第16話

 プライドなんて持ってないと思っていた。自分のような人間に他人より誇れるものなんて微塵もない。だから失うものなんて何もないのだと、そう思っていた。

 しかし、そうではなかった。人間、ただ生きていれば嫌でも歳をとる。いつの間にか重なったそれは、自分より後に産まれた人間から見れば高く積み上がっているのだ。

 何も持っていなくとも、歳だけには逆らえない。

 坊主達に頭を下げ、お願いをするのがこんなにも屈辱だなんて、知りもしなかっった。知りたくもなかった。

「お願いします」

 坊主達は顔を見合わせた。そして憎たらしい顔に露骨に嘲笑を浮かべて、

「しょうがないなー!」

と言った。そして頭をぽんぽんと叩かれる。こめかみの辺りの皮膚がヒクついたのを感じる。今なら嫌いな上司に頭を下げていた先輩方の気持ちがわかる気がした。そうか、好きで下げていたわけではなかったのだ。心まで従えられていたわけじゃあ、断じてないんだな。

 こいつら、いつか絶対後悔させてやる。

「で、何を手伝えばいいんだよ」

 坊主が言った。琥太郎よりもずっと本題に入るスピードが早い。

 それには瀬立が答えた。

「一緒に鶴を折ってほしいんだ。今週末のお祭りの手伝いだよ」

 すると小学生達は目をきらきらと輝かせた。

「何それ楽しそう!」

「俺もやる!」

 意外だった。これほど生意気な子供達だと「報酬は?」とか「何のために?」とか言いそうなものだと思っていたのに。

「子供は無邪気だからね。琥太郎ほど擦れてないってことだよ」

「...俺の心を読むな」

 この男には心の声が聞こえているのだろうか。それとも琥太郎の顔面にでも声が書いてあるのだろうか。

 しかし、となれば話は早い。琥太郎は中腰になって子供達に言った。

「よし。じゃあ俺たちについてこい。話はそこでする」

 子供達はおうよ、と勢いよく頷いた。

 まったく、子供とは無邪気なものである。

「じゃあ琥太郎は先に久保田さんのところに行っておいで。俺はお弁当買ってくるから」

「おう。頼むわ」

 瀬立に一番の願いである弁当を頼み、琥太郎は子供達を連れて久保田達がいる作業場へ向かった。道中子供達にやいのやいの言われたが、大人として二割ほどは見逃してやった。残りの八割はまあ、衝動を抑えることができなかった。

 商店の脇にある階段を登り、質素な扉を開く。とりあえず子供達は後ろに待機させておき、琥太郎だけが扉の前に立った。開いた扉からわずかに涼しい空気が肌に当たる。

「こんにちは」 

「おお、えっと...そうだ琥太郎くんだ。こんにちは。作業は順調かい?」

 久保田が出迎えてくれた。それ以外は、この前と同じ面子が地道な作業に従事している。どことなく地道な作業による疲労が見え始めていた。

「順調、とはいえなかったので...連れてきました」

「連れてきた?」

 琥太郎は後ろに待機させていた子供達を手招いた。すると琥太郎を押し退け走るような勢いで部屋の中へ入っていく。

「こんちは!」

「どうもー久保田のおじさん!」

「お邪魔します!」

「おお、ぜんくんに航介くん、それに蔵之介くらのすけくんも!...しかし、これは一体?」

 琥太郎は頬を掻いて事情を説明した。

「実はうちの上司の手が不器用すぎてですね」

「そうだったのかい」

「このままじゃまずいなって思いまして。『何でも屋』としては苦渋の選択だったんですけど、助っ人を呼びました」

「それがこの子達?」

「はい。彼らなら鶴の一つや二つお茶の子さいさいだって言ってましたし、それに...」

 琥太郎は久保田に耳打ちする。

「どうせ会報に載せるなら...子供達もいた方がイメージがいいでしょう?俺たちはもちろん、町内会としても」

 琥太郎の囁きに久保田は薄い目をして笑った。そしてこくりと頷き、琥太郎の肩を持った。

「それはそれは...ありがたいことだねえ」

「いえいえ」

 どれほど穏やかな顔をしていたところで、その心の中では何を考えているかはわからない。久保田といえども町内会や街からのイメージを気にしていないわけがない。少しでもよく見せようという見栄は誰にでもあるはず、という琥太郎の予想は見事に的中知った。

 久保田はにんまりと笑うと、子供達に言った。

「みんな、じゃあ手伝ってくれるかい?」

「おう!もちろん」

 大人達の目論見など知ることもない子供達を見て、琥太郎は失いかけていたプライドを取り返した気分だった。

 

「こんにちは」

「あら瑞樹くんもきたの!嬉しいわあ。久保田さん、ほら瑞樹くん!」

 作業を開始して少しした後、瀬立が追いつき、子供達のそばで鶴を折っていた久保田が瀬立に手を振って答えた。

「おお、瑞樹くん。ありがとね、助かってるよ!」

 瀬立は笑って答え、小学生に紛れて作業する琥太郎の目の前へ袋を置いた。

「琥太郎、休憩しよう」

「ああ、ありがとな」

 簡潔に感謝を述べると、琥太郎は鶴を折る手を止めて目の前のレジ袋を漁り始めた。中には焼肉弁当と海苔弁が入っている。

「瀬立どっち食うの」

「余った方でいいよ。琥太郎が選びな」

「...本当にいいんだな?焼肉選ぶぞ」

「お構いなく」

 言われたので琥太郎は容赦無く焼肉弁当を取り出した。そして一緒に入っていた割り箸を取り出し、弁当の蓋を開けた。その香ばしい匂いは琥太郎の空っぽの胃袋を刺激し、数秒もかからぬうちに食いつかせた。味については言うまでもない。美味いに決まっている。

「君たち、お昼は?」

 瀬立が小学生達に聞いた。

「俺らは家で食った!」

「そう。じゃあ、久保田さん達はどうですか?もしまだでしたら、おにぎりいかがですか?」

 すると瀬立はもう一つ持っていた袋を掲げた。どうやら同じ店で買っていたらしい。

「本当かい?ありがとう、いただくよ」

「ありがとう瑞樹くん」

「どうもね」

 大人達はしばしのランチタイムである。子供達はせいぜい鶴を作り続ければいい。

 瀬立は琥太郎の隣に座り、海苔弁を食べ始めた。琥太郎のがっつく食べ方とは違い、なんとも上品な美しい所作で食べている。

「瑞樹兄ちゃん、食べ方もイケメンだな」

「食べ方にイケメンも何もないと思うけど...でもありがとね。褒め言葉として受け取っておくよ」

 遠回しに自分が下げられているような気がしたが、しかし事実なのでどうしようもない。そんなことよりも琥太郎は目の前の食事に集中である。

 瀬立が食事のお供に選んだ会話の中で、子供達の名前が判明した。この前情報を提供してくれた艶のある髪が印象的なのが航介、小柄なのが善、そして坊主頭が蔵之介だという。

「お前そんなに渋い名前だったのか」

 琥太郎が言った。すると蔵之介は胸を張って答える。

「そうだ。かっこいいだろ」

「まあな」

「うん。とってもかっこいいね」

 どうしてそんなに立派な名前なのに、こんなにひねくれた子供になってしまったのだろうかと、琥太郎は嘆くばかりである。

「武士のように強い子になるようにってお母さんがつけたんだ」

 ふふん、と鼻を鳴らした蔵之介に瀬立が笑みで答える。すると小柄な体格の善が聞いた。

「瑞樹兄ちゃんはどうして瑞樹なの?珍しい」

 問われた瀬立は苦笑して答えた。

「ああ、それはね?両親は女の子が欲しかったらしくて、産まれる前にこの名前に決めてたらしいんだよ。でも、結局男の子が産まれてね。男でもおかしくない名前だったから、そのままにしたんだって」

「へー!」

 ということは瀬立の兄弟は全員男ということだろうか。以前末っ子だと言っていたし、男兄弟なのだろう。

「じゃあ、琥太郎兄ちゃんは?」

「え?」

 突然の質問に琥太郎は手に持っていた箸の動きを止めた。しかし善はそれを気にすることなく首を縦に振って回答を促した。

 琥太郎は逡巡した後、言った。

「知らねえ」

「え?」

 善が聞き返した声に、琥太郎は目を伏せて答えた。

「だから、知らねえんだよ」

 琥太郎は自分の名前の由来を知らない。それは紛れもない事実である。そもそも名前という自分が産まれた時に付けられたものなんて、成長してから聞かなければ知るはずのないものなのだ。しかし琥太郎にはその機会がなかった。幼い頃に両親は離婚、父とはほとんど会わないし、母はその日の食事のことすら話せないのに、腹の足しにもならない名前の話なんて聞けるはずもない。よって十五年間、琥太郎はその自分を象徴する一番のものである名前の由来を知ることなく生きてきた。

 琥太郎が話し終えると、場に微妙な空気が漂った。

「やめろよその感じ」

「いや、えっとそうだな...」

 航介が答えた。琥太郎はため息を吐く。そして思いっきり言い放った。

「なんだよ、『かわいそう』とか、『大変だったね』とか言おうとしてんのか。だったらやめろ。お前らガキがそんなことで気使って何になんだよ。んなこと言われても俺は嬉しくねえし、救いにもならない」

 今まで何十人という人に言われてきた。けれど言葉だけで、誰も助けてはくれないのが現実だった。口で他人を慰めるのは簡単だ、けれど、誰一人としてあの場所から連れ出して、手を差し伸べてくれる人はいなかったのだ。

「それに、気ぃ使った言葉なんかじゃどうにもならないしな。むしろ迷惑だっつーの。何にもならないなら、ないほうがマシだ」

 小学生たちに向けていたはずの言葉は、いつの間にか行き先を失ってただ地面に落ちるだけになっていた。

 大人気なく小学生に八つ当たりしたことと、どうしようもなく不快な思いが美味い焼肉弁当の後味を苦くさせた。大きく息を吐き、琥太郎は席を立つ。

「ちょっと外の空気吸ってくる」

 過去は関係ないといつも思っている。けれど、こうした何もない会話の中で不意に引きずり出される記憶が、どうしても不快でならないのだ。

 逃れられない。そう言われているような気がして。


 ガチャリ、と扉が閉まる音がした後、小学生たちは肩をすぼめて琥太郎の空っぽになった弁当箱を見つめた。

「俺、怒らせちゃったかな」

 善が眉を下げて言った。それを瀬立は否定する。

「怒ってはないと思うよ。顔見る感じ、そうは見えなかったから」

 瀬立は善に笑みを向けながら続ける。

「琥太郎は良くも悪くも顔に全部出るから、怒ってる時は眉上げて目つき鋭くなって、ちゃんと怒ってる顔するんだよ。でも、さっきはそうじゃなかったでしょ?だから大丈夫、怒ってないよ」

 瀬立の話を聞いた善は、少しだけ肩の力を抜いた。その様子を見て瀬立はにっこりと笑い、海苔弁を食べる手を止めて三人に向かった。

「君たちは、さっきの琥太郎の話を聞いてどう思った?」

「え...」

 小学生たちは言い淀む。先ほどの琥太郎の言葉が気にかかっているのだろう。

 しかし瀬立はそれを振り切る。

「琥太郎の言っている気持ちも、まあわからないでもないよ。問題っていうのは結局本人にしか理解できないから、他人がどうにかできるものでも、代わってあげられるわけでもない。理解だってできないくらい、他人って無力だからさ」

 どれほど琥太郎の話を聞いたところで、きっと瀬立にその気持ちはわからない。自分の中に積み重ねてきた経験と琥太郎が積んできた経験では何もかもが違いすぎる。知ることはできても、その心にある気持ちを全て理解してあげる事なんて、できるはずもない。

 わからない。

 わからないのだ。

「でもね、わからないからって逃げるのは違うと思うんだよ」

「違う?」

 航介が呟いたのを瀬立は頷いて返した。

「ほら、君たちだってテストの問題がわからないときあるでしょ?」

 航介たちは動きを揃えて頷いた。

「その時にわからないからって逃げたら、いい結果にはならないよね。それとおんなじだよ」

「おんなじ?」

「わからないからって逃げても、何も解決しない。目の前から追い払って見えなくなるようにしてるだけで、無くなったわけじゃないんだ。解決なんてしてないし、片付いたわけじゃない。でもだからって首を突っ込めばいいってわけでもない。本人である琥太郎の気持ちを最優先しなきゃいけないから、俺たちにできる『逃げ』以外の選択肢は...」

「選択肢は?」

 瀬立はとびきり優しい笑顔を善たちに向けた。

「考えること。琥太郎の話を聞いて、自分たちがどう思ったか。琥太郎本人に伝えなくていいけど、ただ考えるんだ。いつか解決できる日のために、考え続けることが、俺たちにできることかな」

 瀬立が言い終わると、子供達はきょとんとした顔をした。それを見て少し難しすぎたかな、と瀬立は思ったが、すぐにその顔には表情が戻った。

「俺、琥太郎兄ちゃんかわいそうだと思う!」

「そうだそうだ!兄ちゃん置いてった父ちゃんが悪い!」

「いや、それよりもお母さんだろ!近くに居たんだぞ?」

 ああでもないこうでもないと小学生たちは鶴を折る手をやめて議論した。もちろん、彼らは小学生だから考えられることには限界があるし、間違った答えだってあった。しかしそれでいいのだ。彼らが考えて、考え続けて、琥太郎のような子供を取り巻く状況をしっかりと理解できる年齢になったとき、その経験が何かしらの影響を与えてくれる。

 干渉しないことを否定はしない。けれど、それと目を逸らすことは別物だ。何もしないことが最大の逃げである。

 小学生の熱い議論が落ち着いた頃、琥太郎が外から帰ってきた。気分転換ができたのだろう、その顔にはもう負の表情はない。

「おい、琥太郎兄ちゃん!」

「...なんだよ」

 鶴を折る手を止めて琥太郎の目の前に三人揃って立った。全員仁王立ちである。

 蔵之介がすうっと大きく息を吸う。そして拳を胸に当てた。

「俺たちが、守ってやるぜ!」

「...は?」

「大丈夫だ、気にするな。俺たちは、こう見えても学級委員やってるからな。頼りにしてくれていいぜ」

「何言ってんだよ」

 琥太郎は終始不愉快そうな顔をしていた。それが面白くて瀬立は気づかれないように声を抑えて笑っていた。一部始終を見ていた久保田や他のマダムたちも同様にしていた。

 そうか。彼らが出した結論は。

 必死に笑いをこらえたものだが、肩が震えていたのがバレたのか、琥太郎が瀬立に向かって言う。

「おい、何言ったんだよ」

「いや、何も?大人として、ちょっとだけ教育をしただけだよ」

「嘘つけ。なんか言ったんだろ、おい、何吹き込んだ!」

「まあまあ落ち着けよ琥太郎くん。俺たちに相談してみろって!」

「てめえらは黙ってろ!」

 抑えていた声をこらえきれなくなって、瀬立は声を出して笑った。つられて誰かが笑いだして、いつの間にか部屋中が笑い声に満ち始めた。

 琥太郎一人だけが納得いかないという顔で作業を再開させた。瀬立はその金色に染まった頭に手を置き微笑む。

「...なんだよ」

「なんでもないよ」

 窓越しに掠れた蝉の声が遠く聞こえた。

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