第23話
その日の夜、緒方から再び電話がかかってきた。すでに柔らかい布団に潜り込んでいた琥太郎は慌てて体を起こし、休みかけた頭を仕事モードにスイッチする。
瀬立は昼間と同じく、携帯をスピーカーにして通話した。
『すみません、こんな遅くに』
「いえ、大丈夫です。早速ですが本題に入ってもよろしいですか?」
瀬立が聞きたいと思ったのは、景倉彩香がという人物についてだった。
『景倉の話、ですか?』
不思議そうに言った緒方に、瀬立はまるで対面しているかのように笑顔を作った。
「はい。景倉さんがどのような方だったのか、捜索のために聞いておきたいんです」
『はあ...まあ、役に立つのであればいくらでも。そうですね、景倉は...』
電話越しの声が静かに語る。
『勉強できて、それに優しくて。謙虚で、表に立って何かやるってタイプではなかったけど、でも...憧れでしたね』
「憧れ?」
瀬立が問うと、緒方は今もなおその気持ちを持っているような慈しみの声で言った。
『景倉、すごいんですよ。勉強できるって言いましたけど、でもそれは人一倍努力してたからなんです。朝も早く来て、放課後は誰よりも遅く残って勉強してて。普段の生活態度とかもすごい良くて、模範生徒みたいな人だったんです。それで性格も良かったから、もう憧れでしたよ。こんな人になりたいって身近な人で初めて思いました』
琥太郎は緒方の話に少なからず驚いた。てっきり景倉は緑山高校に行くような不良生徒で、それゆえに連絡が取れなくなっているのではないかと思っていた。しかし、事実はむしろそれの真逆である。
真逆すぎて、不自然だ。
ではどうして景倉は緑山に進学して、そして中退したのか。
相槌を打ちながら話を聞いていた瀬立は何かに納得したように大きく頷くと、緒方に言った。
「わかりました。ありがとうございます。では、今日はもう遅いのでこの辺で」
見ると時刻は十時を過ぎていた。遅いので、というのはどちらかというと明日も朝から仕事がある緒方を思ってのことだろう。
電話が切れると、瀬立はふうと息をついた。
「少しずつ、繋がらないね」
そう呟いた瀬立に琥太郎は疑問を抱く。
「繋がらない?」
瀬立は頷くと、腕を組み、長い足を組み替えた。
「色々気になることはあるけどね。まず優先すべきは彼女の現在地だ、それは二の次」
言うと瀬立は立ち上がり前髪をかきあげた。
「とりあえず今日はもうおしまい。明日は円堂さんのとこに行くよ。おやすみ、琥太郎」
円堂という人物には緒方から連絡してくれた。景倉と連絡を取るために聞きたいことがあるので代理人と会ってほしいという用件を伝えると、快諾してくれたらしい。円堂とは午前十時にホテルからさほど遠くないカフェで待ち合わせをすることになった。
待ち合わせ場所のカフェはおしゃれな外観でおそらくここ最近できたものであることを感じさせる。こういう類の店に入ったことがない琥太郎にとっては少々気後れするのだが、瀬立は一切気を使わずに笑みを浮かべながら琥太郎の背をどしどしと押した。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
店員の大学生くらいの女性が言った。瀬立は笑みを湛えて右手で制止し、待ち合わせだということを伝えた。
「あ、あの、こっちです。円堂です」
声がした先を見ると、客席を立ち上がりおずおずと手をあげる女性がいた。名乗った通り、彼女が円堂だろう。
瀬立は店員に軽く会釈をした後、円堂の元へ向かった。琥太郎もそれについていく。四人がけのテーブル席、円堂の反対側に瀬立が腰掛け、彼女の荷物が置かれた椅子の反対側に琥太郎が腰掛けた。
「こんにちは。緒方さんの代理の瀬立瑞樹といいます」
瀬立は名刺を差し出す。それを円堂はどうも、と言いながら受け取った。どうやら緒方から事前に代理人の風貌を聞いていたようで、店に入っただけでわかったらしい。公家顔の美形と金髪の少年の二人組となれば、瀬立と琥太郎の他には見当たらないので当然だ。
円堂は黒く長い髪を頭の後ろで一つに結び、隈が濃い顔を眼鏡で隠すようにしていた。灰色のパーカーの袖口は少しよれている。なんというか、琥太郎としては親近感が湧く装いなのだが、どことなく違和感を抱く。
「
申し訳なさそうに言った円堂に瀬立は当然笑みで答えた。
「いえ、お気になさらず。それより、ここのカフェ、いい雰囲気ですね。円堂さんも普段からくるんですか?」
いきなり雑談から入った瀬立に琥太郎は驚きの目で見た。その顔は変わらず笑みを湛えていて、何を考えているのかはわからない。
円堂は一瞬戸惑ったような顔をしたが、店内を見渡しながら答えた。
「はい...半年前くらいにできてから、何度か。この辺、あんまりこういうお店はないから、結構気に入ってて」
円堂の顔に少しだけ笑みが生まれる。なるほど、瀬立がやりたいのは円堂の緊張を解くことか。
「そうなんですね。あ、ちょっと飲み物頼んでもいいですか?琥太郎、何頼む?」
「え!?あ、ああ、えっと...」
瀬立にひょいと渡されたメニューを見る。意外とメニューが多くて焦る。その中でぱっと目に入ったある写真を見つけた。
そこには鮮やかな緑色の液体にバニラアイスが乗った飲み物があった。
クリームソーダ。
不意に、耳元で雨の音が聞こえた気がした。
「それにする?」
瀬立の声がして、はっと現実に帰る。琥太郎はゆるゆると首を振り、円堂の前に置かれていたアイスティーを所望した。
瀬立はそう、と呟いて店員にアイスティーを二つ注文した。
頼んだアイスティーが来るまで、琥太郎の頭には最後に父親に会ったあの日の映像が流れていた。思えばあの日、自分はクリームソーダを飲まずに店を出ていたのだ。せっかく頼んだのに、悪いことをしてしまった。今ならそう言えるのに、あの日の自分は雨の冷たさに耐えきれなくてそれどころではなかったのである。
これから先、クリームソーダが飲める日は来るのだろうか。漠然と、そう思った。
アイスティーが到着すると、瀬立は本題に入った。
「円堂さんは、景倉さんと仲がよかったんですよね?」
円堂は弱々しく頷いた。しかし、その顔には少しだけ笑みが浮かんでいる。
「はい。出席番号が近かったので、よく話してました」
「ちなみに、現在の景倉さんの居場所とかはご存知ですか?」
瀬立が聞くと、円堂は首を横に振った。しかしこれは予想通りだ。知っていれば、琥太郎達がこうして長野に来るはずもない。とっくに緒方に連絡が行っているはずだ。
「では、景倉さんの進路について聞いたことは?」
円堂はそれにも首を横に振った。
「ありません。受験勉強とか一緒にしてたんですけど、思い返してみればそういうの、一切聞いてなかったなって」
これも緒方の話と同じだ。
瀬立は質問を続ける。
「卒業後、彼女と連絡は?」
「何度か手紙のやり取りを...これです。もしかしたら、役にたつかなって思って持ってきたんです」
円堂は傍に置いていた手提げから封筒を何通か取り出した。そこには丁寧な字で『円堂千夏様』と書かれている。
「お互い携帯を持っていなかったから、手紙でやり取りしたんです。卒業する時に彼女に私の住所を教えて...それで彩香ちゃんが最初にくれたんです」
そう言った円堂の目は実に暖かかった。愛おしげに封筒を見つめ、思い出を振り返るように。
「素敵ですね。文通はどのくらい続いたんですか?」
瀬立が問うと、穏やかだった顔は急に悲しげに歪んだ。
「あまり長くなかったんです。月に二回くらい出して、三ヶ月、くらいですかね。だから、ここにある手紙がその全部なんです」
琥太郎は目の前に広がった手紙たちを見た。量としては決して多くない。
「最後に手紙を出したのは、どちらですか」
「私です。私が彩香ちゃんに出して、それで...返事がこなくなりました」
すると円堂は苦笑を浮かべた。
「多分、私よりも大事な友達ができたんでしょうね。新しい場所で、新しい友達が。私だって、その頃には高校で新しく友達ができてたから。きっと、多分、そうなんですよ」
口ではそう言った円堂だったが、目の奥には寂しさを隠しきれていない。そのようはまるで、彼女は今もまだ、景倉からの返事を待っているようにすら思えた。
「景倉さんは、どんな人でしたか?」
瀬立が聞くと、円堂は封筒を手でなぞりながら語った。
「優しい子でした。それに誰よりも頑張り屋さんで、おまけに可愛くて。でも全然それをひけらかしたりしないし、むしろ自分を卑下してて、私はそれが不思議でした」
円堂はアイスティーを口に含む。
「私とかが褒めたりすると、彩香ちゃんよく言ってたんです。『私はみんなに褒めてもらうような人間じゃない。そんな資格ない』って。すごい謙虚だなって、みんな思ってましたよ」
語る円堂に、瀬立が聞いた。
「素敵な方だったんですね。では逆に、景倉さんが苦手だったこととかありますか」
円堂が顎に手を当てて思い出す。するとあ、声をあげて言った。
「水泳の授業は休んでましたね。多分、苦手だったんじゃないかなと」
そこまで言うと円堂が再びあ、と声を上げた。瀬立が続けるように頼むと、円堂は眉間に皺を寄せて言った。
「水泳で思い出しました。あの、いつだったかは忘れましたけど、体育で着替えてる時、彩香ちゃんの肩のあたりにピンポン球くらいの痣があったんです。どうしたのって聞いたら、自転車で転んだって言ってて」
その瞬間、琥太郎ははっとした。そして考えられる事実に、顔を歪めた。琥太郎もそんなことがあったからよくわかる。
ああそうか。景倉彩香は。
すると突如、携帯のバイブレーションが聞こえた。音のした方を見ると瀬立の携帯が震えていた。また緒方からかかってきたのかと聞くと、どうやら違うらしい。
「すみません、ちょっとでてきてもいいですか?」
「ああ、どうぞ。お構いなく」
瀬立が店の外に出たあと、二人きりで気まずくなったテーブルで琥太郎はアイスティーを吸った。ただでさえ二人きりは気まずいのに、見知らぬ人と二人はもっと気まずい。瀬立が早く帰ってくることを切に願った。
しかし沈黙が気まずくなったのか、円堂が話しかけた。
「えっと、働いてるんだね。バイト?」
琥太郎はストローから口を離し答えた。
「いえ。正社員です」
「え、でもすごい若そう...あ、そっか、ごめんなさい」
円堂は申し訳なさそうに頭を小さく下げた。琥太郎は気にしないでくださいと彼女の頭を上げさせる。
「別に気にしないので」
中卒は事実だし、そういう見られ方をするのもまあ、わからないでもない。
しかしふと、琥太郎は思い出した。
琥太郎自身は別に中卒を気にしてはないない。ならなぜ昨日、徳田にあれほど腹が立ったのだろうか。
琥太郎が首を傾げていると、円堂が呟いた。
「すごいな...あなたみたいな若い子が働いてるのに、私は...」
言うと円堂は自嘲気味に笑った。
そこで琥太郎は円堂に抱いた違和感の正体に気づいた。化粧気のない顔、雑に結んだ髪、そして琥太郎が着るようなパーカー。どれも働いている女性の見た目には合わないものなのだ。しかも今は平日の午前十時。昨日緒方に連絡を受けてからあまり時間はなかったというのに、こうして快く会ってくれるなんて現実的ではない。
彼女は今、働いていないのだ。
窓の外を遠い目で見つめる円堂にかける言葉が琥太郎にはわからない。慰めればいいのか、それとも放っておいたほうがいいのか、いろいろ考えてみたけれど、琥太郎の脳に考えられることには限界がある。
だから、目を閉じた。
目を閉じ、音に耳を澄ました。
カフェの喧騒が聞こえる。けれど客それぞれの細かい声は聞こえない。全て適度に飽和して、喧騒として世界に存在している。その中で一つ、音が聞こえた。
小さな小さな、ため息だった。
「あ、あの」
琥太郎は目を開くと同時に円堂に向かった。
「お、俺でよければ話、聞きましょうか」
なんとなく、彼女のため息がそれを望んでいるような気がした。誰かに聞いてほしいと、そう言っているような気がしたのだ。
円堂は少しだけ驚いた顔をすると、苦笑して言った。
「じゃあ、聞いてもらえる?」
琥太郎は勢いよく頷いた。
そうか、これが人の音を聞くということか。
「実はね、今休職中なの」
円堂は半分ほどになったアイスティーをストローでくるくると回しながら言った。
「理由は、なんですか」
「人間関係でちょっと。イジメにあってさ...笑えるよね、大人の世界でも当たり前にイジメがあってさ。それで、その標的に自分がなるなんて...」
円堂の目はひどく暗かった。その目の奥には、一体どれほどの地獄が映し出されているのだろう。
「ちょっとしたことで同僚とギクシャクして、それで気づけば部署でひとりぼっちで...で、ある日倒れちゃって、それから休職中なの」
「...辞めようと思わなかったんですか」
円堂は首を横に振る。
「できなかった。その勇気がないのよね、いきなり無職になるのが怖くて。休職ならなんとなく、まだギリギリ世界にしがみついてるかな、と思って。でも、なかなかうまくいかないんだよね。復帰してみようって気持ちはあるんだけど、会社に行こうとしたら動悸がすごくて、行けなかった」
体が拒否してた。気づけば実家の方に帰ってきてしまっていた。円堂はそう語った。
琥太郎は円堂の話を聞きながら、以前の職場を思い出していた。琥太郎も似たような理由でクビになったのだ。どうしても同情してしまう。
「だから、あなたがすごいと思う。若いのに働いてて、偉いと思う。それに比べて私は、とも思うけどね」
そう言って円堂は無理に笑った。それを見て琥太郎は、
「違う」
と声に出してしまっていた。ほとんど無意識の行動だった。
琥太郎がそう言ったのに対し、アイスティーを吸った円堂は困惑の表情をした。琥太郎は慌てて訂正する。
しかしその訂正はあくまでも敬語を使わなかかったことに対する訂正だ。
違う、ということには決して訂正するつもりはない。
「違う、と思います。若いのに働いてるって言いましたけど、俺は働きたくて働いてるんです。そこに偉いとか偉くないとかはなくて、ただ俺のやりたいようにしてるんです。それと、円堂さんは別に何も悪くないと思います」
琥太郎は円堂の目をじっと見つめて言った。
「円堂さんは今、働きたくないんですよね?体がそれを拒否してるんだから、そうなんだと思います。だったら、働かなくていいんじゃないですか。辛いことがあって、しかもそれは簡単には癒えない傷で。だったら焦って復帰することよりも、時間をかけて自分のペースで歩いたほうがいいんじゃないすか。偉い偉くないの話じゃなくて、円堂さんがどうしたいかだと思います」
円堂自身が、復帰したいのかしたくないのか。
「実は俺も人間関係で前の会社クビになってるんです」
「え、ほんと?」
声を上げた円堂に琥太郎はまっすぐ頷いた。
「それで今の場所にいます。俺の場合は...円堂さんみたいに時間はかからなかったけど、でも、それはそれでいいんです。俺だったから。でも、円堂さんはそうじゃない。傷ついてるなら、ゆっくり休むのが一番だと思います」
言い終わると琥太郎はぽりぽりと頬を掻いた。なんだか偉そうなことをつらつらと言ってしまった気がする。今更になって気恥ずかしく、そして申し訳なくなってきた。
琥太郎が謝ろうとすると、円堂は首を横に振った。
「ううん、大丈夫。むしろ、ありがとうかな」
円堂が言うと、瀬立が帰ってきた。随分と長い電話だった。おかげでいろいろ話し込んでしまったじゃないか。
カフェから出る際、円堂が琥太郎達を呼び止めた。
「あの、彩香ちゃんのこと、見つけてください。私も彩香ちゃんに会いたいんです」
今彼女がどんな姿になっていても。たとえもうあの頃の景倉彩香でいなくても。
瀬立は優しげな笑顔を浮かべて答えた。
「ええ、もちろん」
円堂の顔は会った時よりも少しだけ、晴れやかな顔をしていた。
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