第9話
腹を満たし一息ついた後、琥太郎は瀬立に聞いた。長い沈黙はまだ許せる中ではない。
「瀬立って何歳?若そうだけど」
実際気になってはいた。見た目はとても若いし、その上美しい顔をしている。しかしどことなく人生経験が豊富そうなので、いまいち年齢がわからない。
「二十五だよ。今年で二十六」
「へー、てことは俺と十も違うのか。...てかそれで本当にタメ口でいいの?」
多少なりとも琥太郎にも遠慮というものがある。しかし瀬立は首を横に振った。
「大丈夫。むしろ敬語は慣れないんだよね。アメリカ暮らしが長かったものだから」
「そうなのか」
瀬立は席を立ち、キッチンへ向かった。そしてティーポットを持って帰ってきた。茶でも飲みながら話をしようということらしい。
瀬立は紅茶を淹れながら話す。
「両親の仕事とかもあったたりしてね。高校二年生から大学卒業まで向こうに」
「へー。じゃあ、日本に帰ってきてからは何してたんだ?」
今年で二十六歳ということは、大学を卒業してから少し時間が空いている。
「親の会社を手伝ってたんだよ。ここを始めるための資金集めも兼ねてね」
琥太郎はなんとなくその会社がとても大きな会社ということを察した。でなければ、資金集めの息子を会社には入れないだろう。
瀬立は琥太郎の前に紅茶の入ったティーカップを差し出した。香りが鼻をくすぐる。頂こうとしたが、しかし湯気が出ていた。
すると瀬立がくすりと笑った。
「熱いのは苦手?」
「...悪いか」
「いいや。むしろイメージ通りかな」
「は?」
琥太郎は顔を顰めた。しかし瀬立は笑ったまま言う。
「なんか猫みたいだから、琥太郎は。見かけたときは子猫が落ちてるかと思ったよ」
「誰が子猫だ。俺は別に好きであそこで項垂れてたわけじゃない」
れっきとした理由があるのだ。解雇という到底貴様には理解できないような事実に項垂れていたのである。
「他に何か聞いておきたいことは?」
瀬立が優しく言ったもので、琥太郎は思案してみる。しかし、いざ問われてみると浮かばないのが人間である。腕を組んで考えてみたが、これといって浮かばなかった。
「じゃあ、俺が琥太郎に質問してもいい?」
琥太郎はああ、と返事をする。どんとこいだ。
すると瀬立は柔らかい笑みを少しだけ崩し、聞いた。
「じゃあ...」
涼やかな声が少しだけ重く聞こえた。かちゃり、と音をたてて瀬立がカップを置く。
「琥太郎の『音の記憶』を聞かせて?」
琥太郎は言葉を失った。
瀬立の言う音の話についてはすでに認知している。しかし、まさかそれが自分がその対象に選ばれるとは思っていなかった。
琥太郎は手のひらを瀬立の方に向けて拒否の姿勢をとった。
「い、いや、俺にはそういうの無いから」
そういうある種芸術みたいな話が自分にあるとは思わない。しかし瀬立は身を引かずむしろ前のめりになって言った。
「難しく考えなくていいよ。自分の人生の中で、印象的な音を聞かせてくれればいいからさ」
瀬立は身を乗り出し、琥太郎の顔をじっと見て言った。
「琥太郎の、記憶の音はどんな音?」
瀬立に詰め寄られ、琥太郎はついに拒否することができなかった。
琥太郎は考えた。人生の中で印象的な音、と言われたので自然、その荒んだ人生を回想する。
冷たい飯、湿った空気。思い出すだけで顔が苦痛に歪む。
そして一つ、たどり着いた。
「...割れる音」
「割れる?」
琥太郎は閉じた瞼の裏に焼きついた映像を再生する。その度に風化することのない音が一つだけ存在していた。
「皿が割れる音。俺の人生の音は」
自分で自分を抱くように琥太郎は腕をさすった。
「...母親がよく、投げてたんだよ。うまくいかないことがあったりすると、意味もなく皿を投げて、それがあちこちで割れてた。だから、今も皿が割れる音は好きじゃない。聞くたびに...思い出すから」
少し前、自宅で皿を割ってしまった。その時、無意識のうちに指先が震えていた。頭の中ではあの頃の映像が流れ、耳の中ではもうとっくに皿は粉々になっているというのに、その音が鳴り続けて鼓膜を刺激した。自分以外の人間は家にいないのに、とても落ち着かなくて怖くてしょうがなかった。
皿が割れる音は思い出させるのだ。あの時の空気や感情を。思い出すたびに、時間をあの場所まで引き戻す。
「そんな感じかな、俺の音の話は」
正直、早くこの話を終わらせたかった。話をしているだけで寒気がする。冷房の冷たさではない、不快で体の芯に入り込んで心まで冷たくしてしまうような悪寒である。
琥太郎の話を聞いて瀬立はしばらく黙っていた。それはそうだ、こんな話をされれば人は言葉を失う。というか迷う。詳しく語った訳ではないが、普通の家庭ではないことは十分伝わっただろう。となれば、かける言葉を考えるはずだ。『大変だったね』とか、『可哀想だ』とか、言葉は色々あるのだろう。しかし琥太郎にとってはどれも余計なお世話でしかない。他人事だから声を掛けられるのだ。どんな言葉にしても、当事者ではないからこそ言えるのである。
結局他人事だ。何もかも。
「琥太郎」
瀬立が呼んだ。冷めた目で琥太郎はその顔を見た。
その表情に、ひどく驚いた。というより、困惑した。
「ありがとう!俺はね、そういう話を待ってたんだよ!」
笑顔だ。心からの笑顔。繕いが一切ない、純粋すぎるほどの笑顔。
なんだこいつは。
そう思った時には琥太郎はすでに瀬立の腕の中で捕縛されていた。否、世間的にはハグというやつである。
「すごいや、やっぱり俺の見る目は間違ってなかった!優秀な助手を持てて光栄だよ!」
「ちょ、離せよ!なんだいきなり!」
そういえばこいつ、海外で暮らしていたと言っていた。この捕縛もその影響か。
琥太郎はジタバタと暴れ、なんとか腕の隙間を抜けると、ソファから立ち上がり瀬立と距離をとる。当の本人は不思議そうな顔をした。
「なんなんだよいきなり!」
「何って...ありがとう、っていう意思表現だよ」
「言葉で言え!」
ここは日本だ。そして相手は恵まれない家庭環境の中育った中卒のニート寸前だった人間だ。少しくらい気を使え。海外の感情表現にも人の体温にも慣れていない琥太郎にとっては心臓に悪いのだ。もし自分が瀬立の言うように猫だったら思いっきり顔を引っ掻いてやるところである。
しかし当の瀬立は落ち着いて紅茶をすすっている。その様にも腹が立った。くそ、人がこんなにも追い詰められているのに優雅にしやがって。
「でも本当に、ここまで理想的な話を琥太郎が持っているとは思わなかったな」
心底嬉しそうな顔をした瀬立に、琥太郎は警戒しながら聞いた。
「何がそんなにいいんだよ、こんな話」
むしろあまりいい話とはいえないだろう。というか、いってもらっては困る。こんな人生を肯定してもらっては困るのだ。
完璧に落ち着きを取り戻した瀬立はいつも通りの涼やかな声で語る。
「音と記憶が関係しているところかな。音を聞くことによってある物事を思い出したり、情景が浮かんだり。そういう話を聞くためにここをオープンしたようなものだから、つい嬉しくてね」
ごめん、と小さく瀬立は謝罪した。琥太郎は警戒を解き、ソファに腰を下ろす。
「話を聞くためって、あんたそんなことのためにわざわざ何でも屋なんてやるのかよ」
いいご身分だな、とは流石に言わなかった。おそらく瀬立は許してくれるだろうが、人として踏みとどまっておくべきラインは守るべきだ。
「そんなこと、でもないからね」
瀬立は琥太郎が聞き逃しそうなくらいの声で呟いた。聞き返そうとしたが、それは瀬立の言葉によって掻き消される。
「まあ、俺みたいなのが世界に一人くらいはいてもいいでしょう?」
「はあ...ま、そうだな」
琥太郎はすぐに納得した。というより、もう考えるのが面倒くさくなったのである。難しいことや複雑なことを考えるのは好きでも得意でもない。少なくとも琥太郎にとっては、この男がいたおかげでニートにならずに済んだのだ。むしろその存在に感謝すべきであろう。結論はいたってシンプルだ。
琥太郎はテーブルの上に乗ったティーカップに触れる。すでに熱さはなく、口に含んでも問題はなかった。
「お茶を飲んだら行こうか。そろそろ頃合いだろうから」
瀬立が目線をやった先には針のみで構成されているような時計があった。時刻はすでに、十三時である。
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