第18話

 出来上がった鶴を箱に詰め、借りた台車に乗せて久保田の元へ運んだのはちょうど夕暮れどきだった。夕日の赤と昼間の青空が混ざり合って空が紫に染まっているのを見ながら、琥太郎たちは商店街へ向かった。手伝ってくれた子供達も何人か引き連れて行ったので、ちょっとした集団になっていた。

 完成させた報告を聞いた久保田は驚きもしないで出来上がった鶴たちを見た。というのも、彼がいた作業場にも折り上げられた鶴たちがダンボールの中に仕舞われていたので、こちらも人々の助けによって作業は終了していたのだ。途方も無い作業だと思われたが、なんとか終わったようである。

「いやーありがとう。ほんと助かったよ」

「それは良かったです。といっても、僕たちだけじゃ間に合わなかったと思いますけど」

 それはそうだ。子供たちをはじめとする街の住人の手が無ければ今もまだ終わっていない。それどころか、多分徹夜コースだった。

「会報の方は任せてくれて大丈夫だよ。作業中に何枚か写真撮っておいたから」

 見れば久保田は首から一眼カメラを下げている。

 すると瀬立が涼やかな声を転がして言った。

「ああ、それなんですけど。僕たちからも何枚か提出していいですか?」

「もちろん。瑞樹くんのところの写真も欲しいと思ってたところだし」

 すると瀬立が携帯を取り出す。それを見て久保田も自身の携帯を取り出し、送るように指示した。何やら画面を操作していたのだが、携帯初心者の琥太郎にはなにをしているのかはわからない。シニアの久保田の方がよっぽどスマートフォンを使いこなしている。

「これで大丈夫ですか?」

「うん。ありがとうね」

 あっという間に送信を終えたらしい。琥太郎には操作の一部始終を見たにも関わらず、何を行なっているのかわかりもしなかった。

「じゃあ、僕たちはこれで。週末、楽しみにしてますね」

 瀬立が挨拶し、琥太郎は小さく頭を下げた。久保田は笑みをその顔いっぱいに広げて言った。

「本当にありがとう。君たちがいたおかげでなんとか形になりそうだよ。お祭り、楽しみにしててね」

 久保田と別れ外に出ると、世界はすっかり日が暮れていた。頬に感じる湿った風が妙に静かで、怒涛の数日間の終わりを告げる。

 

 週末。

「さて、そろそろ行こうか」

「ああ」

 琥太郎は瀬立と共に家を出た。目指すはまっすぐ商店街である。

 あのあと、折った鶴たちがどうなったのかはわからない。久保田に預け、商店街に行く用もなかったのであそこで何が起こったのかを琥太郎たちは知らないのだ。

「どんなふうになってるかな。楽しみだね」

 商店街を数メートル先に見据えたとき、瀬立が言った。

「ちんけなものだったら許さない」

 あれほど精神をすり減らしたのだ。それなりのものになっていなければ商店街の中心で暴れまわるかもしれない。

「こらこら。そういうこと言わない。それに、心配いらないと思うよ?」

「なんで」

「だって、あんなにたくさんの人が折ってくれたんだよ?素敵なものができるはずだって」

「なんだそれ」

 瀬立は言うと、早足で商店街へ向かった。足が長い分、一歩がでかい。琥太郎はあっという間に引き離される。

「あ、おい!」

「ほらほら、早くおいで!」

 琥太郎は背中を追いかけた。アスファルトと道端の草木が混じって、どうしようもなく夏の匂いがする。

 瀬立に追いつくと、彼は涼やかな顔を少しだけ驚きの色に染めて商店街の先を見ていた。琥太郎もその目線の先を追う。

 鮮烈。その言葉が頭に浮かんだ。

 なんでもない商店街の風景にたくさんの色とりどりの鶴が各店に吊るされている。連なって一つの束になった鶴たちが人々を見守るように、客の動きで小さく揺れては世界を鮮やかに染めた。また、開いた鶴を連ねた飾りが湿った風の中でゆらゆらと羽ばたいては、空の青の中に溶けていく。その光景が商店街の先までずっと続いている。

 綺麗。ただ純粋に、琥太郎は思った。

「ほら、悪くなかったでしょ?」

 瀬立に言われ、琥太郎の意識が現実に帰る。

「う、うるせえ!」

 言い当てられた恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じる。

 熱を冷ますように商店街の中に踏み込む。間近で見てもその景色は圧巻だった。この景色の鶴の束は、人の手で一羽ずつ折られているのだ。自分も参加したはずなのに、その事実を忘れるほどに壮観である。

 すると遠くから声が聞こえた。声のした方を見ると、久保田が数メートル先で手を振りながらこちらへ近づいてくる。

「こんにちは久保田さん。すごいですね、これ」

 瀬立が言うと、久保田は胸を張って言った。

「我ながらそう思うよ。いやー、本当によくできてる」

 清々しいほどの自画自賛である。だが実際、そうしたくなるほどにこの景色は素敵なものだった。

 陶酔する久保田に、瀬立が聞いた。

「本素敵ですけど、どうしてあんなことになったんですか?ギリギリまで準備するなんて、久保田さんならしないと思いますけど」

 久保田はああ、と言って答えた。

「ああ、実はある程度完成していた鶴もあったんだけどね。家に出来上がった鶴を置いてたら、孫が転んだ拍子にその上にジュースこぼしちゃって。転んだもんだから、中に貯めておいた鶴もダンボールごと潰れちゃってさ。作り直してたってわけ」

 それはなんとも悲劇である。濡れたり潰れたりしてしまえばこの景色を作り出すことはできない。みすぼらしい鶴があっては台無しだ。

 しかし久保田は手を顔の前で左右に振った。

「まあいいんだよ。孫に怪我がなかったんだから。鶴が無事でも、孫が怪我でもしてたら、そっちの方が悲しいよ」

 すると久保田は商店街を振り返る。

 その目線の先には、鮮やかな商店街とそこに集う人々の姿があった。

「折り鶴は長寿とか幸福とか、そういうものを祈る意味があるんだ。自分の周りの人が、ここに住む人たちが幸せでありますようにって、そういう意味を込めて、今回の折り鶴商店街を企画したんだよ。ほら、生きてればいろんな事があるだろう?楽しい事だけではやっていけない、生きていれば辛いことも苦しいこともたくさんあって、当たり前が当たり前じゃなくなる時だってある。だからこそ祈るんだよ。幸せをね」

 辛いことも苦しいこともある。けれど、それがあるからこそ余計に。

 人は、幸せを祈る。

「私は町内会長だからね。自分の家族とか友人以外に、街の人たちのことも祈る。でも、それが一番の幸福な気がするんだよ」

「一番の、幸福?」

 琥太郎が聞き返すと、久保田はゆっくり頷いた。

「人の幸せを願うことって、とても幸せだと思わないかい?」

 そう言い残すと、久保田は商店街の雑踏の中に消えた。町内会長だ、色々やることは多いらしい。

 取り残された琥太郎の肩を叩いたのは、瀬立だった。

「ほら、行こう。お祭りなんだから」

 それぞれの店を見渡しながら琥太郎と瀬立は歩いた。途中、祭り限定の品などを購入しながら他愛もない話を知って、商店街の反対側へ向かう。

 商店街の終わりに差し掛かったとき、琥太郎はきた道を振り返った。景色の中の鶴が鮮やかに空を泳いでいる。その景色に、琥太郎は先ほどの久保田の話を思い出す。

「さっきの久保田さんの話、素敵だよね」

 例のごとく琥太郎の表情を読んだ瀬立が言った。瀬立は薄い唇に笑みを浮かべながら、商店街の方を見ていた。

「幸せを願う祈りの鶴が、転んだ孫を怪我させなかった。久保田さんの願いは、叶ったんだよね」

 確かに、そういうこともできるだろう。単純に孫の粗相でせっかく作った鶴が台無しになったと琥太郎は考えたが、当人からすればむしろその想いの方が強いのだろう。

「鶴を折ることは、祈り...」

 琥太郎が呟くと、瀬立は目線を一瞬琥太郎に向けたあと、もう一度商店街を見据えて言った。

「鶴を折ることだけが祈りではないんじゃないかな。普段の生活の中でも誰かの幸せを思ったり、無事を願ったりするだけで、もうそれは祈りなんだと思う。きっと、俺たちの毎日はそういう祈りの日々なんだと思うよ」

 そう言った瀬立の顔はとても優しげだった。

 賑やかな祭りの声がする中、琥太郎は考えた。

 自分はこの人生の中で、誰かの幸せを祈ったことがあるだろうか。あれほど多くの鶴を折ったところで、それはただの作業に過ぎなくて、誰かを想っていたわけではない。

 祈りの経験がない自分は、いまだに幸福を知らないのだろうか。

「俺は、幸せを祈るような誰かがいない」

 大切な家族も、仲のいい友達もいない。幸福を願うような相手がいないのだ。それは逆説的に、最大の不幸なのではないか。

 瀬立は琥太郎の呟きに、微笑を浮かべて言った。

「じゃあ、俺の幸せでも祈ってくれればいいよ」

 するとぽん、と頭に手を置き商店街を出た。大きな手だと、そう想った。

 今までの人生で誰かの幸せを祈ったことは、多分ない。その人が幸せになることが自分にとって何になるのだと思っていたからだ。

 けれど、もしかしたら彼はようやくその幸せを祈れるような相手なのかもしれない。

 琥太郎が見つめる瀬立の背中はもう遠い。彼はいつだって何歩も先にいるのだ。

「おい、待てって!」

 琥太郎は駆け出した。しかし商店街を出る前に、もう一度琥太郎は通りを振り返る。鮮やかな景色の中、大人も子供もはしゃぐ声の中、ざあっという音を立てて鶴が揺れた。

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