第24話

 次の目的地は緑山高校である。どうやら当時、景倉を担当していた人物を見つけたらしい。瀬立の携帯に徳田から連絡があったそうだ。

 しかし、緑山高校へ向かう道中、車内の空気は重かった。

「...虐待か」

 琥太郎は呟いた。

 円堂の話に出てきた水泳を休んでいたことと肩の痣はおそらく、というかほぼ百パーセントその事実を物語っている。

「円堂さんの話では、水泳を休んだのは一度や二度ってわけではなさそうだし、おそらく日常的に暴力を受けていたんだろうね」

 ひどく重い声で瀬立が言った。瀬立も景倉の虐待の事実に気づいていたらしい。

 琥太郎も過去に何度かそんなことはあった。体にできた痣を隠すために仮病を使って水泳の授業を休んだのは別に珍しい経験ではなかった。その経験があったからこそ、頭の回転が早くない琥太郎でもいち早く円堂の話に気づくことができたのだ。

「俺も気持ちはわかるよ、十分に。でも...少し違う」

 琥太郎は窓の外を見ながら言った。瀬立は何も言わなかった。それでもなんとなく、聞いてくれているような感じはしたので、そのままぎりぎり届くくらいの声で続ける。

「俺の場合は、日常的な暴力はなかった。たまに殴られる蹴られるくらいで...まあ、顔合わせてる時間のほうが少なかったから、当然といえばそうなんだけど」

 むしろ琥太郎の場合、問題だったのはネグレクトの方である。体の痣はなくとも、腹はいつも空いていた。

 別に同じ境遇だとは思わない。彼女は琥太郎と違って日常的な暴力を受ける家庭で育ち、成績優秀で高校にも進学した。逃げるように家を出て、中学を卒業しすぐに働いた琥太郎とは何もかもが違う。景倉の気持ちをわかってあげることはできないし、自分の気持ちをわかってほしいとも思わない。むしろそれは望まれない。

 けれど、大人になった景倉と会ってみたいと思うのだ。影倉が辿り着いた未来を、見てみたい。

 もしかしたらそれが自分が辿り着く未来の一つの指標になる気がして。

「会ってみたい?」

 例のごとく琥太郎の心を読んだ瀬立が前を見据えながら言った。

「俺の心を読むな...」

 言葉の途中で琥太郎はふと思い出した。あるいは気づいたのかもしれない。

 先ほど円堂の話を聞こうと思ったその時、琥太郎はどうしようか迷っていたのだ。デリケートな問題だから、踏み込まないほうがいいのではないかと思って、一度放っておこうとした。しかし、円堂の小さなため息を聞いて話を聞こうと思ったのである。それがなんとなく、話を聞いてほしいと言っているような気がしたからだ。

 それは多分瀬立のいう『人の音を聴くこと』で。

 人の気持ちに気づけることなのか。

 だとしたら。

 琥太郎は自分の右側に座る瀬立の横顔を見た。外は夏の暑さに満ちているのに、それを微塵も感じさせないほどにその顔は涼しい。

 この男は何度も琥太郎の気持ちを読んできた。琥太郎は自分の表情筋が気持ちと直接繋がっているからとばかり思っていたが、もしかするとそれだけではないのかもしれない。

 瀬立は誰よりも、人の音を聴いて、その気持ちを聴いているからなのではないか。

 じっと琥太郎が瀬立の顔を見続けていると、ちらと視線がこちらに向いた。

「どうかした?」

「...なんでもねえ」

 琥太郎は再び窓の向こうに視線を移す。鮮やかな緑がみずみずしく光っていた。


 昨日と同じ部屋に通され、瀬立はいつも通りの笑み、琥太郎は若干今日の相手の見た目に緊張していた。

 当時の景倉を知る人物というのは五十代くらいの男性だった。スキンヘッドに髭を短く剃り上げた控えめに言っても厳つい見た目で、恰幅もいい。到底教師には見えない風貌である。

 男性は傍に中の紙がはみ出したクリアファイルを置くと名乗った。

「どうも、私はここで教員をしています、水戸部みとべといいます」

 しかしやはり厳ついのは見た目だけのようで、丁寧に名刺を差し出してくれた。

「これはどうも。僕は瀬立瑞樹といいます。景倉さんの同級生である緒方さんの代理人です」

 琥太郎も小さく頭を下げる。琥太郎にも水戸部は礼を返してくれた。思ったよりもずっと礼儀正しい。

 名刺ケースをしまうと瀬立は早速本題に入った。

「景倉さんを担当していたとお聞きしました。当時のお話を聞かせていただけますか?」

 すると水戸部は少し息を整えてから静かに語り始めた。その表情はひどく、苦しげに見えた。

「十年ほど前ですね、景倉さんを担当したのは。私から見れば...いえ、多分彼女を知る全ての教員は、彼女がこの学校の生徒であることを不思議に思っていました」

 水戸部は景倉の担任だったらしい。不良だらけの教室の中、その黒髪が印象的な彼女は異彩を放っていたという。

「授業も真面目に受けていましたから、成績が良くて。それに加えてやんちゃな生徒たちにも分け隔てなく接してくれて。だから不思議といじめもなかったんですよ。これは学校のイメージを保ちたいから言っているわけではなく、本当になかったんです。多分あいつらも、景倉さんという人の優しさをわかっていたから下手に攻撃しようとは思わなかったんでしょうね。やんちゃな奴らは意外とその辺熱いですから」

 琥太郎は意外に思った。てっきり、ヤンキー校に馴染めなくて、もしかしたらいじめなんかもあったりしたから辞めたのかと思っていた。しかしその事実は考えにくいらしい。目の前の水戸部が嘘をついているようにも思えない。

 だとしたら、一体何が原因で彼女は学校を辞めたのか。

 瀬立が問うた。

「彼女は学校を辞めていますよね。時期はいつ頃ですか?」

 すると水戸部の苦しげな顔が一層深さを増した。

「三ヶ月ほど経った頃です。突然のことでした」

 あまりにも早すぎるその数字に琥太郎は思わずえ、と声を出してしまった。水戸部の目がわずかにこちらへ向く。頼りなげに、水戸部は目を伏せた。

「退学する際、彼女はなんと言っていましたか」

 瀬立が問う。水戸部は目を伏せたまま答えた。

「...何も。いきなりでした。本当に突然、前期期末テストが終わって、夏休みがこれから始まるというとき、放課後に彼女が来て」

 名前と印鑑が押された退学届を机の上に置いたのだという。

「信じられませんでした。最初は何か、ドッキリでも仕掛けられているんじゃないかって。あいつらのことだから、またふざけてからかってるんだろうって...実際、前にそういうこともあったから。でも、それはドッキリなんかじゃなかった。景倉さんは本当に、学校を辞めようとしていたんです」

 水戸部は問い詰めたという。理由はなんだと。

 しかし景倉は、ごめんなさいと言うばかりで答えなかったという。

「とりあえず預かっておくと言って、その日は帰したんです。もう暗かったし、私も帰ろうと思っていた時でしたから。でも、それが間違いだったんです」

 その日以降、彼女は学校に来なくなった。

「翌日、彼女は学校を休んだんです。思えば景倉さん、その日までずっと皆勤で休んだことなんかなかった。でも俺は、テストの採点で忙しくて彼女の家に連絡することができなかった...!いくらでもできたのに、それができていたら、もしかしたら、彼女は学校を辞めなくて済んだのかもしれないのに!」

 悲痛な声が部屋中に響いた。その中で、琥太郎は成田の言葉を思い出していた。

 緑山高校は教員たちもあまり良くなくて。

 それは違うような気がする。少なくともこの水戸部という教師は、たった一人の女子生徒のことで十年間も忘れることなく、後悔し続けている。その情熱が、果たして悪い教員なのだろうか。

 瀬立はしばらく黙っていたが、すう、と短く息を吸うと質問を続けた。

「彼女の行き先に心当たりは?」

 水戸部は小さく深呼吸をする。十分に息を整えてから、首を横に振った。

「いいえ。何も言っていなかったので。ただ...」

「ただ?」

 水戸部は重い声で言った。

「その後、夏休みに入ってから景倉さんの家を訪問したんです。そしたら、誰もいなかったんですよ」

「誰もいない?」

 琥太郎は予想の斜め上の答えに聞き返した。すると水戸部は琥太郎の目を見て頷く。

「何度もインターホンを押してみても反応がなくて。それでマンションの大家さんに聞いてみたんです。そしたら、『その部屋ならちょっと前に出て行きましたよ』って」

 詳しく時期を聞いてみると、ちょうど景倉が退学届を持ってきた時期と一致した。

「何かあったんだと思いました。でも、退学届も受理してしまったし、もうどうにもできなくて。私にとって景倉彩香はもう、教え子でもなくなってしまいましたから」

 結局何もできなくて。

「チャイムを聞くたびに思い出すんです。教室の中に一つ、空いた席が脳裏にこびりついてて離れない。授業が始まる前にはもう景倉さんが座って待っていたあの席が、空席になってしまったあの気持ちを忘れることができません」

 すると水戸部は傍のクリアファイルに手を伸ばす。そこから出てきたのは、赤ペンで丸がたくさんつけられた答案用紙だった。水戸部はそれを琥太郎たちの前に差し出す。

「景倉さんの答案用紙です。返しそびれてしまって」

 瀬立が取り上げてじっくりと見るのを、横から覗き込むとその点数に驚いた。全てがほとんど満点だった。バツはほとんどついていない。緒方や円堂が言っていたように、本当に秀才だったようだ。

 琥太郎の心情を察したのか、水戸部が寂しそうに笑いながら答案用紙を見た。

「すごいですよね。いくら簡単に作られたテストとはいえ、ちゃんと捻った問題も出したつもりなんですけど、それも簡単に解いてしまって。本当に、将来が楽しみな生徒でした」

 瀬立が水戸部に答案用紙を返す。水戸部は手元に帰ってきた答案用紙を見ながら言った。

「あの、瀬立さん。景倉さんを探しているんですよね。...私からもお願いします。景倉さんを見つけてください。それでもし見つかったら、私の方にも連絡してくれませんか」

 水戸部は手元の答案用紙を握った。

「この答案を、返さないといけないですから」

 瀬立は強く、頷いた。


 瀬立は水戸部からメモをもらった。それは景倉が当時住んでいたはずの住所である。手がかりを探しに、琥太郎たちはそのマンションへ向かうことにした。

「三ヶ月か」

 琥太郎が呟くと、運転中の瀬立が答えた。

「円堂さんとの手紙のやり取りが途絶えた時期とも一致するね。おそらく、その時期に景倉さんに何かがあった」

 何か。

 学校を退学せざるを得ないほどの何かが、景倉の身に起こった。

「...瀬立はどう思う」

 静かな問いに、瀬立は涼やかな声をわずかに低くして答えた。

「考えられるのは、彼女の親に何かがあったってことかな。詳しく聞いてみないっとわからないけど、出て行ったっていうのがどうもね」

 車は走っている。目的地へ向けて、まっすぐに。

「一番可能性があるのは、夜逃げかな」

 瀬立の一言に琥太郎は目を閉じた。

 やはり、そうか。

「ただ引っ越しただけなら退学届なんか出さない。しかも彼女が退学届を提出したのはとても急だった。突然の出来事だった。加えて彼女は日常的に暴行を受けていたと考えられる。となると、彼女の親が何かしら影響しているのはあるだろうね」

 そう考えてみたとき、一番可能性があるのは夜逃げだ。

「そうすれば突然辞めたことも辻褄が合うし、『出て行った』という表現もしっくりくる。ただ、その先彼女が親と一緒に行ったかどうかは...」

 そのさきの言葉を瀬立は言わなかった。言う必要はないと判断したのだろう。それはそうだ、琥太郎にだって理解できるのだから。

 

 車はマンションへ辿り着いた。琥太郎たちの突然の来訪に管理人は嫌そうな顔をした。そして部外者へ教えることはできないとぴしゃりと琥太郎たちを追い出してしまった。

 万事休す、もしくはゲームオーバーか、と思われたそのとき、四十代くらいの女性が話しかけてきた。おそらくこのマンションの住人だろう。

 瀬立と琥太郎は好機と思い、用件を伝えた。女性は『景倉』という名前を出すとくるりと表情を変えた。

 その顔は多分、一種の期待の表情だ。

「なんかやらかしたのかい!」

 彼女ははっきりとそう言った。

「いえ、そういうわけではないのですが」

「なんだい、てっきりそうかと思ったよ」

 どこか残念そうに言ったその横顔に琥太郎はムッとした。しかし瀬立は気にせず笑顔のまま続ける。

「てっきり、とは?」

 女性は瀬立の問いに一周躊躇いを見せたが、その顔の良さに気づいたのか、急に乗り気になる。周りをキョロキョロと見渡した後、口元に手を添え小さな声で言った。

「夜逃げしたのよ。景倉さん」

 琥太郎は電撃が走ったような感覚を体に覚える。やはり予想は的中したか。

「夜逃げ、ですか」

 瀬立はまるで知りませんでしたとでも言うような顔で夫人の話に耳を傾けた。すると夫人はそうよと頷いて続ける。

「三人で暮らしてたのよ、母親と娘と、内縁の夫っていうの?その三人で。でも、十年くらい前に急に出て行ったのよ」

「三人で、ですか?」

 瀬立が聞くと、夫人は首と手を横に振る。

「母親と夫が出て行ったの。娘を置いて」

 その言葉を聞いたとき、琥太郎の内側が燃えるように熱くなった。

「なんていったかしら、確か...そう、彩香ちゃんよ。思い出したわ。その子だけ置いて、二人で逃げたって。で、ちょっとしたらその彩香ちゃんもいつの間にかいなくなっちゃってて。驚いたわよ当時。一家で夜逃げ。ほんとマンション中大騒ぎで。もう、びっくりしたわー」

 言葉ではそういうものの、その声はどこか楽しげだった。胸の奥の怒りが沸々と湧いて表に吹きこぼれそうになるのを必死に抑える。

 母親と夫が出て行って。その後に娘も出て行った。

 だから景倉彩香は、学校を辞めた。

 彼女が通っていた学校は私立だ。金がかかる。それに家の家賃もある。きっとその全てを両立することができなかったのだろう。

 あるいは、もう何もかも限界だったのかもしれない。

 むしろその気持ちの方が家を出る理由になったのかもしれないと、琥太郎は思った。

 瀬立は夫人に最後の質問をした。

「彼らがどこに行ったかはご存知ですか?」

 すると夫人は首を横に振った。

「わからないわね。あ、でも」

 夫人ははっきりした声で言った。

「何年か前に、隣町で彩香ちゃんのこと見かけたって、お隣さんが言ってたわ」

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