第20話
琥太郎は数日分の着替えを入れたボストンバッグと共に車に乗り込んだ。
時は遡り昨日の夜のことである。皿を洗っていた瀬立が突然言った。
「琥太郎、荷物用意しておいてね。明日の朝には出るから」
「...は?」
ソファでくつろいでいた琥太郎はしばしその言葉の意味を理解できなかった。皿を洗う瀬立の背中に向けて言葉の意味を問う。
「出るって...どこに」
「だから、景倉さんを探しに行くために長野の方まで」
なるほど。長野か。
琥太郎はせっかく気持ちよくだらけていた体を起こし、ガバッとソファから飛び上がる。
「長野!?明日!?」
突然喚いた琥太郎の声に瀬立はわずかに肩を上げた。
「うわ、びっくりした...そうだよ、長野。だからちゃんと準備しといてね」
水を止めた瀬立が琥太郎の方を振り返る。その顔はいたって真面目に、かつ当たり前のことを言ったまでという顔をしている。なんだかこちらの反応が間違っているような錯覚さえ覚える。
「き、急すぎる」
錯覚に負けずに反抗する。昨日の今日どころかさっき受けた話だ。しかも明日の朝となればもう数時間しかない。長距離移動に慣れていない琥太郎にとってはあまりにも時間がなさすぎる。こういうことはもっと事前に言って欲しいのだ。荷物の準備はすぐできるかもしれないが、心の準備はなかなか完了しないことを知らないのか。
焦る琥太郎を気にする事もなく瀬立は皿洗いで濡れた手をタオルで拭きながら言った。
「急ぎの依頼もないし、俺のところに入ってる相談ならテレビ通話でもできるしね。数日は向こうで過ごす予定だから、着替えとか諸々の準備しといてね。明日の朝、まあ琥太郎に限ってそれはないと思うけど、寝坊しないようにね?」
おやすみ、とだけ言い残し、瀬立は二階の自分の部屋へ消えてしまった。ぽかんと口を開けた琥太郎だけが一階に取り残された。
その後、琥太郎はボストンバッグに数日分の着替えと歯ブラシだけ入れてそわそわしながら眠った。あまりにも急すぎる展開に、琥太郎は初めての都外への旅行だとも思う暇さえなかった。
夜が明け日が昇り、朝食を済ましたあと出かける態勢入った。琥太郎お手製の店の看板である黒板には単純に『出張中』とだけ書いて玄関の前に置いておく。
傍にボストンバッグを抱え、琥太郎は後部座席に乗り込んだ。
「助手席にして欲しいな」
「え」
運転席でハンドルを握る瀬立がミラー越しに言った。
「別にいいだろ。こっちの方が横になれるし」
それに瀬立の横に居続けるのは少々気がひける。誰かの隣に居続けるというのはちょっと、というかかなり嫌だ。慣れない、経験がない。落ち着かない。
しかし瀬立は苦い顔をした。
「んー、琥太郎の意思を尊重したい気持ちはあるんだけど...ちょっと不安というか」
「不安?」
「警察によくない風に思われそうで」
そこまで聞くと、琥太郎は瀬立が何を案じているのかを理解した。なるほど、はたから見れば琥太郎と瀬立はよく見られれば年の離れた兄弟、悪く見られれば大人に拐かされる少年である。一目で上司と部下と見破る人は少ない、というかほとんどいないだろう。兄弟というのも顔と雰囲気が似ていないことからも少々無理がある。こんな状態で琥太郎が後部座席に乗っていれば、間違いなく怪しまれるはずだ。
琥太郎はそそくさと後部座席から出て助手席に乗り換えた。そもそも車自体乗る経験が少ないのに、助手席はもっと慣れない。だがしょうがない、瀬立の体面を守るためだ。
「すぐ慣れるよ」
瀬立がそう言うと、車が発進した。
「人探しなんて、探偵みたいだな」
琥太郎は流れる景色を見ながら言った。ドライブの音を聞きたいと言う瀬立が音楽をかけたがらないので、車内が不自然なほどに静かだった。しかしそれは少々居心地が悪く、なんでもいいから沈黙以外の音が欲しかったのである。
「確かに。人を探してる、なんて、人生で一度は言ってみたいセリフだね」
瀬立がハンドルを切りながら言った。随分と軽快な物言いである。
「探してる、か」
窓の外を見ながら物憂げに呟いた琥太郎に瀬立はいたって普通の声で問うた。
「琥太郎は誰かそういう人、いたりする?会いたい人とかさ」
ふと頭に浮かんだのは決別したはずの母親と父親の姿だった。父はともかく、母は今何をしているのだろう。あの冷たい家で、変わりなく過ごしているのだろうか。いや、厳密にいえば変わりはあったのだ。琥太郎がいなくなって、人一人分少なくなった家で、毎日それまでの暮らしを続けているのか。あるいは、子供から解放された喜びで咽び泣いている頃だろうか。
そこまで考えて、琥太郎は口元に笑みを浮かべた。微笑なんて綺麗なものではない、嘲笑だ。
「あんな思いしてんのに、結局思い出すのは母親かよ。ほんっと、嫌になるぜ」
放って置かれて、傷つけられて。皿が割れる音がずっと頭の奥にこびりついているのに、それでもふとした拍子に思い出すのは親の顔。心配しているわけではないのに、むしろそれなりに不幸でいればいいとすら思うのに、忘れることはできない。根深く琥太郎の中に居座り続けるのだ。
もし、忘れることができたのなら。
「忘れられたら便利なのにな」
自分の思った通りに記憶を消して、辛く悲しい記憶とは永遠に別れることができればどれほど楽だろう。楽しい記憶だけを溜め込むことができるのなら、どれほど幸せだろうか。
ぽつりと呟いた声を瀬立は聞き逃さなかった。
そしてぴしゃりと、それを否定した。
「違うよ、琥太郎。辛い記憶も悲しい記憶もあるから自分なんだよ。楽しい記憶だけになったら、悲しい出来事の分自分が欠けることになる。辛いことを忘れたら、大切だったもののことを忘れてしまう。辛い、悲しいってことだって、俺たちが生きてる証拠なんだから、その人生を消そうなんて考えちゃダメだよ」
そう言った瀬立の横顔はひどく真剣で、どことなく怒っているようにすら思えた。しかしすぐに笑みをその整った唇に浮かべる。
「それに、どれほど楽しいことだったとしても忘れるときは忘れるんだよ、人間は。だから辛いな、悲しいなって思っても、時の流れに身を任せて日々全力で生きてれば自然と忘れるものだよ」
日々全力で生きていれば、自然と。
言った瀬立はいつも通りの穏やかな笑顔だった。一瞬見えた冷たいとすら思えた表情がその顔から消えたことに琥太郎は内心安堵する。おそらく、気のせいだったのだろう。
「そんなもん?」
「そんなもんです。琥太郎も少し大きくなればわかるよ」
「子供扱いすんな」
「俺から見たら十分子供だもん」
会話にいつもの調子が戻ってきた。運転席と助手席の距離感にようやく慣れてきたのだろう。
琥太郎は話の流れで聞いた。
「瀬立はなんかいないの。会いたい人とか」
ぴくりと瀬立が固まった気がした。しかし、ハンドルをぐっと握り直したのはその直後だった。見間違いだったのだろう。
瀬立の顔は随分と遠くを見つめていた。
「そうだね...長らく会ってない友達、とかかな」
そう言った声は、いつものような涼やかな声ではなく酷く重いものに聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます