郎に表通りを任せたのは未成年をそこに近づけさせないためだった。

 車の中でそれに気づいた時、琥太郎は不思議な感覚を覚えた。どうしようもなく心がざわつくのに不思議と不快には思えない、実に淡い感情だった。

 すっかり日が暮れている。星々が天に数えきれぬほどに輝いていた。

 長野に来て初めて東京の空が暗いことを知った。街の明かりがないとこんなにも星は光って見えることに驚いたものである。

 東京では数少ない星たちが、この場所では当たり前に輝いている。たった一つの輝きに焦がれる人がいる中、満天の星の美しさが当たり前の人もいる。その明るさこそが当たり前なのだと、簡単に言える人間が世界にはいるのだ。

 その輝きは、幸せだと琥太郎は思う。

 琥太郎はきっと東京の夜空だ。たった一つの星だけを追い求めている。それだけで十分だと思えるくらいに、夜の暗さを知っているからだ。

 でも、琥太郎だって満天の星々に憧れがないわけじゃない。一つのわずかな灯では不安だ。だからこそ、親の元を離れた。逃げ出した。新しい明かりを目指して、当たり前の光を目指して、扉を開けたのだ。

 その輝きをただただ求めて。

 景倉もそうだったのだろうか。彼女は、星々の下にたどり着けたのだろうか。


 疲れ切った体をスーツのままベッドに横たわらせたのは夜の十一時を回った頃だ。

 ひどい疲れだ。飯を食べる気にすらなれない。

 ここまで働いて、幸せなのか。

 最近、そう思うことが増えた気がする。

 若手のホープとしてこの企画に抜擢された。嬉しかったし、自分でもやりたいと思ったことだった。期待もされている、その期待に応えたいし、そうするべきだとも思う。思っていたからこそ、寝る間を惜しんで仕事に打ち込んだ。そこに何の不満なんてなかったのだ。

 けれど、最近思う。

 多分、同窓会の話が上がってからだ。あの日以来、ぼーっとすることが増えたのである。

 最初は幹事と激務をこなすのが大変で疲れているのだと思っていた。しかし、同窓会を考えると自然に当時のことを思い出す。そのことでふと、動きが止まった。

 中学生のとき、自分はもっと伸び伸びと生きていた気がする。当たり前だ、失うものなんて何もなかったし、子供の延長戦だったからそれはそうなのだけれど。

 でも、ある日気がついたのだ。

 そうか、あの時は景倉がいたのだと。

 景倉とはよく話をした。彼女は頭がよかったから、勉強を教えてもらうことから始まって、自然と打ち解けていった。景倉はよく放課後に教室に残って勉強していたから、部活が無い日はよく一緒に勉強をして。

 その時によく、悩みを聞いてもらっていた。

 最近部活のタイムが伸びないんだとか、妹と喧嘩したんだとか、そういうなんてことない会話をして。

 景倉はいつも話を聞いてくれた。役立つ答えを出してくれる時もあったし、ただ話を聞いてくれるだけの時もあった。でも多分俺は、それで十分で。

 ああそうか。今の自分は、誰かに話を聞いてもらえていないのだ。

 日に日に削れていっている気がする。

 砂時計の砂が上からザラザラと落ちるように、自分を構成する地盤が削れているのだ。

 もし今、景倉がここにいたのなら。削れるに連れてそう思うのだ。

 会いたい。

 それは紛れもなく真実で、本音で。

 ただ悩みを聞いて欲しくて。

 それから少し、伝えたいこともあって。

 会いたい。

 ただ、それだけで。


 目が覚めると、すでに朝だった。どうやらあのまま寝落ちしていたらしい。スーツに皺がついてしまっている。

 携帯の画面を見た。午前七時五十八分。充電は三十八パーセントだった。

 会社、行きたくないな。

 そう思い、瞼を閉じた。


「全然見つかんねえぞ」

 調査していた場所近くのファミリーレストランで鉄板の上に乗ったハンバーグを前に琥太郎はぼやいた。

「確かに、ここまで見つからないとは思わなかったな」

 瀬立がジェノベーゼを上品にくるくるとスプーンの上で巻きながら答える。

 金曜日。昨日に引き続き聞き込みを続けたのだが、これといって成果は得られなかった。琥太郎は徐々に焦りを感じ始めていた。

「しかし、こうも見つからないとはね」

 瀬立が呟いた。

「もしかしたらすでにこの街から離れて違う場所にいるのかもね。彼女ももう立派な大人だ。その可能性は十分あるだろうし」

「もし...そうだったらどうなるんだ」

 瀬立はふむ、と唸ってフォークを置いた。

「そうだねえ、まあ最終手段みたいなのはあるけど」

「最終手段?」

 瀬立は苦笑した。

「でもそれはあんまり使いたくないかな」

 それだけ言うと瀬立は目の前の食事に戻った。琥太郎も何となくそうするべきだと思い、ハンバーグを一気に完食する。

「そういえば琥太郎、蔵之介くんにこの前のお礼言った?」

「は?」

 突如出た生意気な子供の名前に琥太郎は顔を顰めた。

「何がだよ」

「だから、この前の鶴のお礼」

 蔵之介とは千羽を超える鶴を折るために借りた手の一人である。

 そして瀬立の質問に対する答えは、ノーだ。

 すると瀬立は小さくため息をつき言った。

「ちゃんと言わないとダメだよ。助けてもらったのは事実なんだから」

 そうしたい気持ちは山々なのだが、如何せんあの子供の顔を見ると腹が立ってくるのだ。そんな相手にこの間はありがとうなんて言ったら、その後の生活がどうなることか。

「つかそういう瀬立はどうなんだよ」

「俺はちゃんと言ったよ。この前たまたま学校帰りの蔵之介くん達に会ってね、その時に」

 くそ、こいつは言っているのか。

 琥太郎ははあ、とため息をついた。

「気が向いたらな」

「こら。ちゃんと言うんだよ?」

 面と向かってありがとうなんて、簡単なことじゃないのだ。当たり前なことほど難しいことはない。


 昼下がりの店内、常連客がいつものように珈琲を飲みに来ていた。他愛もない会話と店内のBGMが調和してとても好きな時間だ。

 そんないつも通りの一コマだった。

「そういえば昨日、向こうのほうに行ったらさ、いきなり若い子に声かけられて」

「やだ高倉たかくらさんったら。まだお昼なのに」

「いやいや、若い子っていってもお姉ちゃんじゃなくて。高校生くらいかな、いや、もしかしたら中学生?まあ、そんくらいの男の子に声かけられたんだよ。『この人知りませんか』って。同級生くらいの子の写真見せられてさ」

「あら。もしかして初恋の女の子を探してるとか?やだー、素敵ね!」

 情報が発達した今時、そんな話あるのだなと思って聞いていたその時だった。突如その名前が聞こえたのである。

「ねえ、その子他に何か言っていなかった?名前とか」

「えーっとたしか...そうだ、かげくらさんって言ってたよ。かげくらあやかさんを探してるって」

 パリン、と皿が割れた。

 やってきた。ついにやってきたのだ。


 日が暮れた。今日もまた目ぼしい情報はない。

 やはり景倉はもうこの街にはいないのかと思い始めた頃だった。琥太郎は日も暮れ、腹も減ったので瀬立に帰ろうと告げようとして瀬立が調査していた方へ向かった。

 裏路地はすでに夜の空気を醸し出していて居心地が悪い。道は暗いくせに、店の明かりはやたらと強い。琥太郎は早くこの場所から離れたかった。しかしなかなか瀬立が見つからず、琥太郎は辺りをきょろきょろと見渡しながら歩く。

 その時、声をかけられた。

「ちょっと、そこの若い子」

 琥太郎は声のした方をふっと振り返る。すると茶色い髪をゆるく巻いた女性が煙草を片手にそのバサバサしたまつ毛を携えた目で琥太郎を見ていた。

 夜の人。琥太郎はこの姿にひどく見覚えがあった。

 女性は建物の隙間の階段から琥太郎を見ていた。そして煙草を吸い、ふうっと灰色の息を吐く。

「あんた、何してんの。ここはあんたが来るようなところじゃないよ」

 言われて琥太郎はもう一度周りを見渡した。見ると、随分と社会の奥深くまできていたらしい、未成年が立ち入る場所はどこにもなかった。

「ああ、すみません。俺ちょっと人を探してて」

 すると女性は眉を寄せた。

「こんなとこで人探し?なに、親かなんか探してんの」

「いえ、そういうわけじゃないですけど」

 女性はますます顔を顰めた。そして隙間から這い出るように琥太郎の前に躍り出る。

 間近で見るとよく思う。母親そっくりだ。不相応なまつ毛も不自然なほどに巻いた髪も、鼻をくすぐる甘すぎる匂いも。よく似ていると思った。

「あんた...」

 女性が何か言いかけたとき、肩を誰かが掴んだ。

 どきりとして後ろを見ると、品のいい公家のような顔があった。瀬立だ。

「ごめんね、ちょっと遠くまで行ってて」

 すると瀬立は琥太郎の肩をしっかりと掴み、目の前の女性に向き直った。

「すみません、うちの子が何か失礼を?」

 女性はじろりと瀬立を頭からつま先まで舐め回すように見た。一通り確認した後、ふっと顔に入った力を緩める。

「別に。なにもないよ。その子がフラフラしてたから、ちょっと声かけただけ。全く、こんな場所に未成年一人で出歩くんじゃないよ」

 意外な返答に琥太郎はえ、と声を漏らす。すると女性は琥太郎を上から見下ろした。

「ここら辺は危ない輩も多いんだからね。間違っても、二度と来るんじゃないわよ」

 そう言うと女性は建物の隙間へ戻ろうと琥太郎達へ背中を向けた。ハイヒールの音がカツカツとこだまする。

 瀬立はその背中を止めた。

「あの、ちょっといいですか」

 女性は顔だけ振り返る。瀬立はその一歩踏み込んで女性に携帯の画面を提示した。

「人を探してるんですけど、この人、見たことありませんか?」

 言うと女性は面倒くさそうに体ごと振り返る。そして瀬立の携帯を前のめりで見た。

 初めは眉を寄せて見ていた彼女だったが、突如、その目がパッと見開かれた。

「ああ、思い出した。あるよ、この子。前にうちに来た」

 隣のスナックの看板がわずかに瞬いた。

「前に、とはいつのことですか」

 瀬立は声を変えることなく聞く。すると彼女は少し目を伏せるようにして考え込んだ。

「えっと...そうね、たしか十...いや、九年前ね。うちの店がまだ前の店だった時だから」

 九年前。それは景倉が高校を中退した年だ。

 でも、だとしたら。

「どうして彼女はここに来たんですか?」

 瀬立が聞くと、女性は呆れたように答えた。

「ここで働かせてくれって。言ったのよ、あの子」

 ある夏の日だったという。女性、名は三好みよしといった。今日と同じように三好が店先で煙草をふかしているとき、景倉が来たというのだ。現在はスナックだというこの店も、当時は風俗店だったらしい。

「『働かせてください。なんでもします』って言ったわ、あの子」

「三好さんは、どうしたんですか」

 瀬立が言うと、三好は鼻で笑って首を横に振った。

「当然お断りよ。だって、見るからに未成年よ彼女。風俗店だってね、ちゃんと法律ってもんがあるのよ。未成年雇うわけにはいかないでしょ」

 三好は煙草を吸った。そして大きく煙を吐くと、伏し目がちに言った。

「あの子、すごい顔だったわよ。顔は立派に子供なくせに、中途半端な覚悟だけしちゃって。大人になりきれない子供みたいな、そうね、あんたみたいな顔してたわよ」

 三好は琥太郎をあごの先で示した。

「でも多分、彼女が未成年じゃなくてもお断りしてたわ」

 その目がひどく遠くを見つめている。まるでその時の映像を思い出しているかのようだった。

「ああいう子は、ちゃんと幸せにならなきゃダメよ」

 偽物のまつげの中に一つの真理が見えた気がする。三好はおそらく、それほど悪い人ではない。最初はタチの悪い客引きかと思ったが、それはただ琥太郎を気にかけただけだった。そして景倉を語るその口調が何よりの証拠だ。

 瀬立が問う。

「では、その後の景倉さんの行方はご存知ですか」

「そうね...詳しくは知らないけれど。でも、言ってやったのよ、私。『あんたみたいなのはここで仕事を探すな。東の通りか、北の明るい通りで探しな』って。だからもしかしたら、そこらへんにいるかもね」

 

 車に戻り、しばしの沈黙のあと、

「見つかりそうだな」

と琥太郎は呟いた。

 瀬立は笑みを浮かべながら、

「うん。明日斎藤さんに会ってから向かってみようか」

と言った。

 琥太郎はなんとなく、これで見つかるような気がしていた。多分、それなりに疲れが溜まっていたからそう思いたかっただけなのだろうが、それでも直感を信じてみる。

 景倉はもうすぐ見つかるだろう。

 そう思った時だった。

 瀬立の携帯が鳴る。

「琥太郎、電話でてくれない?」

 琥太郎は瀬立のジャケットの左ポケットを探り携帯を取り出した。瀬立が左ポケットに携帯を入れていることはすでに把握済みだ。

 画面を見ると、緒方からだった。琥太郎は通話のマークをタップし、スピーカーに切り替える。

「もしもし、緒方さん?」

 瀬立が声をかける。するとすぐには返事がなかった。数秒した後、力のない声が響く。

『...もしもし』

 琥太郎は驚いた。ついこの前まであった緒方という人物によく似合うあの元気がどこにもないのである。何かあったのだろうか。

『あの、瀬立さん。ちょっと相談なんですけど』

「はい」

 電話越しの声がわずかに波打つ。

『俺も、そっち行っていいですか』

 これは少し予想外だった。

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