第17話
作業に没頭すること約五時間。気力体力はすでに限界に達している。
「じゃあ俺たち帰るわ」
言うと小学生たちは帰りの準備をした。徐々に日が暮れ始めている、小学生は帰る時間だ。
「ありがとね。手伝ってくれて」
瀬立が言った。
「ふっふっふ。またいつでも頼ってくれていいぜ?」
蔵之介が得意げに返した。反論したい気持ちはあるのに、事実手伝ってもらったことに変わりはないし、作業も大幅に進んだ。琥太郎は何もいえない。
「じゃあ、明日も頼める?」
瀬立が言うと、蔵之介は得意げな顔を一瞬で取り消し、けろっとした顔でそれを断った。
「いつでも頼れって言ったじゃんかよ」
「それはそうだけど、明日はダメだ。弟と映画観に行くからさ。だから明日は無理」
蔵之介が言うと、善と航介も続いた。
「明日塾ある」
「俺はプール行く」
それぞれが各々の夏休みの予定を消化する。つまり、明日は彼らの手を借りることはできないということだった。
琥太郎は焦った。これではせっかく進んだ作業もまた停滞してしまう。
すると蔵之介が何かを考えるようにわざとらしく腕を組み顎に手を添えた。そして何かを閃いたように顔を明るくさせ、琥太郎にドヤ顔を向けた。
「兄ちゃん、俺たちに任せなよ」
「は?」
琥太郎の話も聞かず、蔵之介は他の二人に何かを耳打ちした。それを聞いた二人は頷き、
「よし、じゃあそういうことで」
とだけ琥太郎たちに言い残し、颯爽と帰宅した。
蔵之介たちがいなくなり静かになった部屋の中、琥太郎は首を傾げた。
「なんなんだ、あいつら」
琥太郎は横にいた瀬立を見ると、その顔には薄く笑みが湛えられていた。
「さあね。でも、悪いようにはならないんじゃないかな」
その顔といい言いようといい、まるで蔵之介が何を企んでいるのかを分かっているようである。自分だけが置いていかれているような気分だ。琥太郎は露骨に不快な顔をした。
「そういう顔しない」
「...うるせえ」
無意識なのだ。
瀬立は時間をかけて折り終えた一羽を机の上に置くと、大きく伸びをした。
「俺たちも帰ろうか。あとは家でやろう」
その顔にはわずかに疲労の色が見えていた。そのとき琥太郎は、
『こいつでも疲れることあるんだ』
と心の中で呟いた。
すると瀬立が小さく笑ったので、これもまた顔に出ていたのかもしれない。
風呂を終え慣れない動きで自分の部屋に辿り着くと、布団が一式四角く置かれていた。どうやら琥太郎が風呂に入っている間に瀬立が置いていってくれたらしい。
なんとなくそれをつついてみる。別に怪しいものであるはずはないのだが、なんとなく見慣れぬものには慎重にいきたくなるのだ。新しいシーツの感触と沈むような感覚を指先に覚えた。琥太郎が持っていた潰れた綿でできた薄い布団とはえらい違いである。
安全と分かり、すぐさまそれを広げ思いっきりダイブした。柔らかくて軽い布団に身を預けると、そのまま沈み込んでいくようでとてつもなく気持ちがいい。
幸せ。
随分久しぶりにこの感覚を覚えた。
前回幸せを感じたのは確か、そうだ、家を出た日。あれはとても幸せだった。長い苦痛の日々が終わって、一人になれた事が嬉しくて。
まどろみの中でそんなことを考えていると、扉をノックする音がした。
「琥太郎?ちょっといいかな」
瀬立の声が聞こえて琥太郎は目を覚ます。
「あ、ああ」
琥太郎が体を起こしながら答えると、扉が開いた。その姿は見慣れたきっちりとしたワイシャツ姿ではなく、オーバーサイズのTシャツをゆったりと着こなしていて、いかにもお家ルックである。なんというか、顔の出来が上品すぎて逆にラフな服装が似合わないと琥太郎は思った。
「ごめん、もしかして寝てた?」
琥太郎の座る布団を見て瀬立が聞いた。琥太郎は首を横に振る。
「ぎりぎり大丈夫だ。なんか用?」
「用、というほどでもないんだけどね。おやすみを言おうと思って」
「...は?」
琥太郎は苦虫を噛み潰したどころかその苦虫がまだ歯の間に詰まったような顔をした。
「そんな顔しないでよ。これでもちゃんと傷つくんだから」
「...嘘つけ」
「何か言った?」
「いえ、何も」
そんな人間には見えることはあっても思いはしてないので。
琥太郎の反応に不服そうな瀬立だったが、小さくため息をつくと、それでも笑みを口元に浮かべた。
「おやすみ、琥太郎」
それだけ言うと瀬立は扉を閉めて部屋を出た。
琥太郎はしばらく呆然としていたが、いそいそと立ち上がり、静かになった部屋の電気を消した。そのまま布団の間に滑り込み、入眠の姿勢をとる。
おやすみ。
初めて言われた言葉だった。いや、もしかしたらそれは正しくないのかもしれない。正しくは記憶にある中で初めて言われた言葉なのだろう。二歳ごろまでは普通の家庭だったのだ、言われていたのかもしれないが、生憎その頃の記憶を琥太郎は覚えていない。
そうか、おやすみか。
黒と白が混ざり合うような感覚を覚える。それが妙に落ち着かなくて、琥太郎はしばらく窓の外の蒼くて黒い夜空を見つめていた。
翌日、目を覚ました瀬立がダイニングテーブルに着くと、朝食が用意されていた。
「おう。起きたか」
「あ、ああ...おはよう琥太郎。これは?」
「腹減ったから作った。ダメだったか?」
「いや、それは構わないけど...」
目の前にはトーストとスクランブルエッグ、ソーセージが三本、皿の上で見事な状態で用意されていた。完璧な朝食である。味については言うまでもない。
「すごいね琥太郎。俺がやったら卵が黄色いままにはならないよ」
「...それは、どういうことだ...?」
琥太郎が瀬立が作るスクランブルエッグを想像している隙に、瀬立はさっさと手を合わせて食事を始めていた。
「あれ、というか琥太郎のは?」
トーストに一口かじりついたあと、瀬立が言った。琥太郎はキッチンで皿を洗いながら背中で答える。
「先に食ったよ。瀬立がなかなか起きてこないから」
「そうだったの。ごめんね。でも、琥太郎何時に起きたの?」
現在の時刻は七時を少しすぎた頃だ。
「六時」
「それは随分早かったねえ。何か用事でもあった?」
「別に。ただ目が覚めちまって。習慣だな」
長い新聞配達生活と片道二時間の通勤生活による影響がここで出てきた。どうもぐうたら起きるというのができなくなってしまっている。
「悪いことじゃないからいいじゃない。早寝早起きは大事だよ?」
瀬立がそう言った。琥太郎は適当に頷いて水を止める。皿は洗い終えた。
手の空いた琥太郎はそのまま日課となりつつある鶴をソファで折り始める。作業開始当初は一般レベルだった鶴の折るスピードは今となってはほぼ達人レベルにまでなっている。その上精度も欠かすことはない。
「琥太郎」
背後から呼ばれ、振り向く。すると瀬立が上品に朝食をいただきながら言った。
「朝食、ありがとね」
にっこり笑った瀬立に琥太郎は背を向けた。
感謝の言葉が溢れる生活は、どうにも調子が狂う。
朝の支度を済ませ昨日と変わらず鶴を折り始め二時間ほどしたとき、インターホンが鳴った。
瀬立が玄関に向かうのを確認し、琥太郎は作業を続ける。明日までに仕上げなければならない。でなければ週末に間に合わない。しかし、蔵之介たちの助けもなしにこの量を仕上げるのは間に合うか間に合わないかギリギリだ。
「琥太郎!」
瀬立が玄関から呼ぶ声がした。何事かと思い、琥太郎は作業を中断し玄関に向かう。
目を疑った。
瀬立が開いたドアの向こうに、小学生たちが十人ほどいた。そして二、三人大人の姿も見える。
「こんにちわ!」
先頭にいた髪の短い女子が言った。琥太郎はほぼ反射で答える。
「ど、どうも...」
すると彼女は勢いをなくさないまま言った。
「蔵之介から聞いて。楽しそうなのできました」
「ありがとう、助かるよ。どうぞ、中へ」
「ありがとうございます!」
わらわらと小学生たちが事務所の中へ流れ込んでくる。親御さんだろう大人たちは小さく会釈をして奥へ向かった。何事かわからず、琥太郎は瀬立に詰め寄った。
「蔵之介くんたちがみんなに知らせてくれたみたい。それで、これだけの人たちが集まってくれたんだって。すごいね!」
瀬立は笑顔で言った後、琥太郎の肩を持ちくるりと向きを変える。
「ほらほら、俺たちもやらないと。小学生たちに任せるわけにはいかないでしょ?」
そしてそのまま琥太郎の背中を押してリビングまで連れていく。するとすでに小学生たちはガラステーブルの上に置いていた折り紙を鶴の形に折り始めていた。
「親御さんも、ありがとうございます」
瀬立が子供達に紛れて鶴を折る大人たちへ言った。
「いえ。むしろ夏休みの良い思い出になりますよ」
「ほんとほんと。それに私、鶴折るの久しぶりで。何だか楽しいです」
そう言って彼らは作業を続けた。
琥太郎が必死な顔をしてひたすら折り続けた鶴を、蔵之介たち小学生を含め、彼らは実に楽しそうに折っているのである。子供は無邪気だから。そう思っていたが、大人たちもこうして同じ顔をして折っているのは意外だ。
「できた!」
一人の男子が出来上がった鶴を掲げた。
その鶴は端がヨレていて、尾は少し曲がっている。鶴の顔は少し潰れていて、お世辞にも瀬立が折るような美しい鶴とは言えない。
しかし、綺麗だと思えた。
無性に、どうしようもなく。
琥太郎たちも作業に加わり、完成へ向けてひたすら折り続ける。時間が経つと途中で離脱する人や逆に新しく参加してくる者もいた。中には大人や若者たちも参加してきてくれたのだ。
子供達は無邪気で、他愛もない会話を琥太郎に投げかけた。琥太郎は子供たちの付き合い、瀬立は大人たち、主に女性に大人気だった。
「あなたが琥太郎兄ちゃんさんね」
先陣を切っていた髪の短い女子、
「何だその呼び方。兄ちゃんにさん付けするな、どっちか一つでいい」
「じゃあ琥太郎さんね。蔵之介から聞いたの。琥太郎兄ちゃんっていう俺の友達が困ってるから、助けてやって欲しいって」
「...は」
琥太郎は口を開けて驚きの表情をした。
友達。
「どうかしたの?」
紗江に言われ、琥太郎は意識を戻す。何でもない、と言って受け流した。
友達という響きは、とても久しぶりだった。中学校にいた時はそれに似た関係もあったのだろうが、今となっては紛れもなく他人になっている。連絡先も知らないし、進学先も知らない。きっと彼らは、『学校の友達』ではあったけれど、『人生の友達』ではなかったのだろう。
蔵之介が言った『友達』に意味なんかない。むしろあいつにはナメられているし、子分くらいにしか思われていないようにも感じる。幼いからこその友達である。本当の友達の意味を知らないから、会って間もない琥太郎のことを友達という事ができるのだ。
理屈はそうだ。蔵之介は幼い。
けれど、ほんの少しだけだ。それを嬉しく思ったりしたのは、気のせいだったのだろう。
するとインターホンが鳴った。瀬立が出迎えたその姿に琥太郎は見覚えがあった。
ボブの髪が印象的な女性で、傍らには息子を連れている。東原だ。
「こんにちは。ちょっとぶりですね」
琥太郎は作業の手を止めて東原の元へ向かった。
「どうも。でも、どうしてここに?」
琥太郎が聞くと、直斗が答えた。
「お外で聞いたの!」
直斗の返答に琥太郎が首を傾げていると、東原が微笑んで付け足した。
「商店街の方を歩いていたら、久保田さんに会って。そしたら、今みんなで鶴を折ってるんだって聞いたんです。そしたら、通りすがりの男の子が瀬立さんのところで集まってるからって教えてくれて。それで私たちも参加したいなと思って」
聞けば、久保田がいる商店街の方も子供達が集まっているようで、かなりの子供たちが参加してくれているらしい。これが全て蔵之介たちの声掛けで集まっているのだから、恐ろしい。
「いえ、それだけじゃないみたいですよ」
東原が写真を見せてくれた。そこは久保田がいる作業場を写したものだったのだが、中には老若男女問わずの人々が鶴を折っていた。
「久保田さんが昨日何でも屋さんと一緒にやるんだって言ってて。ここの名前を聞いて集まってくれた人もいるみたいなんです。みんな、『WAVES』のことは気になってはいたんですけど、なかなか機会がなかったみたいで。だからこの機会に、新しくできた街の仲間と仲良くなりたいって言ってました」
だから蔵之介の友達だけでなく大人や若者もここを訪れていたのか。蔵之介の友達は事前に『WAVES』のことを聞かされているかもしれないが、大人たちがどうやって辿りついたのかは疑問だったが、なるほど、すでに知られていたという。
すると東原は持っていたカバンを見つめた。それは以前も持っていた買い物用のカバンであり、その中にはあの鈴が財布に繋がっているのだろう。
「みんな、瀬立さんと琥太郎くんに興味津々なんですよ。だから、こんなに集まってくれてるんだと思います」
そう言うと東原は直斗の手を引いて折り紙がある方へ向かった。紗江をはじめとする手練れたちが彼女たちを案内した。
東原の話を聞いて、琥太郎は不思議なものを感じていた。今まで意識したこともなかった街という概念に、琥太郎は困惑して、じんわりと温かいものを感じたのだ。
これが街か。『街の便利屋』なのか。
自然と笑みを浮かべ、琥太郎は作業する人々を振り返った。ズボンの後ろポケットから瀬立に預けられた携帯を取り出し、慣れない手つきでカメラを起動した。
画面をタップすると、シャッターを切る音がした。琥太郎はこの時の音を忘れたくないなと思う。
最後の一羽は瀬立の手に託された。というか、瀬立が一枚折っている間に余っていた何枚かは他の人の手によって完成されてしまったのだ。最後の一羽ではあるが、最後の一枚ではなかったのである。
鶴の首を下から持ち上げ、先端を小さく折る。十人近くの人々が固唾を飲んでそれを見つめ、瀬立は出来上がった鶴を目の前で掲げて見せた。
「できた!」
すると場に拍手と歓声が溢れた。
こうして、間に合うかすらギリギリだった依頼は、夏の長い日が沈む前に完了したのである。
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