第6話

 東原が落とした鈴は子どもの手によって移動させられた。だから、あのスーパーには存在しない。

 瀬立によって導き出された結論はこうだった。

 しかし。

「子どもを探すって言っても、難しいんじゃねえの」

 静かな事務所の中に入り琥太郎は聞いた。瀬立は買ってきたものをしまいながら答えた。

「難しいだろうねえ。おそらくこの街に住んでる子だろうけど、それにしてもいっぱいいるから」

 確かに先ほど店の前から見かけた景色を見ても、この街の子どもの数は多いようだ。駅前も確かに家族連れで賑わう光景を何度か見たことがある。これは思った以上に骨が折れそうだ。

「それはともかく」

 瀬立は冷蔵庫を閉めて琥太郎の方に歩み寄った。そしてそのまま琥太郎の左肩に手を置く。

「今日はもう帰りなさい」

「え?」

 突然の発言に最初は理解ができなかった。しかし瀬立は頷いて見せた。

「今から帰れば、家に着く頃にはちょうど夕食の時間だね」

「何言ってんだあんた」

 まだ十六時だ。どんなホワイト企業であっても終業時刻ではない。帰宅するには早すぎる。

 しかし瀬立は首を振った。

「二時間かかるんでしょ?だったら、今日はもう帰っていいよ。キリもいいしね」

「いや、大丈夫だって。俺別に気にしないし」

 家に着く時間が何時になったところで気にしない。以前の職場では七時に終わって、買い出しをしてからだと家に着くのは十時過ぎだった。けれど別に気にしたことはない。体質的に短い睡眠時間でも十分動けたからだ。

 しかし瀬立は食い下がることなく続けた。

「俺が気にするから。それに、琥太郎はまだ十五歳なんでしょ?さっさと帰ってご飯食べてお風呂はいって寝なさい」

「母親みたいなこと言うのな、あんた」

 鼻で笑いながら言った。しかし瀬立はいたって真面目な顔をして答えた。

「誰だってこう言うよ。大人ならね」

 涼やかな声に芯が感じられた。それに少しだけ怯む。

 ため息をつき、なんとかそれを呑み込んだ。上司の命令だ、背く訳にはいかないだろう。

「わかったよ、今日は帰る。明日は何時に来ればいい」

「十時には動こうと思うよ」

「わかった」

 それだけ言って琥太郎は事務所を出た。瀬立はわざわざ玄関まで琥太郎を見送った。


 鳴き止むことのない蝉の声を聞きながら、琥太郎は瀬立の言葉を反芻していた。

『誰だってこう言うよ。大人ならね』

 十五歳、さっさと帰って飯食って、風呂入って寝る。

 反芻しながら、心の中で笑った。

 誰だって。

 そうやって大人に守られて。

 それは当たり前で。

(そうでもねえよ、世の中)

 少なくとも、琥太郎はそうではなかった。


 物心ついた時には家の中は惨い有様だった。

 響き渡る母の罵声と怒号。いつも何かに怒っていて、その鬱憤を晴らすために感情を爆発させていた。ものが壊れる音がした後は、決まって静かな部屋の中に泣き声が染みるだけだった。

 割れた皿の破片の隙間を歩いていると、母に言われた。

『なんで生まれてきたのよ』

『あんたが生まれてこなければ全部上手くいってたのに』

 幼心にとても傷ついた。けれど同時に、ひどく母を哀れんだのを覚えている。

 母は十六の時に琥太郎を産んだ。相手は四つ上の男で、すでに社会人だった。琥太郎が産まれたあと二人は結婚し、しばらくは幸せな日々を歩んだ。

 しかし、幸せな結婚生活は急に終わりを告げた。琥太郎の父が母に愛想を尽かして家を飛び出したのである。理由は母の生来のだらしない性格が理由だった。琥太郎が二歳の時の話である。

 それ以降、母は見事に荒んだ。結婚と出産の形から親にも頼ることができず、手元には金もなかった。夫の収入だけが頼りだったのに、それすらも無くなってしまったのだ。

 残ったのは、琥太郎だけだった。

 それでも母はよくやった方だと思う。なんとか生きていこうとして夜の仕事を始めた。しかし、そのうちにだんだんと母は壊れ、琥太郎への当たりは強くなった。

 耳にナイフを当てるような皿が割れる冷たい音が一週間のうちに何度も聞くようになった。その度に琥太郎は泣きそうになったが、それ以上に母が泣いていたので泣くに泣けなかった。

 そんな毎日の中に、恵まれた飯も風呂も寝床もあったものではない。冷たい飯と風呂と寝床の床。何も与えられなかった。

 それでも恵まれていたのは、養育費が支払われていることだった。どうも会社の方では評価されていたらしく、滞ることはなかった。加えて琥太郎の父は時折家にやってきては掃除やらをして帰った。

 ある日、琥太郎は聞いた。

『パパはボクのこと嫌いなの?嫌いだから置いていったの?』

『ううん。そんなことないよ、琥太郎のことは大好きだよ』

 琥太郎のことは。

 つまり、母のことは。

 その先へ聞けなかった。

『ねえパパ』

『なに?』

『ボク、パパがいい』

 荒んだ母と一緒にいることが辛くて、空腹も皿が割れる音も怖くて、解放されたかった。父親は優しかった。それに、金には苦労していない様子だった。

 無邪気だったと思う。だから余計に、父を困らせた。

『ごめんな』

 そう呟いた父に、すでに新しいパートナーがいたと知ったのは随分経ってからだった。

 養育費を頼りに生活し、なんとか生きた。父の支えもあって小学校にも通った。母のいない世界はむしろとても居心地が良くて、朝から夕方までなるべく長く滞在するようにした。色々苦労することはあったけれど、それでもなんとか耐えることができた。だって、家にいるよりかはずっと楽だったから。

 別に家のことは変わらない。変わったとすれば、琥太郎が母に対してなんの興味も持たなくなったことくらいだ。皿が割れる音は未だに慣れないけれど、彼女がなんと言おうと叫ぼうと、自分には関係ないと思うことができた。高校を卒業したら家を出て行くのだ。どうせこの人の金で育っているわけではない。そう考えれば、身内だとしても簡単に興味は失えた。

 小学校の高学年になったあたりから父が家にくる回数は減った。琥太郎が成長したことで片付けくらいはできるようになったからだ。自立し始めていた。それを見たからか、中学生になってからは一度も家に来たことはない。

 そんな父と最後に会ったのは、中二の頃だった。

 父の家の近所の喫茶店、雨が降る日だった。

『どうだ、最近』

『...別に』

 変わりはない。朝早く起きて、新聞配達をして、それから学校に行く。最終下校時刻まで居座って、それから帰った。家には誰もいない。母はすでに仕事に出かけている。一人で飯を食べて、気持ち程度の風呂に入って寝た。そしてまた起きて、同じ一日を繰り返すばかりだ。

『あのな、父さん実は...』

『結婚でもするの』

 窓に伝う雨粒を追いながら琥太郎は言った。なんとなく、そんな気がしたのだ。どことなく顔が幸せそうで、そう思ったのだ。

 驚いた顔をした父は、それでも嬉しそうに笑った。

『幸せになりなよ。おめでとう』

 しっかり二人は離婚しているのだから、別に結婚は自由だ。それぞれがそれぞれに幸せを追求すればいい。琥太郎もそう思っていた。

 しかし、話はそこで終わらなかった。

『実は、子どもが産まれるんだ』

 授かり婚だったらしい。来年には産まれるんだ、とまたも嬉しそうに言っていた。

 素直に祝ってやることが正しかったのだと思う。けれど、当時の自分にそんな余裕はなかった。どす黒い感情が渦巻いて、間違っても祝うなんてことはできなかった。

 ああ、またか。

 俺の時みたいに、またか、と。俺の前例があるのに、それでもこいつはまた。そう思ってしまった。

『あのさ』

『ん?』

 そのときの雨音は、やけに強く聞こえた。

『もう会うのはやめにしよう。俺みたいなの、奥さんにも子どもにも迷惑なだけだから』

 その時なぜか、頭の中で皿が割れる音がした。

『家族を大事にね』

 頼んだクリームソーダも待てずに、店を出た。

 思えば、母だけがおかしかったのではない。十六の娘と子どもをつくる社会人というのもおかしな話だ。その上、二度目の結婚も同じような形だ。

 十分狂気だ。

 そして互いに、歪んでいる。

 そしてついに、父だった人とは会わなくなった。会うのをやめにしようと言われてそのまま本当に会いに来なくなるのだから、あの男にしても琥太郎という存在はその程度のものだったのだろう。

 長い一年が過ぎ、就職した。そこでようやく母との縁も切れ、琥太郎は一人になった。しかし寂しくはなかった。むしろ活き活きとして、ようやく世界が明るく見え始めた。


 最寄りの駅に着き、電車を降りた。外は青を徐々に濃くして夜を連れてきている。

 怒涛の一日で疲れた。深く呼吸をする。夏の湿った空気が体に入って、身体中が潤う気分だった。

 腹が減った。体も疲れている。今日は熱い風呂に入って寝よう。

 琥太郎は一人になってようやく、それを叶えられるようになったのだ。大人がいなくなってようやく、当たり前を手に入れることができた。

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