第15話

 時は戻り現在、締め切りの二日前である。途中経過としては作業の三分の一が終了していた。三分の一というとあれ、結構いけてる?と思うが、二日前にも関わらず半分も進んでいないのだ。依然ピンチは続いたままである。

 その要因は二つ。まず、琥太郎の問題だ。昼間は問題なく鶴を折り続けるのだが、家で折ることができないのである。というのも、せっかく家で鶴を折っても朝の満員電車で綺麗に折られたそれらが潰されてしまうからだった。よって家に仕事を持ち帰ることができず、進みがイマイチなのである。

 しかしその問題は今日、琥太郎が引っ越しを完了したことで解決する。より深刻な問題は二つ目である。

「ふう、やっとできた」

 瀬立が琥太郎にたった今出来上がった赤い折り紙の鶴を見せた。

 そう、この男である。

 瀬立瑞樹は自己申告の通り、とてつもない不器用だった。ゆえに一羽折るにも他人の数倍の時間を必要とし、瀬立が一羽を完成させるまでに折り慣れていない琥太郎が三羽作れるくらいである。よって琥太郎の不在中に瀬立一人ではなかなか鶴の量が増やせなかったのだ。

 しかしせめてもの救いは瀬立がその事実を認めていることと、折る鶴が非常に美しいということだった。

「丁寧に折らないと鶴じゃないものになっちゃうからね。俺の場合は」

 鶴ではない未確認生物を生み出さないため、時間をかけ丁寧に折ることで結果的に非常に美しい鶴が生まれているようだ。

 そんなこんなで部屋を確認して早々、ソファに腰掛け黙々と鶴を折るのである。こうでもしないと間に合わないのだ。全く、どうしてこんな依頼を受けたのだろうか。

「そりゃあ、依頼だからね」

 心の声が漏れてしまっていた琥太郎に瀬立がスローモーションのように手を動かしながら答えた。琥太郎はその数倍の速度で手を動かしながら聞く。

「依頼だからって、わざわざ苦手なものまでやるのかよ」

「そりゃあやるよ。そのぐらいの覚悟がないと、何でも屋なんてしちゃだめなんじゃない?」

「そりゃあそうだけどさ」

 仕事だからそれなりの覚悟を持つべきだとは思う。自分の生活がかかっているのだ、鶴くらい折ってみせるだろう。琥太郎だってその一人だ。

 しかし。

「わざわざ苦手なものまでやらなきゃいけないなんて、大人は窮屈だな」

 誰に向けたわけでもなく、琥太郎は呟いた。言い終わると同時に出来上がった鶴をダンボールの中の群れに加えてやる。赤い鶴の中に、たった今折った黄色い鶴が浮いていた。

「窮屈、か。でも俺は結構楽しいよ?」

 瀬立が言った。手元の鶴は先ほどから三行程ほどしか進んでいない。それでも手を止めることなく言った。

「人生の中でこんなに鶴を折る経験なんて今までしたことなかったから、新鮮で楽しい。それに綺麗に折れると嬉しいし、集中するから時間があっという間だし」

 ダンボールの中の鶴たちを愛おしそうに眺める。心なしか瀬立の折った鶴はどこか誇らしげに見えた。

「この鶴を折るっていう経験みたいに、人生の中でいらない経験なんて、本当はすごい少ないんじゃないかな。本人にとってはすごく苦手で嫌で、やりたくないって思っていたことでも、長い人生の中でいつかその経験が活きてくる瞬間がある。直接的にでも、間接的にでも、必ずね。それにほら」

 瀬立が手元の鶴を琥太郎の目線に掲げた。紙の端がピシリと揃った、非常に美しい鶴だ。

「少しだけ早く折れるようになったんだ。苦手なことを積み重ねることは、成長を実感できる最高の方法なんだよ」

 出来上がった鶴をテーブルの真ん中に置くと、瀬立はダンボールから紙を取り出す。そして四角い紙を半分に三角に折り、新しい鶴を作り始めた。

「確かに、大抵の人は嫌いなこととか面倒なことをやらなきゃいけないのを窮屈って思うかもね。でも、捉え方次第じゃないかな。嫌だって思いながらやれば嫌なままだし、楽しさを見出せば楽しくなる。経験って、そういうものだよ」

 琥太郎はいつの間にか作業の手を止めて瀬立の言葉に聞き入っていた。指摘されて動き出した指は、黄色の紙の上で空回る。

 嫌だと思いながらやれば嫌なまま、楽しいと思えば楽しくなる。

「...どんな経験でも、そういえるか」

 どんな経験であったとしても、自分の捉え方次第で変わるのか。辛く苦しい現実は自分の手で、意識次第で変えることができたのか。

 瀬立の顔を見ることなく言った。視界にあるのはただ黄色の折り紙だけで、瀬立の顔も、自分の顔すらわかりはしなかった。

 数秒、ほんの一瞬だったのかもしれない。沈黙の後、

「どんなものでも、なんてことはないよ。どうしようもなく、暗いものはあるから」

と言った。

 ぞっとするほど落ち着いた声だった。


 ただひらすらに鶴を折り続け、腹が減った。時刻は正午を過ぎ、成長期の胃袋は限界である。

 琥太郎は瀬立に腹が減ったという旨を伝えると、瀬立は苦笑した。

「そっか、でもごめんね。昨日買い物行くの忘れてて」

 家に何もないんだ、という言葉が聞こえた瞬間、琥太郎は眩暈を覚えた。

 項垂れる琥太郎を横目に、瀬立はソファから立ち上がり大きく伸びをした。

「休憩も兼ねて買い物に行こうか。気分転換しよう」

 琥太郎は小さくああ、と頷いた。

 玄関の扉を開けると蝉の声が耳に届いた。折り紙に集中する静かな家の中では夏の意識はほとんどないと言っていい。今が八月ということを再認識する。けれどその暑さが凝り固まった体には健康的である。

 瀬立は財布と買い物袋を持ち、琥太郎は瀬立に渡された携帯をジーンズの後ろポケットに入れただけの軽装で外に出た。どうせ荷物持ちになるのだ、身軽な方がいい。

 買い物に加え久保田への進捗報告もしようと思い商店街へ向かった。確か手頃な弁当屋があったはずである。以前来たときに目をつけていたのだ。

「今度からこういう買い物は琥太郎に任せようかな」

「え...いやいいけど、なんで?」

「だって、料理できるの琥太郎だし。俺はほとんどしないから」

 意外だった。しかし同時に非常に納得した。以前冷蔵庫を見た際、確かにその食生活が見えなかったが、まさかほとんど料理をしないとは思わなかった。やたらと惣菜を買い込んでいるのはそういうことだったのか。

 しかし琥太郎は一つ疑問にぶち当たる。

「え、でも肉とか魚だって買ってたよな」

 そう、確かに生鮮食品は普通にあったのだ。だから余計にその食生活がわからなかったのである。惣菜と肉と魚だけが並ぶ不思議な冷蔵庫だった。

 それに瀬立はああ、と言って、

「焼く、煮る、とかは一応できるから、すごく簡単な味付けで食べててさ。栄養的にも気分的にも、そういう食材は摂らないとやってられないから」

 なるほど。料理といえる料理ではなく、その五歩手前くらいの飯を食べていたのか。これからの共同生活が少しだけ気が楽になった。毎日フランス料理を作れとか無茶ぶりを言われないか、実は怯えていたのだ。

 そんな会話をしながら商店街を闊歩していると、突如後ろからドドドという音が聞こえた。その音は徐々に琥太郎達に近づいてきたので、何事かと思って琥太郎は振り向いた。

 それが全ての間違いだった。

 振り向いた途端、腹に重い衝撃を感じた。うっという低い呻き声が口から出た瞬間、その衝撃の正体を知った。

「よっ!兄ちゃん!」

「...てめぇ...」

 坊主頭の小学生男児とそのつれの二人が夏の太陽のごとき笑顔で挨拶した。

 この坊主達は数日前の東原の一件で知り合った、いわゆるクソガキたちである。初対面の琥太郎を砂場でおもちゃにし、完全に年長者の尊厳は失われた。

「こんにちは。数日振りだね」

「瑞樹兄ちゃん!こんちは!」

「こんちはー」

「今日もイケメンだな!」

 どういうわけか瀬立にはしっかりと尊敬の意思が現れている。なぜだ。

「琥太郎の兄ちゃんには大人のよゆーがないんだよな。だから尊敬とかない」

「右に同じ」

「俺もー」

 はっ倒したくなるクソガキである。琥太郎は大人の余裕とやらで湧いてきた怒りを必死に抑えた。小学生達のリアクションを見る限り、できていたかはわからないが。

 けらけらと笑う小学生達に瀬立が聞いた。

「君たち、今週末のお祭りは行く?」

 すると坊主頭は親指を立てた右手を突き出した。

「もちろんよ!子供はジュースもらえるからな!」

「はっ、ジュースくらいで喜べるなんてガキだな」

 精一杯上に立とうと煽る。しかしそれは簡単に打ち砕かれた。

「おい今の聞いたか?琥太郎兄ちゃん、ジュースの美味さわからないってよ」

「マジ?はー、あの美味さがわからないなんて、粋じゃないね」

「んだと?」

「こらこら。喧嘩しない」

 瀬立に頭を抑えられて坊主頭から引き剥がされる。悪いのはまるで自分みたいだ。いやまあ、はたから見れば小学生に絡んでる金髪の少年だか青年は確かに不良である。悪いのはこちらと捉えられるだろう。不憫な世の中だ。

 そんな琥太郎を微塵も気に掛けることもなく、瀬立は子供達に笑いかけた。

「じゃあ頑張らないとだね。素敵なものにしなくちゃ」

「だったらさっさと帰ろうぜ?こんなクソガキ達に絡んでる暇ねえって」

 すると脳裏に電撃が走ったような感覚を覚える。そして目の前の子供達をじっと見た。

 小学生だ。そしてこの年の頃、自分もその経験があった。きっとできるだろう。近くには久保田とマダム達がいる作業場所もある。会報に載せる写真だって、その方がいいのではないか。

「瀬立...これは何でも屋として許されることかはわからないんだが」

「うん?」

 背伸びをして瀬立に耳打ちする。閃きを言い終わると、瀬立は苦笑しながら頷いた。止むを得ない状況に加え、その方がのちにいいものができると了承したのだろう。

 琥太郎は瀬立から離れ、小学生男児三人の前にまっすぐ立った。憎たらしい顔が三つ、自分を見つめてきた。

 腹は立つ。できれば誰にもこんなことはしたくない。しかし、こうするしかなかった。

 腰から九十度に体を曲げ、頭を目一杯下げた。

 社会人の必殺技、誠意を込めたお願いである。

「手を、貸してくれませんか」

 泣きたいほどの屈辱であった。これで完全に琥太郎の立場は彼らの下になったのである。

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