Ⅱ 祈りの日々
第12話
数日後、くたびれたボストンバッグを抱えながら家を出た。今日もまたとても暑い一日である。どこへいたとしても蝉は鳴き続けているものだと不思議に思う。
オンボロアパートの前、掃除をしている人物に近づいた。
「中野さん、ありがとうございました」
アパートの大家、中野に挨拶をする。中野は首から下げたタオルで、その皺が刻まれた額に伝う汗を拭った。
「おう。元気でな。ちゃんと飯食えよ」
言うと中野は琥太郎の肩を叩いた。老人の割には力が強いのは、ずっと剣道をやっていたからだっという。入居した時に聞いたのだ。
思えばここにきたのはたかだか五ヶ月前の話だ。物件情報を見てボロいアパートだとわかってはいたが、初めて来た時はその有様に驚いたものである。しかし、それでも逃げ出してきた琥太郎にとってはありがたい居場所で、琥太郎を受け入れてくれた中野は感謝しても仕切れないほどの恩人であった。
未成年ゆえ、保証人は一応父親になっているのが琥太郎である。親権は一応母親なのだが、父親の方が収入が安定しているからだ。父はあの日以来家に来ることもなければ会うこともなかったため、このアパートを契約する時も色々とうまくいかないこともあった。それを取り持ってくれたのがこの中野であり、色々と融通を利かせて琥太郎を置いてくれたのも彼だった。数ヶ月の生活を間接的に支えてくれたのは中野なのである。
「住み込みなんだろ。大丈夫か」
低い声でいつも怒っているように聞こえるその声は、彼の通常運転だ。怒っている訳でも機嫌が悪いわけでもない。それに気づいたのは入居してから少し経ったあとだ。
琥太郎は中野の目を見つめながら答えた。
「はい。多分、大丈夫です」
「多分?」
中野は眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をした。琥太郎は首を横に振って誤解を生まないように答えた。
「上司がその...なんていうか、大人としてはよくできてるんですけど、ちょっと変人で」
瀬立という男は少しばかり変だろう。あの恵まれた見た目があるから許されている感は否めない。
「おい、それ本当に大丈夫なのか」
中野は鬼気迫った表情で琥太郎に詰め寄った。今度は両手を振って中野を落ち着ける。
「大丈夫です。そういうのじゃないっすよ。あいつは多分、信頼できる。そんな気がするんです」
クビになった直後に拾われたその運命を、今は少しだけ信じてみたいのだ。
琥太郎はボストンバッグから一枚の紙を取り出す。それは新しい職場兼住居である場所のショップカードだった。
「もしなんかあったら来てください。お安くしときます」
カードを中野に渡す。中野はありがとよ、と言ってそれを受け取った。
琥太郎はじゃあ、と言って出発の姿勢をとった。中野は静かに頷いた。
「琥太郎」
ボストンバッグを持ち、歩き出そうとした琥太郎を低い声が止める。
振り返った琥太郎に、中野は眉を寄せたまま笑った。
「いい顔してるぞ、お前」
木々の匂いを含んだ風が中野の白く染まった髪を揺らす。思っていたよりもずっと、彼は老人だったことに琥太郎は初めて気づいた。
琥太郎は笑みを浮かべ、元気よく言った。
「行ってきます!」
中野の顔に刻まれた皺が、少しだけ深くなった。
「よお」
玄関から顔を出した瀬立は目を丸くしていた。琥太郎はそれがなんとなく気に入らなくて、悪態をついた。
「なんだよ」
「いや、荷物少なくない?」
瀬立は琥太郎の持つバッグを見ながら言った。琥太郎もつられて手元を見る。そこには膨れたボストンバッグがあるだけだった。
琥太郎はこのボストンバッグに自分の荷物を全て入れてきた。他に荷物があるとすれば、普段使いのショルダーバッグのみである。このボストンバッグだけが琥太郎の引越しの荷物だ。洗濯機もなければ冷蔵庫もない。というのも、洗濯はコインランドリー、食事はその日か遅くとも翌日には消費していたので持つ必要がなかったのだ。唯一の大荷物と思われた布団は、瀬立のご好意でうちにあるやつを使っていいと言われたので捨ててきた。潰れた綿を重ねたような布団だったのでこの機会に処分できてラッキーだとさえ思っている。娯楽の道具は一切持ち合わせていない琥太郎なので、必然的に家から持ち出すのはこれだけである。
「なんか問題ある?」
瀬立は苦笑した。
「そう言われればないけどね。さ、早く上がりな。急がないと間に合わないよ」
言われ、琥太郎は足を止めた。そして瀬立を呼びかける。きょとんとした顔で瀬立は振り向いた。
琥太郎はボストンバッグを肩から下ろし、腰を九十度に曲げ頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
思えばしっかりと挨拶をしていないことが気がかりだった。いくら自分が琥太郎で相手が瀬立とはいえ、最低限の礼儀は持つべきであろう。始まりが全てだ。いくら当分の雨をしのぐ場所とはいえ、それでも礼儀を欠いていいとは思えない。
頭をあげると、目を見開いた瀬立がいた。相当驚いているらしい。
「なんだよ」
気恥ずかしくなって言う。照れ隠しなんて子供じみていて嫌いだ。けれどそれ以外の手段を持ち合わせていないのが琥太郎なのである。
瀬立はにっこりと笑った。
「いや、なんでもないよ。ほら、早くおいで」
瀬立の声に急かされ、琥太郎は事務所の中に入る。今日からここが、自分の帰る家だ。
事務所に入ると瀬立は琥太郎を螺旋階段の方へ手招いた。
「琥太郎の部屋に案内するよ」
琥太郎は頷きながら、ついにきたかと心を逸らせた。何度かこの事務所に足を運んでいる。しかし、二階部分へ行くのは今日が初めてだ。
黒い階段をボストンバッグを抱えながら登る。徐々に一階が遠くなり、螺旋階段の隙間から見える地面が少し怖い。
そんなことを考えながら登った先にあったのは、無駄なものは一切ないモデルルームのような一階とは違ってダンボールが置かれている生活感溢れる廊下だった。
「この手前の部屋を使ってくれていいよ」
瀬立はいくつかある部屋の一番手前の部屋の扉を開けた。琥太郎は扉の前までいくと、目の前に光景に息を呑んだ。
窓から日差しが入り込み照明がなくとも十分に明るい部屋。決して広くはないが、人が寝泊まりするには十分すぎるほどの空間だ。上を見ると冷暖房も備えついている。人生の中でこれほどの部屋に巡り会えたのは、中学の教室以来である。
「俺の部屋はここの隣だから、何かあったらおいで。俺の隣の部屋は物置だから、特に気にしなくていいよ」
荷物を置いたらおいで、と瀬立は言い残して一階へ消えた。取り残された琥太郎は一人、綺麗な部屋へ足を踏み入れた。意味もなく寝転がってもみた。そして静かに、自分の選択を褒め称えた。よくやったぞ琥太郎、お前の選択は間違っていなかった。少し未来の俺が褒めてやる。
ほくほくとした顔で下へ戻った琥太郎は瀬立に聞いた。
「進捗は?」
「...はは」
琥太郎はため息をついた。部屋を与えられた喜びは一瞬で追い詰められた現実へ連れ戻される。
瀬立の前にはダンボールが積まれ、その中にはぎりぎり底を隠すだけの折り鶴が積まれている。その脇には、大量の折り紙が散らばっていた。
琥太郎は大きく、ため息をついた。
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