第7話
翌日、琥太郎は二時間の満員電車を経て事務所へ向かった。いつもなら空いている時間に乗れていたので気づかなかったが、満員電車とは恐ろしいものである。立っているのもやっとだった。願わくば二度と乗りたくないと思った。
すっかり疲弊した体でたどり着いた事務所は、昨日と何も変わらない。
「おはよう琥太郎。昨日は眠れた?」
琥太郎とは反対に、しかしまあ彼にとってみればいつも通りだが、瀬立は爽やかな笑顔で琥太郎を出迎えた。
「久しぶりに日を跨がずに寝た」
「そう。それは良かった」
瀬立は嬉しそうに言った。
昨夜、近所のスーパーで夕食を買って家に帰ってもまだ午後の七時だった。それから夕食、風呂の時間をいつもより長めにとってみても大した時間にはならなかった。
そこで琥太郎は壁にぶち当たった。
やることがない。
自慢ではないが、琥太郎は趣味という趣味がない。その上時間を潰せるテレビや本といった道具は家にはなかった。
だから眠るしかなかった。何もなくとも眠ることだけはできる。ひたすら寝て、寝て、寝た。そして万全の状態で本日、ここまで来たというわけである。結局は満員電車によってそのエネルギーは一気に吸い尽くされたのだが。
「そうだったんだ。じゃあ、本の一冊や二冊、持たせてあげればよかったね」
一通り昨日のことを聞かせると瀬立が言った。琥太郎はやんわりと断った。本を読むのは得意じゃない。
瀬立は苦笑しながらダイニングテーブルに麦茶が入った二つのグラスを置く。
「どうぞ」
「どうも」
今日もとても暑い。また最高気温を更新するだろうという予報だ。駅からここまでくる間にも琥太郎は汗をかいていた。
グラスを一気に飲み干す。体が内側から直接冷やされて行くのが気持ちいい。不思議と気分も落ち着く気がした。
瀬立もグラスを傾けながら琥太郎に聞いた。
「琥太郎、連絡先貰える?何かとやりとりできると便利だし。書類の方にも連絡先書いてなかったし、聞きそびれたなって昨日の夜思ってさ」
「俺連絡先ないです」
「え?」
琥太郎は麦茶を飲み干し、真面目な顔で言った。
琥太郎の家に娯楽はないことはすでに申した。暇を潰すためのテレビはもちろん、本すらもない。そしてそれは、携帯電話にも当てはまる。
困りはしなかった。電話をかける相手もいなかったし、かけてくる相手もいなかったので何の問題はない。必要としていなかったので持たなかった。余計な金もかかるだけだとすら思っていた。
いたって真面目な顔をして話す琥太郎を前に、瀬立は静かに驚いた顔をしていたが、琥太郎の話が終わると少し考えてから二階へ向かった。
そしてすぐに戻ってくると琥太郎の前に一台のスマートフォンを差し出した。
「とりあえずこれ使って。サブの携帯だから、俺の連絡先しか入ってないしちょうどいいや」
琥太郎は差し出された携帯と瀬立の顔を何度か往復した。瀬立は変わらずにこりと笑い、わざわざ琥太郎の手をとってその手に携帯を置いた。
四角い箱が琥太郎の手の中にあった。
「ど」
「ど?」
「どうやって使うんだ、これ」
琥太郎は今まで携帯に触れたことがない。もちろん見たことはある。会社の人が持っていた。けれどわざわざ触るなんてことをするわけもない。人の携帯を触るなんてどれほど親しくても不快に思われる。それが親しくないのならば、トラブルの原因にもなるだろう。世間一般には十五歳ともなると携帯の一つや二つ使いこなして見せるのだろうが、琥太郎には『世間一般』なんて言葉は通用しないのだ。電源すらどうやってつけるのかわからなかった。
「そっか。じゃあ、とりあえず今は電話だけ覚えておこうか」
瀬立は頷き、携帯の操作をわかりやすく教えてくれた。琥太郎十五歳、携帯デビューの瞬間である。
通話の手順のみを覚え、琥太郎は聞いた。
「携帯二台持ちってすごいなあんた。それとも、二台持ちって普通?」
琥太郎にとっては一台持ってるだけでも落ち着かないのに、二台も持つなんて何の意味があるのかわからない。持て余すだけな気がする。
「人によるんじゃないかな。仕事用とかゲーム用、とかで分けたりする人もいるだろうし」
そういうものなのか。贅沢なものである。
「よし。携帯の操作も覚えたことだし、早速行こうか」
仕事が始まるようだ。琥太郎は勢いよく頷いた。
そして数十分後、琥太郎はピンチに陥っている。
炎天下の公園、砂場。背中の上にはたくさんの小学生たち。顔から何やら砂まみれで、金色の髪は園児に引っ張られている。
「おい兄ちゃん!まだ終わってねえぞ、ちゃんと怪獣やれって!」
「琥太郎お兄ちゃん今度はこっち!私たちとおままごと!」
「ま、待てって...って痛たたた!」
どうしてこうなった。考えては体に衝撃が走り、その思考を妨害された。
ただ一言、
「助けてくれ...!」
呟くしかできなかった。
時を遡り事務所から出た後、琥太郎達が向かったのは表通りである。
「よし、じゃあお仕事始めよう」
「おう。何すんだ」
「聞き込み」
それっぽい、とか思うほどの余裕があった。むしろ初めての仕事に少しワクワクしながら聞いていた。
瀬立は右手で琥太郎の後ろの方を指差す。
「この先の公園あるでしょ?そこにいる人に聞いて欲しいんだよね」
「いる人って...誰?」
「子ども」
「は?」
瀬立は当たり前そうな顔をして答えた。そして琥太郎の肩に手を置く。
「子ども達に、『最近鈴を拾いませんでしたか?』って聞いて欲しいんだよ。子ども達は今、夏休み中だからたくさんいると思うし」
そうかそうか。鈴の持ち主はおそらく子どもだから子どもに聞き込みか。なるほどな、とは思っても素直に受け入れられないのが琥太郎である。
琥太郎はぎょっとして瀬立に食ってかかった。
「ちょ、ちょっと待てよ!俺子どもは得意じゃないって!」
冗談じゃない。子どもという存在は苦手極まりない。弟や妹がいたわけではない琥太郎にとっては、子どもの扱いなんてどうすればいいかわからないのだ。何を考えているかわからないし、泣かれたりなんかしたらたまったもんじゃない。
しかし瀬立はわざとらしそうに困った顔をして続ける。
「ええ?でも俺は東原さんのところに行って確認したいことがあるから。大丈夫、後で合流するから」
「だったら俺が行く!だからあんたが子どもに聞け」
「いやいや、ここは責任者が行かないと」
「くっ...」
それはそうだ。ただ傍らで話を聞いていた琥太郎よりも代表の瀬立が行くのが当たり前に決まっている。というか琥太郎のこと自体東原が覚えているかどうかすらわからない。そんな琥太郎がいきなり自宅に行って何ができるというのだ。
如何しようも無い。不愉快だったが事実だった。
「...わかったよ。やれるだけやる。でもなるべく早く終わらせろよ!」
これがすべての間違いだった。引きずられてでも瀬立についていくべきだったのである。
「じゃあ頼むよ」
瀬立とは別れ、琥太郎は目的の公園を目指した。
公園へはまっすぐ歩いただけでたどり着けた。土地勘がない琥太郎からしてみればありがたいとしか言いようがない。
公園内ではすでに子ども達が大いに遊んでいた。どうして子どもはこの炎天下の中で走り回ることができるのだろう。体の中に冷却装置でも入っているのだろうか。琥太郎は汗ばむ肌の不快さに顔をしかめながらそんなことを考えた。
飛び出しを防ぐための柵の間を縫って園内に入る。しかし、入ってはみたもののどうやって聞き込めばいいのだろうか。いきなり子どもに近づいて『鈴拾った?』なんて聞けば、明日には地域の妖怪みたいな存在になってだろう。それならまだしも、普通に周りの人たちに不審者として通報されないだろうか。
うんうん唸りながら中身の少ない頭をフル稼働させていると、下の方から声がした。
「砂場使ってもいいですか?」
小さな女の子の声だった。ぎょっとして声のした方を見てみると、小学校低学年くらいの女の子が三人、琥太郎のことを見ていた。
何故に砂場の使用許可を俺に求めるんだと思ったとき、ふと自分がいた場所に気づいた。この公園は入口から一番近い場所に砂場があり、入って動き出すことなく考えに耽っていた琥太郎は砂場の目の前で止まっていたのである。
「あ、ああ、いいよもちろん...」
そこでハッと気づいた。
これはチャンスだ。ここで彼女達にさりげなく鈴のことを聞くきっかけになる。
琥太郎は少女達に向き直り、しゃがみこんで目線を彼女達に合わせる。少女達は一歩後ずさった。
まずい。不審がられている。警戒を解かなければならない。しかし、琥太郎は人の心を掴む技術の知識などは持ち合わせていない。
なので万人にできる手段で対抗した。
口角を上げ、笑顔をつくってなるべく優しい声音で話す。
「あのさ、お兄ちゃんとも一緒に遊んでくれない?...なんて」
少女達は一瞬ぽかんとした顔を浮かべたがすぐに笑顔をその顔いっぱいに溢れさせた。
「いいよ!」
いつか街中で聞いた曲の中に世界の共通言語は笑顔だ、みたいなことを歌っていた曲があった。あの時はそうか、くらいにしか思っていなかったが、なるほどそれは意外と的を射ている。少女たちのおままごとに参加しながら琥太郎はそう思った。
「お兄ちゃんお名前は?」
二つに髪を結った子どもが聞いた。水色のワンピースが印象的だった。
「琥太郎」
「こたろう?」
「そう。琥太郎」
少女達は琥太郎に砂で作ったカップケーキをくれた。本物の前に砂のカップケーキを味わうとは思わなかったが、ありがたく受け取った。
しかしそんなことはどうでもいいのだ。さっさと本題に入ろうとする。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど...」
しかしそれは遮られた。
後ろからドスンという衝撃に襲われたのである。衝撃に耐えられず琥太郎はそのままカップケーキに顔を埋めた。
「うわあすいません!おい、どこに投げてんだよ!」
背中にずっしりと重いものを感じる。ちょうど子ども一人分だ。
「兄ちゃん大丈夫か?」
重みはそのまま琥太郎を心配した。
「...大丈夫。だからどいてくれ」
「ああ、悪い悪い...って、ぶふっ」
背中から降りた坊主頭の子どもが起き上がった琥太郎の顔を見るなり吹き出した。
「に、兄ちゃん...顔...くくっ」
「あ?顔...?」
顔を触ってみると、ざらついている。触ると砂がぱらぱらと落ちた。なるほど、砂のついた顔が面白いのか。気づけば坊主頭だけではなく、一緒に遊んでいたであろう取り巻き達まで一緒になって笑っていた。
ふつふつと、感情がこみ上げてきた。
わかっている。それくらいのことは笑って付き合ってやるのが年上の役目だ。間違っても反撃しようなんて考えてはいけない。大丈夫、指をさされてげらげらと笑われても、そのまま流してやれる。そう、だって俺はもう大人だ。
理屈を一通り並べたところで琥太郎はそれを端から壊した。
「おい!何笑ってんだ!」
「うわ、やべ!みんな逃げろー!」
しかし砂に足を取られ上手くスタートを切ることができず、もう一度砂に顔面を埋めた。
しん、と静寂が訪れたあと、騒がしい声が聞こえた。
「いまだ!みんなかかれー!」
「うおおお!」
「ちょっと!お兄ちゃんは私たちと遊んでたの!」
小学生達に揉みくちゃにされ、騒動が騒動を呼び、小学生やら園児やらが琥太郎を遊具だと勘違いし砂場に集結し、現在に至る。
助けてください。なんでもいいので助けてください。お願いします。
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