第11話

 朱里を見送った後、琥太郎達は事務所へ向かった。

 来客用のソファに東原と直斗を座らせ、琥太郎はまたも立ち尽くした。その姿を見て瀬立が、

「新しく椅子を買おうか」

と言った。琥太郎は無言で頷く。

 東原の前に紅茶、直斗の前にオレンジジュースを差し出した瀬立は、一人がけのソファに腰を下ろした。

「ありがとうございます。見つけてくれて」

 東原は頭を下げて言った。その手の中には、小さな鈴が大事そうに握られている。

 瀬立は心からの笑みを浮かべながら聞いた。

「その鈴の話を聞かせてくれませんか?」

 少し驚いたようにした東原だったが、直斗の方を見てオレンジジュースを手に持つその丸い頭を愛しげに撫でた。

「少し前の話になるんですけど」

 鈴の音が彼女の手のひらで鳴った。

「そう、二年くらい前かな、家族三人で旅行に行ったんです。その時購入したものなんですけど、別にその地方の特産品とかそういうものでは無いんです。この鈴は。旅行の最終日、お土産を買うのを忘れてた私がたまたま目に入った鈴を夫が買ってくれたんです。食品とかは買ってたんですけど、物は買っていなくて」

「どうして、わざわざ買ったんですか?」

 瀬立が聞いた。東原は慈しむように手の中の鈴を見た。

「思えばその旅行は、この子にとって初めての旅行だったんです。初めて自分の生まれた街から遠く離れて過ごした思い出に何か残しておきたくて」

 鈴が鳴る。直斗はその音を辿るように東原の手元を見た。

「最初はただの鈴の延長線上だって思ってたんですけど、使っていくうちにだんだんと愛着も湧いて。いつの間にかとても大事なものになっていたんです。だから失くしたとき、とても不安で焦って。窶れるくらいにはショックでした。でも今日、もっと特別なものなんだってわかりました」

 東原は鈴の紐を持って目の前で鳴らす。綺麗な音色だと琥太郎は思った。

「夫に買ってもらって、そしてこの子が私の音だって言ってくれて。こんなに大事なもの、手放す事なんて出来ないって思いました。朱里ちゃんには、申し訳ないですけど」

 琥太郎はそこで初めて口を出した。

「あの子だってわかってると思いますよ」

 朱里は決してひねくれた子供では無い。瀬立や東原が話している時もどこか後ろめたそうな顔をしていたし、東原や直斗のことを理解したからこそ、その鈴を元の場所に帰したのだ。彼女は正しい選択ができる人間だったのである。

 琥太郎の言葉に、東原は微笑んだ。その顔は少し窶れは残っているが、すっかり不安の色は抜けている。

 そして東原はもう一度直斗の頭を撫でる。直斗は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「この鈴がこの子の未来にどうなっているかはわからないけれど、この音を聞いたときに今日を思い出したりするのかな...言葉で覚えていることができなくても、音で覚えていたのなら、素敵だな」

 すると東原は瀬立と琥太郎にむきなおり、改めてお礼をした。

「本当にありがとうございました。私達家族を繋ぐとても大事な鈴を見つけてくれて」

「ありがとう!」

 直斗が弾ける笑顔で言った。

 瀬立はそれに頷き、

「素晴らしい音の話ですね」

と言った。

 東原は驚いた顔をした。

「え、こんな話でいいんですか?用意していたものは別にあるんですけど...」

「いえ、十分です。ありがとうございます。だよね、琥太郎?」

「え、あ、ああ、いいんじゃないすか?」

 急に振られて適当な返事をしてしまった。なぜここで自分に話を振るのかわからずに頷くしかできなかったではないか。突然振られたせいで中途半端な敬語になってしまうし、客相手にまるで部活の先輩に話しかけるみたいである。

 東原は目を丸くして、そして笑った。よく見れば、直斗は母親にそっくりだ。


 料金を頂き、東原達を見送った。直斗がぶんぶんとその小さな手を振ったのを琥太郎は控えめに返した。午前中に会った連中とは偉い違いだ、とても行儀のいい子供である。

 再び二人に戻った事務所のソファに琥太郎はもたれた。なんだかとても疲れた気がする。しかし、自然と心は満足していた。以前の職場では感じたことのない感情だ。

「素敵だったね」

 瀬立が左隣に腰を下ろした。琥太郎は少しだけ右にずれる。まだそこまでの距離を許せはしない。

 姿勢を整え、琥太郎は瀬立に答えた。

「鈴の話が?」

「それもだけど、あの家族がさ」

 琥太郎は適当に頷く。確かに、素敵な家族だろう。絵に描いたような家族の在り方だ。

「鈴っていうなんでもないものが、あの家族を繋いでる。そしてその音が、記憶と繋がっていくんだろうな。未来のある音の話だね」

「やっぱり音の話じゃねえか」

 薄々感じてはいたが、この男、音の話に対する執着が凄まじい気がする。音の話のために商売を始めるというのも不思議な話である。

 わずかな沈黙の後、瀬立が言った。

「たかが鈴、って思ってたでしょ」

 瀬立が笑みを口元に浮かべていた。もちろん、琥太郎にとっては図星である。

 琥太郎が虚を衝かれた顔をしているのを気にもとめず瀬立は続けた。

「それも安物、依頼料の方が高いのになあ、とか考えてたかな。あ、もしかしたら、金持ちの道楽とかも考えたりしてたのかな?」

「ぐっ...」

 まさしくその通りである。何から何まで全て当たっている。こいつ、もしや心が読めるのか。

 ここまで言われてしまえばそんなことはない、とは言えなかった。正直に白状する。

「...思ってない、とは言わない」

「だろうね。顔に出てたよ」

 琥太郎は自分の顔を手で覆う。くそ、心情をそのまま写し出してしまうこの顔面が憎い。

「じゃあ、今はどう思う?」

「え?」

 瀬立は長い脚を組み替えて琥太郎に聞いた。

「東原さんの話を聞いて、あの鈴を今の琥太郎はどう思う?」

「どうって...」

 どうかと言われれば。

「まあ...探すだろうな。金払ってでも」

 その行動に不可解な点はない。むしろ至極当たり前な行動と言える。

「でしょ?いいかい、琥太郎」

 まっすぐ琥太郎に向き、瀬立の目が捉えた。

「俺たちがこれから向き合っていくのは、そういうものばかりだと思う。他人にとってはガラクタで、くだらないことに思えるかもしれない。でもね、行動に現れていないだけで、そこにある感情は、他人が考えるよりもずっと複雑なんだよ」

 話す瀬立の顔に笑顔はなかった。その真剣でどこか深刻な顔が琥太郎を話に引き込ませ、芯の方に言葉を突き刺す。

「ここで働く上で、一つだけ琥太郎に守ってほしいことがあるんだ」

「...なんだよ」

「人の音を聴いて欲しい」

「人の...音?」

 琥太郎は首を傾げた。人の声ならばわかる。しかし、音とはどういうことだろうか。

「そう、音だよ。ほら、声はさ、口からしか出ないじゃない?それに話そうとか喋ろうとしなければ声は出ないでしょう?でも、音は無意識に出るし、身体中から音が鳴る。その音を、琥太郎には聴いて欲しいんだよ。そうすれば、仕事に役立つと思うんだ」

 人が抱える問題、感情の音を聴く。

「微かでも僅かしかなくても、聴き逃さないようにして欲しい」

 琥太郎はしばし考えたが、頷いた。それは単に上司の命令だったからである。

「あんたがやれって言うなら、するよ。役立つんなら尚更な」

 琥太郎の回答に瀬立は首を横に振った。どうやら満足しなかったようだ。

「そうだね、仕事もそうなんだけど。普段の生活でも聴いてみるといいよ」

「普段から?なんのために」

 必要性がわからねえ、と正直に言った。別に無意味に突っかかっているわけではない。純粋にわからないのだ。

 瀬立はそこでようやく微笑む。そして琥太郎の目を深く見つめて言った。

「君の中に経験を積んでくれる。いつかきっと、役に立つよ」

 すると瀬立は話をやめて、大きく伸びをした。

「よし、今日はもう終わり!お疲れ琥太郎」

 突然話を切り上げられて困惑したが、気にせずに答える。

「あ、ああ。じゃあ、俺はこれで」

「うん。気をつけてね」

 琥太郎は馴染みのショルダーバッグを肩に下げて玄関へ向かった。わざわざ瀬立はついてきて琥太郎を送り出した。

「じゃあまた...あ、そうだ。琥太郎いつこっち来る?」

「来週には」

「そっか。じゃあそれまでに片付けておくよ」

「ああ」

 瀬立は眩しそうに太陽を仰ぐと、琥太郎に言った。

「せっかくだ。帰り道、音に注目してみるといい。きっといつもとは違う感じを味わえると思うよ」

 玄関を出ると、まだ明るい路地裏を早足で駆け抜けた。なぜか心が落ち着かなくてじっとしていられなかったのだ。

 駅を目指し駆ける中、瀬立の言葉が頭を巡っていた。

『人の音を聴く』

 正直、まだその言葉の意味を理解できてはいない。音なんていつも勝手に耳に入っているではないか。経験を積む。その意味だって琥太郎の頭では理解できない。何もかもわからないことばかりだ。

 はあ、とため息をつく。その時、玄関で瀬立が言った言葉を思い出した。

 帰り道の音。

 自分のため息もその音の一つだ。

 琥太郎はいつの間にか俯いていた顔を上げた。目の前には表通りが広がっている。

 帰り道の音とやらに耳を澄ましてみる。

 それはまるで今まで耳を塞いでいた手が離れたような気分だった。

 目の前の道路を走る車のタイヤがアスファルトに触れる音、木々で鳴く蝉の忙しない声、遠くに聞こえる工事の重機の音、隣を行く人の会話の声、夕方でもまだ暑い風が通りに吹き込む音。

 今までずっと聞こえていた音だ。ありふれていて、当たり前の音。初めて聴くわけではない。琥太郎はイヤホンなどで音楽を聴きながら歩く趣味もなければそもそも機器を持ち合わせていない。だから今まで幾度となく聞いてきた音なのだ。けれど、今までは気にしたこともなかった音たちが、琥太郎の鼓膜を震わせた。

 あるいは、心だったかもしれない。

 世界はこんなにも、音に溢れていたのか。こんなに色々な音が存在していて、その中に自分はいたのか。

 琥太郎はその場から動くことができず、しばしその音に耳を澄ませていた。一瞬たりとも同じ音はない。一秒ごとにその音は変わっていく。

 少しだけ瀬立の言葉の意味を理解できた気がする。

 音を聞くのではない。

 音を、聴くのだ。

 琥太郎は踏み出し、帰路を歩み始めた。その意識は生まれては消えていく音に集中する。

 賑わう駅前、改札の音、電車がホームに入ってくる音、走るたびに鳴る電車の音。次々と現れる音たちに、琥太郎の心は驚くばかりであった。

 二時間の帰り道が、少しだけ短く感じた。

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