第10話

 琥太郎と瀬立は再び街に繰り出し、目的地へ向かった。場所は午前中に行った公園から少し離れた、小さな公園である。公園とは言っているものの、遊具という遊具はほとんどなく、子供達が主体的に遊びを生み出す場、という感じだった。

 そこに彼女はいた。

「間違いなさそうだね」

 瀬立は遠目で確認し、琥太郎を公園内に突き飛ばした。

「なっ!?」

 突然の出来事に琥太郎は言葉が出なかった。しかし瀬立は笑みを浮かべて、

「よろしく」

とだけ言った。悪魔の笑みに見えた。

 何をよろしくされたのかもわからず、琥太郎は立ち尽くした。しかし、現在この公園内には彼女と琥太郎ただ一人である。自然と視線がぶつかった。

「ど、どうも...」

 この時、午前に会った女子たちに向けたような笑顔はない。戸惑いで中途半端な笑みを浮かべただけである。

 案の定、彼女は不審そうな顔をした。まずい、このままでは通報されかねない。携帯を握りしめている。

 まどろっこしい。琥太郎にちゃんとした対応なんてできるはずもない。本題だ。

「君、鈴を拾わなかった?」

 すると彼女は持っていたバッグをかばった。間違いない、彼女だ。

「実はね、俺は鈴を失くした人から依頼を受けてそれを探してるんだ。で、君のクラスのお友達、航介こうすけくんいるだろ?彼から聞いて、君が鈴を持ってるって聞いたんだよ」

 すると彼女、吉田朱里よしだあかりは大きな目をさらに大きくしてバッグをぎゅっと抱えた。

 航介から彼女の名が吉田朱里ということを聞いた。加えて彼女は今、学校のプールの夏期講習に進んで出ているのだという。それが終わる時刻はちょうど一時を過ぎた頃で、彼女はすぐに帰らずに公園で休憩してから帰るのだそうだ。家が近所にあるという航介は度々その光景を見かけていたらしい。

 そして現在、その証言通り彼女はプールで濡れた髪をそのままに、数少ない遊具の上で本を読んでいた。航介から写真を見せてもらっていたので顔は把握していた。

 琥太郎の話に朱里は何も言わなかった。ただバッグを自分の後ろに隠すようにして持っているだけである。

 その時、鈴の音がチリン、となった。

 朱里の顔は青ざめた。チャンスと思い、琥太郎は聞いた。

「その...ちょっと見せて貰ってもいい?」

 琥太郎は手を差し出す。しかし、次の瞬間手に訪れたのは鋭い衝撃だった。

 朱里は琥太郎の手を思いきり叩いた。

「違うもん!これわたしのだもん!わたしのところに来たんだもん!だからわたしの!」

 プールバッグを抱える腕の隙間から紐で結ばれた鈴が顔を出した。

 ちりめんの水色の地に和柄、ビー玉くらいのサイズの鈴。東原が言っていた特徴と一致するし、何より瀬立が見せてくれた写真と一致する。紛れもなくその鈴は東原のものだ。

 しかし、どうしたものだろうか。

「い、いや、これは他の人のもので...東原さんっていう人のなんだけど...」

「違うもん!わたしのだもん!わたしが拾ったの!」

「いや、拾ってるってことは前は他の人の持ち物だったってことじゃ...」

 どれほど正論を言おうが、子供には届かないことを琥太郎は知った。朱里は違う違うと言うばかりで、こちらの話を聞こうともしない。ただ強く、バッグを抱えていた。

 琥太郎の脳みそではこれ以上の説得はできようもない。琥太郎はうなだれた。

 そんな琥太郎の肩を誰かが叩いた。

「朱里さん」

 瀬立だった。

 瀬立は琥太郎を朱里から剥がし、遊具の上に座る朱里を下から覗き込むようにして聞いた。

「その鈴、どこで拾いましたか?」

 朱里は一瞬躊躇ったが、小さく答えた。

「...スーパーで拾ったの。お母さんとレジで待ってたら、現れたの」

 瀬立の優しい態度とおそらくその顔によって朱里は少し落ち着いて答える。それに多少の違和感を抱きながらも、琥太郎は話に耳を傾けた。

 現れた、という表現は転がってきた、ということだろう。子供はしばしば不思議な表現を使う。

「そうですか。じゃあ、それを拾ったのはいつのことですか?」

「...えっと...五日前、とかかな?プールの練習がなかった日だったから...」

 まさしく東原が落とした日と一致する。ここまでくればどうやって返してもらうかが問題だ。

 琥太郎がどうやって一撃を放てるかを模索していると、園内に新たに誰かが入ってきた。誰か、というよりは何が、だった。

 自転車が一台、大きなブレーキ音を立てながら公園の砂を削った。自転車を漕いでいたのは東原で、その後ろには子供用の座席にヘルメットを被った男の子が一人、座っていた。

「あの、見つかったって!」

 息を切らし、汗を流しながら言った東原の顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。

 東原が到着し今にも泣き出しそうな朱里に瀬立は優しい声で言った。

「お話を、聞かせてくれませんか」

 朱里は胸の前にバッグ、鈴を抱えて顔を伏せた。濡れた髪から雫が一つ、地面に落ちた。


 夏なんて嫌いなの。

 朱里の口が再び開くと放たれた言葉だった。

「プールがあるから、夏なんて嫌い」

 瀬立は片膝をついて朱里の一番近くでその話を聞いていた。琥太郎はそこから二歩分下がり、自転車を降りた東原と息子の直斗と並んで言葉の先を待った。どうやら先程琥太郎に朱里を任せている間に瀬立が東原たちを呼んでいたらしかった。

「お水怖いし、足はつかないし、みんなにおいていかれるし、全部全部嫌い」

「そっか。それは辛いね」

 瀬立は優しく語りかけた。朱里はわずかに顔をあげ、けれどすぐに伏せてしまった。

「夏休みもパパから補習に行けって言われて...行きたくないのに、毎日行って...その時、出会ったの」

 すると朱里はプールバッグについている鈴をその手のひらに乗せた。それを見る朱里の目は、とても穏やかだった。

「プールの補習が無い日に、お買い物のレジでママと一緒に並んでる時、突然目の前に現れたの」

 琥太郎は横目で東原を見る。その顔は納得しているようだった。瀬立の読み通り、やはり会計時に落としていたようである。

「その時思ったの。これは、『みくるん』がくれた、『リンベル』なんだって!」

 それまで頷いて聞いていた琥太郎だったが、急に不思議な単語が出てきて朱里を二度見した。しかし朱里本人は特に気にすることもなく、むしろ目を輝かせながら瀬立に語っている。

 なんだ、『みくるん』と『リンベル』とは。いきなり話がファンシーになった。それとも急にドイツの話になったのか。

 困惑する琥太郎の様子を察したのか、東原が横から小声で教えてくれた。

「日曜の朝にやってるアニメに出てくるんです。『みくるん』が主人公たちを導くマスコットみたいなもので、『リンベル』は変身道具です」

「なおとも好き!」

「そうなんですか...」

 この場所に東原がいてくれてよかったと思った。もしいなかったら置いてけぼりにされて、鈴の奪還云々ではなくなる。

 しかしその『みくるん』と『リンベル』がどうしてここで出て来るのだろうか。琥太郎は朱里の話に意識を戻した。

「この『リンベル』があれば、願いを叶えてもらえるの!だからわたし、水泳が上手になりますようにってお願いしたの!そしたらね、少しだけ泳げるようになったの!」

 瀬立はなおも優しく朱里に頷いて話を聞いている。

 しかし琥太郎は朱里の話を聞いてむしろ疑問が湧いただけだった。琥太郎は横の東原にこっそり聞いた。

「あの...『リンベル』とはどういったものなんですか?変身道具じゃないんですか?」

「変身道具でもあるんですけど、一つだけ願いごとを叶えてくれるんです。主人公たちは『リンベル』にみんなを助けたいってお願いしたので、変身したんですよ」

 なるほど、そういうことだったのか。しかし、一番の疑問が消えない。

「でもどうして、『リンベル』があの鈴と繋がるんですか」

 すると東原は少し寂しそうな顔をして言った。

「『リンベル』って、鈴の形をしてるんですよ。しかもお花の模様もあって...言われてみれば、あの鈴と似てるかもしれませんね」

 『リンベル』という名前も、鈴の音が鳴る音と鈴の英語を組み合わせたものだという。朱里はその『リンベル』と東原の鈴を同一視して持って行ってしまった、ということらしい。

 琥太郎が納得している一方、東原はとても複雑そうな顔をしていた。その表情の奥にある感情を琥太郎は汲み取ることができなかった。

「だからこの鈴は鈴じゃないの。『リンベル』なの!『みくるん』がくれた、『リンベル』なんだから!」

 すると朱里はとうとう泣き出してしまった。朱里の手から離れた鈴が、チリンと音を立てて揺れた。

 瀬立はハンカチを差し出しながら説得を試みる。

「朱里さん。でも、それはあそこにいらっしゃる東原さんが探しているものなんです」

 すると朱里はびくっと肩を揺らした。良心が彼女を紛れもなく追い詰めていた。おそらく瀬立はそれをわかってやっているのだろう。

「東原さんは、ずっとこの鈴を探していたんです。落としたことに気づいた時から今日まで、ずっとずっと。それくらいその鈴は東原さんの大事なものなんですよ。だから...」

 瀬立が言いかけた時、東原がそれを止めた。

「あの、もう大丈夫です。だからもうやめてください。その子、すごく泣いてるから」

 東原が朱里の元へ近づく。直斗はそのあとを追った。東原は落ち着いた声で朱里に語りかける。

「ごめんね?その鈴、あなたにあげる。大事にしてね」

 朱里の手を優しく握った東原だったが、その声は少し震えていた。顔もどこか悲しげな表情をしていて、到底そんなことを思っているようには見えない。

 朱里から離れた東原は瀬立に向かった。

「ごめんなさい、こんな結果にしてしまって。代金はお支払いします。でも良かったです。こんないい子に拾ってもらっていて安心しました」

「本当に、それでいいんですか」

「え...」

 瀬立は東原から目を逸らすと、朱里の方へ目をやった。琥太郎も同様に目をやる。

 しかし、瀬立が目をやった先は朱里ではなかった。朱里の目の前に立つ、直斗である。

 直斗は鈴を抱える朱里を丸い目でじっと見つめていた。そして鈴を指差すと、

「ママの」

と言った。

 東原は慌てて直斗の方に駆け寄る。

「違うの直斗。それはもう、ママがこの子にあげたの」

 しかし直斗は折れることなく指で示し続けた。

「ちがうよ、あれママのだもん」

「だから...」

 東原が泣きそうな顔で直斗の手を取った時、直斗が言った。

「だってあれ、ママの音だもん」

 すると東原が息を呑んだ。そしてみるみるうちに顔を悲壮に染めた。

「そういうことですよ、東原さん」

 瀬立が再び朱里の元へ近づく。そしてその鈴を愛しげに見ながら言った。

「この鈴は、もうあなたの音なんですよ。だよね、直斗くん?」

 人当たりのいい笑顔で直斗に問いかける。すると直斗が弾けるような笑顔で言った。

「うん!この鈴が聞こえるとね、ママがいるってわかるの!お買い物の時もね、迷子になっちゃいそうになった時でもこの鈴の音がする方に行くと、ママいるの!」

 言うと直斗は自慢げに胸を張った。

 ママの音。

 そこまで言わせれば、もはや答えは明快だ。琥太郎や瀬立だけではなく、朱里でさえ同じことを思っていた。

 東原はしばらく泣きそうな顔で固まっていたがようやく動き出すと、朱里の前でしゃがんだ。

「...ごめんね、やっぱりその鈴、返してもらえないかしら。大事な...大事なものなの」

 朱里は切なそうな顔をしたが、もはや抵抗はしなかった。彼女自身もそうするべきだと、心のどこかではずっと考えていたのだろう。ぐすり、という音を最後に抱えたプールバッグに括った鈴を解いた。

 小さな手に乗せた鈴をじっと見た後、東原に差し出した。

「...持っていっちゃってごめんなさい」

 俯いたまま朱里は言った。そんな朱里に東原は首を横に振る。

「ううん。あなたが拾ってくれたから、こうして戻ってきたの。ありがとね」

 東原は優しく言うと、朱里の頭を撫でた。その仕草を真似するように、直斗が朱里の頭を撫でようとしたが、身長が足りなくて空を撫でた。

 そんな直斗にも朱里は謝罪した。

「ごめんね、ママの音をとっちゃって」

 朱里の顔は悲しみに歪んでいた。しかし直斗は笑顔だった。

「これママのすず!見つけてくれてありがと!」

 直斗の無邪気に、朱里の眼は再び涙に濡れた。

 じいじいと蝉の声が公園に染み渡っている。暑い景色の中に、持ち主の手に戻った鈴は涼しい音色を奏でた。

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