第22話
「この後どうするんだよ」
「そうだねえ、どうしようか」
人で賑わう蕎麦屋で琥太郎が瀬立に問うと、返ってきたのはそんな返事だった。
学校を離れ市街地の方へ出ると、手頃な蕎麦の店に行き当たった。蕎麦の文字を見た瞬間に琥太郎の腹が鳴ってしょうがなくなったので、そのまま昼食をとることにしたのだ。
瀬立がざる蕎麦、琥太郎がざる蕎麦とカツ丼を頼んだ。カツ丼まで頼んだ琥太郎を見て、瀬立は「成長期だねえ」としみじみ言った。琥太郎としてはむしろ抑えた方なのだが。
瀬立が蕎麦を食べながら言う。
「斎藤さんに連絡が取れるまではとりあえず緑山高校の方に行ってみるっていうのが現実的かな。そこを辿れば景倉さんの現在の居場所もわかるだろうし」
「他の選択肢もあるってわけか」
琥太郎が言うと、瀬立は箸を置いた。そして目を丸くして言った。
「すごいね、気づけるようになった」
「は?」
瀬立はうんうんと頷き続ける。
「別に、今の俺の言葉は普通のことを言ったのに、琥太郎は俺の気持ちを汲み取った。それは俺の音を聞けるようになったからだよ、すごいね琥太郎!」
大げさに褒める瀬立は琥太郎の頭を撫でる。琥太郎はそれを払うように頭を振った。
「別に音を聞いたわけじゃねえっつーの。なんとなく、そんな顔してただろうが」
振り払われた手をしまいながらも、瀬立は首を横に振った。
「顔ねえ。俺、そんなに表情出る方じゃないんだけど。それでも琥太郎が察したってことは、やっぱり琥太郎が俺の音を聞いてるってことだよ。なあに、物理的な音だけが音じゃないんだから」
「意味わかんねえ」
食べかけだったカツ丼に食らいつく。すでに蕎麦は食べ終えていた。じわっと沁みる甘いタレが美味すぎる。
「で、他の選択肢ってなんだよ」
逸れた話題を元に戻す。瀬立はああ、と言って述べた。
「当時、景倉さんと仲が良かった人を探せないかなと思って。緒方さんもそうなのかもしれないけど、忙しいみたいだから。他にもいないかなと」
確かにそれは聞いておきたい情報だ。景倉がどのような人物だったのか、何か知っていることはないかなど、現在の居場所に繋がることがわかりそうだ。
「でも、どうやって探すんだよ。緒方さんに聞くとか?」
「それが一番手っ取り早いけど、今日中に連絡がつくかどうか。今はとりあえず、緑山高校に行ってみるしかなさそうだね」
「アポは?」
流石になんの連絡もせずに行くわけには行かないだろう。社会人としての礼儀だ。
「後で電話してみようか。懇切丁寧に説明すれば、なんとか教えてくれるんじゃないかな」
瀬立が言い終わると同時に琥太郎はカツ丼を完食した。それを見てまだざる蕎麦を食べている瀬立は、
「早食いはやめなさい」
と静かに、けれどとても鋭い声音で言った。
店を出て車に戻ると、瀬立が緑山高校に連絡をした。少し手間取っているようだったが、なんとか会ってくれるということで落ち着いたらしい。
車を走らせ山を越える。その先に見えてきたのは古びた校舎だった。壁にはところどころヒビが入り、白い壁は黒ずんでいる。事前にヤンキー校と知らされていなくても、入るのを戸惑うだろう。
しかしそれを気にすることなく瀬立はずかずかと校舎に入っていく。先ほどと同様に事務に用件を伝えると、女性の職員が出てきた。
「こんにちは。副校長の徳田です」
年齢は五十代くらいだろうか、黒のスールに身を包みその毅然とした態度が貫禄を見せつけてくる。先ほど訪ねた成田とは雰囲気がだいぶ違う。
「いきなりすみません。僕が連絡した瀬立瑞樹です」
瀬立が名刺を差し出しながら礼をすると徳田も礼を返す。そして頭を上げたとき、琥太郎とばちんと目が合った。
「...その子は?」
琥太郎は自ら答えた。
「部下です。よろしくお願いします」
すると徳田はその顔を歪めた。赤い口紅をつけた唇の端が下を向き、眉は寄せられその目は蔑みを湛えて琥太郎を見つめた。
「部下?どう見ても子供じゃないですか」
琥太郎は淡々と答える。
「今年の三月に中学を卒業してここで働いています」
すると次にその目が捉えたのは瀬立だった。
「こんな若い子供を雇おうだなんて、あなた社会人としてどうなんですか。見たところとても若そうだし...大人として恥ずかしく思わないの?」
琥太郎はピキッと自分のこめかみの辺りが鳴る音がした。適当なことを言う徳田に思わず殴りかかりそうになるのを、瀬立が琥太郎の肩を押さえて止めた。
見上げたその横顔はいつも通りの笑みである。あるいは、余裕の笑みだ。
「恥ずかしくないですね、全く。僕は彼を必要としていたので雇ったんです。そして彼は十分にその成果をあげてくれてる。そこに彼の年齢は関係ありませんよ」
あっさりと言い切った瀬立に徳田はわずかに怯んだが、それでも歪めた顔はそのままだった。そして大きなため息をついた後、
「こちらへどうぞ。用が終わりましたら、速やかにお帰りください」
と言った。
通された会議室の机には雑多にファイルが置かれていた。
「あれが当時の記録です。ご自由にどうぞ」
徳田が投げやりに言うと、それでも瀬立は笑みで答えた。琥太郎は毒づきながらファイルに手を伸ばす。
ペラペラとページをめくっていく。そして景倉が在籍していた年代に辿り着き、名簿を上からさらった。
「あれ」
琥太郎はもう一度名簿を確認する。年代も再確認し、ページを二、三回移動したりもした。
景倉彩香の名前が見つからないのだ。
「...なんで?」
呟いた琥太郎に反応したのは、意外にも徳田だった。
「卒業名簿にはありませんでしたか。なら、入学の方を見てみてください」
瀬立は傍に置かれていた色の違うファイルを捲った。十年前にたどり着くと、上から名簿をなぞっていく。
そしてページの中腹にその名前はあった。
「ということは、景倉さんは中退した、ということですね?」
ふう、と小さく息をついて徳田が言う。
「そういうことなんでしょうね。私は当時ここにいたわけではないですし、中退する生徒は珍しくないので、その一人一人を覚えてはいられませんから」
瀬立は徳田に聞いた。
「当時を知る人は?」
徳田はとても嫌そうな顔で答えた。
「聞いてみないとわかりませんね。この学校に長く勤めている人はいますが、その生徒のことを覚えている人となると...今はなんとも」
「では調べていただけますか?今すぐ、とは申しませんので。名刺の方に連絡をくだされば」
笑みを浮かべながら言った瀬立に徳田は当然顔を顰めた。その顔はまさしく、『どうして私が』という表情である。しかし相手は瀬立だ。それで引き下がるような人間ではない。
「難しいようでしたら僕が今から校内を聞いて回りますが」
「いいえ。大丈夫です。私が聞いておきます。ですのでさっさとお引き取りください」
言うと徳田は部屋の扉を開けて琥太郎たちに帰るように促した。琥太郎達は意味ありげに笑いながら、
「ありがとうございます」
と言ってその扉から外へ出た。少しだけスカッとした。
そそくさと学校を離れ、向かった先は今夜の宿である。向かうには早いとも思ったのだが、瀬立にお悩み相談の依頼が夕方に入っているらしく、景倉探しを一旦中断し宿へ向かうことにしたのだ。
琥太郎は車の中で爆睡し、瀬立に起こされ目が覚めると宿に着いていた。
そして口をあんぐりと開けて建物の前に立ち尽くしたのである。
「瀬立...これは一体?」
「ん?ああ、今日泊まるホテル」
ドン、という効果音と共に地球にやってきたであろうような重厚感のある建物、客室の数が一見では全くわからないほどの窓の数、明らかに高級そうな艶のある外観。
これが、今日泊まるホテル。その言葉を飲み込むのにはだいぶ時間がかかった。
「そんな馬鹿な」
琥太郎が頭の中で想像していたのは、もっと民宿のように慎ましいものでこんなに大層なものではない。いや、民宿を悪く言っているわけではないのだが、むしろ琥太郎にとっては民宿でさえ高級宿なのだが、このような高級と一目でわかる宿とは思わないではないか。
琥太郎は戸惑いと嫉妬で瀬立に噛み付いた。
「なんでわざわざこんな高い所に泊まるんだよ!寝るだけだぞ!?なんでこんな立派な所じゃなきゃいけないんだよ!くそ!これだから金持ちは!」
「おーすごい勢い」
精一杯の抵抗を見せる琥太郎に当の瀬立は余裕の笑みで肩を揺さぶられていた。その無駄に作りのいい顔ぶん殴りたい。
公家顔に八つ当たりしたくなって琥太郎の手が緩むと、瀬立はその一瞬を見逃さず琥太郎の手を肩からずり落とす。そしてジャケットを整えながら余裕綽綽と言った。
「割引あるんだよ。ファミリー割が」
琥太郎は瀬立の顔を睨みながら言った。
「ファミリー?何言ってんだよ」
まさか瀬立と琥太郎でファミリー割を使おうとでも思っているのか。そんなことができるほど世の中は甘くない。兄弟です、なんて言おうものなら身分証明書の提示が必須だ。
すると瀬立は小さく吹き出した。
「違う違う、ファミリーは俺と琥太郎じゃないよ。ホテルと俺、かな?」
「は?」
意味が理解できない琥太郎に瀬立は笑った。
「とりあえず入ろう。そのうちわかるよ」
琥太郎はなおさら首を傾げた。
ドキドキしながらホテルの入り口を抜け、受付へ向かう。迷いなく歩く瀬立の後ろをボストンバッグを抱えきょろきょろと周りを窺いながら琥太郎は歩いた。見渡す限りきらきらと艶めいていて落ち着かない。
受付まで辿り着くと、三十代くらいの男性が琥太郎達に気づいた。
「こちらへ...おお!」
受付の男性は琥太郎達を見るや否や声を上げた。しかし、よく見ると彼が見ていたのは瀬立の方だった。
「こんにちは。予約していた瀬立です」
瀬立が答えると、すると男性はやや声の調子をあげた。
「ですよね!やっぱりそうでしたか。瀬立瑞樹様ですね、承っております」
するとどこからともなくホテルの制服に身を包んだ人物が現れ、あっという間に琥太郎達から荷物を取り上げた。
「お部屋へ運んでおきます」
従業員の去り際に言われたのはそんな言葉だった。
何が起きているのだ。
琥太郎が頭の上にはてなを何個も浮かべていると、受付をしていた瀬立が振り向いて笑う。
「何事、って顔だね」
琥太郎は言い当てられた恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じる。しかし、実際何事かわからないのだ。観念したように肩をすぼめながら聞いた。
「...何事なんだよ」
瀬立はふふ、と微笑んだ。そしてホテル内を見渡した。
「ここのホテルの名前、知ってる?『
ふむふむと頷きながら聞いていた琥太郎は最後の件で首を傾げた。
俺のお父さん、とはつまり。
「さっきファミリー割の話したでしょ?あれ、俺が社長の身内だからって意味なの。お分かり?」
瀬立瑞樹は代々続く社長一家の息子。
華麗なる一族。
琥太郎はその場に倒れそうになるのを必死に堪えて、天井を見上げた。見ると、豪勢なシャンデリアがきらきらと輝き、その眩しさで琥太郎は瞼を閉じた。
そうか、ファミリー割とはそういう意味か。社長の息子なら納得だ。身分を偽って兄弟でファミリー割、なんてそんなことするわけもない。よく考えればわかるはずなのに、どうしてわからなかったのだろう。そうかそうか、社長の息子か。
次の瞬間湧いてきたのは、行き場のない怒りと嫉妬であった。しかし、それも着火できるほどの火力はもう存在しない。どうしようもなく納得してしまった。瀬立瑞樹は代々続くホテルの社長の息子。雇われた時に言われていた金には困ってない発言も納得ができる。むしろ何でも屋よりもよほどぴったりな肩書きだ。
「なるほどな...何もかも納得したわ」
「それなら良かった。さ、部屋に行こう」
神様、世の中はやっぱり不公平です。
案内された部屋は意外にも普通の部屋だった。普通、とはいえもちろん琥太郎が経験したこともない大きなベッドがある部屋だったのだが、それでも多分ホテルの中でも普通の部屋なのだろう。てっきり、社長の息子だからと一番いい部屋に案内されると思っていた琥太郎としてはかなり驚きだ。
「それはないよ。いくら身内だからって、一番いい部屋に簡単に泊まれるわけじゃないし、そもそもスイートは埋まってるしね。お客様最優先なのは、少しはここで働いてた俺も重々承知してる」
琥太郎はベッドに腰を下ろして聞いた。
「そういえば親父の会社手伝ってたって言ってたな」
瀬立はパソコンをテーブルの上に置いたまま頷く。
「そう。俺もみっちりしごかれたよ。まあ、接客は嫌いじゃなかったし、結果的に当時の経験が今の仕事に結びついてるしで、楽しかったけどね」
「役に立ってんの?例えば?」
「まず、言葉遣いだね。高校の途中から海外に行ったから、敬語なんて概念ほとんど忘れてたし。それを一から叩き直してくれたのはとてもいい経験だったね」
へーと頷きながら、琥太郎は以前から気になっていたことを聞いた。
「ていうか、前にも言ってたけど高校からなんだな。海外生活。なんとなくもっと長い間行ってるもんかと思ってた」
琥太郎が言うと、瀬立はノートパソコンの電源を入れる手をピタリと止めた。琥太郎が不思議に思ってその顔を見ると、やけに冷たい目をしている。画面を見ているはずなのに、その目は随分と暗いものを映していた。
しかし口元には笑みを浮かべて、答えた。
「うん、そう。高校二年の時にね。向こうでも事業をやるって言うから、それについて行って」
「...そう、なのか」
興味本位で聞いた話題だったが、なんとなくこれ以上触れてはいけないような気がして、続く言葉が出てこなかった。不自然な沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、瀬立の携帯だった。
ブー、ブー、とテーブルの上でバイブレーションをしながら携帯が鳴った。突然の音に驚きはしたが、沈黙を取っ払ってくれた携帯に琥太郎は静かに感謝した。
「もしもし」
瀬立が出ると、小さく電話越しの声が聞こえた。なんとなく気になって琥太郎が耳を澄ますと、瀬立はスピーカーに切り替える。
『あ、もしもし!すみません突然!』
声の主は緒方だった。
「いえ、僕たちは大丈夫ですよ。何かご用ですか?というか、緒方さんの方が大丈夫なんですか?」
『はい、いや、あんまり大丈夫じゃないですけど、すぐに戻らないとですけど...でも、直接話した方がいいかなと思って』
琥太郎はなんのことかわからずに首をかしげる。琥太郎が知らぬ間に瀬立は何か連絡していたのだろうか。
『景倉と仲良かった円堂って人がいるんですけど、その人、今長野にいるみたいです。詳しい場所は後でメールで送りますね。あ、すみません!仕事に戻らないと』
電話越しに緒方が慌てている。どうやら本当に仕事の合間にかけてきたようだ。そして瀬立は緒方に景倉の友人についての連絡をしていたらしい。
「わかりました。連絡ありがとうございます」
瀬立が言って、電話を切ろうとした時、緒方があっと声をあげた。
「どうかしましたか」
『あの、これだけは言っておきたくて...その、俺、同窓会の幹事として景倉を探してますけど、それだけじゃなくて。何よりも、俺が会いたいんです。景倉に。だから...よろしくお願いします、瀬立さん。必ず景倉を見つけてください』
電話越しの緒方の声は、今まで聞いたどの声よりも真剣で、固い意志を感じさせた。
瀬立は涼やかな声で答えた。
「ええ、もちろんです」
電話が切れた。しばらくして瀬立がテレビ通話で悩み相談を始めたのを見て、琥太郎はすることもないので散歩に出かけた。慣れない土地を歩くのは不安だっったが、幸いホテルが大きい建物なので、それが見えなくならないように歩けばなんとか大丈夫だった。
山々を見ているのは気分が落ち着く。しかし、不意に如何しようも無い胸騒ぎが琥太郎を襲ってしょうがなかった。
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