第5話
事務所から一歩外へ踏み出すと、うだるような暑さが体を襲った。まだ午後の三時だ、日が沈むまでは長い。とはいえ、昨今の夏は日が沈んだとしても暑いのに変わりはない。着々と温暖化が進んでいる証拠だろう。
Tシャツ一枚で汗をかく琥太郎の横でジャケットを着た瀬立は涼やかな顔で眩しそうに太陽を見上げていた。こいつには暑さを感じる器官がないのか。
「あの、スーパーってどこにあるんすか」
「ん?ああ、ここから十分くらい歩いたところにあるよ。結構大きなところなんだけど、知らない?」
琥太郎は首を振る。
「前の職場はこの街ですけど、よく知らないんですよ。寄り道できるような時間もなかったし」
往復四時間の通勤時間が無駄な寄り道を許してくれなかった。大きなスーパーがあったところで、わざわざここで買い物をしなくとも自宅近くで用は済ませられる。そんな生活を続けていたためにこの街で知っているのは駅から以前の職場までの道のりだけだ。
瀬立はそう、と言って歩き出した。琥太郎もそれを追いかける。路地裏を抜けて表通りへ向かうようだった。
道中瀬立は町を案内しながら歩いた。あそこは本屋だとか、ここの先にある飯屋はもう四十年も続いているとか、他愛もない話題だった。しかし、そういう話題ばかりで琥太郎は興味が湧かなかった。本は読まないし外出もしない、琥太郎は趣味といえるものがないことを実感する。ただ一つ、気になったことといえば駅の反対側には業務スーパーがあるという話だけだ。
そんな話を一方的にされながら歩くこと十分、目的地が目の前に現れた。
「ほら、着いたよ」
瀬立が指した先にそのスーパーがあった。
そして琥太郎は絶句した。
「こ、これは...」
人生と社会に不平不満を募らせながら過ごしている琥太郎だが、こう見えても日々を小さな夢を持って過ごしている。週末には安売りしていたプリンを食べようとか、数年後にはあの街に行ってみようとか、叶えられる範囲で夢を見ていた。
そしてその中に一つ、それがあったのである。
海外から輸入した食品や高品質な品物が並ぶ、高級スーパー。その店は、庶民の味方を冠する激安スーパーと業務スーパーを愛する琥太郎にとっては高嶺の花であった。と同時に、いつか行けたらと夢を見る場所だったのである。
それが今、目の前にある。
「琥太郎?」
瀬立が固まる琥太郎を不審そうに見た。なんでもない、と言いたかったが、しかし琥太郎は反応ができなかった。当然だ、今まで都市伝説だと思っていたものが実際に目の前にあるのだから。
幸せを噛み締めた琥太郎の口から声が溢れた。
「くっ...まさかこんなところでお目にかかるなんて...」
「お目に...?誰かいるの?」
瀬立が人を見渡した。けれど彼に見つけられる人物はいない。人々の中に琥太郎の目当てのものはなく、その奥のスーパーが憧れの存在なのだから。
首を傾げながら瀬立が店内に向かう。そこで琥太郎もようやく現実に引き戻され、その背を追った。こう見えても初めての場所は緊張するタイプなのだ。
そして一つ、琥太郎は気づいた。
「東原...さん、普段もここ使ってるんすか」
「そう言ってたねえ」
ということは、やはり金持ちか。高級スーパーで普段から買い物ができるなんて、余裕のない人間にできるはずもない。琥太郎にとってはどんな金持ち表現よりもその差を実感できた。
ちらと瀬立の背を見る。どうせこの男もそのうちの一人なのだろう。立ち居振る舞いからして来店し慣れているような気がする。
自動ドアの前まで来て、一瞬止まる。来店は小さな夢の一つではあったが、本当は自分の力で来てみたかった、なんてことを考える。いつか、社会に見合うような自立した人間になったとき、自分の力だけでこの場所にたどり着けたのならばと、思ってしまった。
小さな夢だ。特に何になるわけでもない。けれど、叶えてみたかった夢ではあった。しかしそれは叶わず、成り行きでその夢を叶えかけている。
目の前を見据える。秩序のある、誰にとっても安心できる空間が広がっていた。
絶妙な無力感を抱え、入店を果たした。
店内はつつがなく空調が働き、火照った体の熱を奪っていく。つま先から頭の先まで熱が充満していた琥太郎にとっては心地いいくらいの空調だった。部屋の空調が死んでいる琥太郎にとってはまるで天国のような空間である。
思わず顔が解ける。しかし、すぐに我に返る。
まずい、仕事中だ。琥太郎は地面に目線をやる。
「この辺にはないと思うよ?」
上から瀬立の声が降ってきた。その手には買い物かごを持っている。
「東原さんの話では、あの日財布を出したのはレジの時だけって言ってたから、ここに落ちてる可能性は低いかな」
「...なるほど」
聞いて琥太郎は少し恥ずかしくなった。手当たり次第にやればいいというものでもないのか。
「それに、もうここにはないかもしれないしね」
「え?」
瀬立は入り口付近の青果コーナーを眺めながら言った。その口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。
「ここにはない、ってどういうことすか」
「そのままの意味だよ。多分、もうここには落ちてない」
そこまで言うと瀬立は青果コーナーを後にしてスーパーの奥へと向かう。追いかけながら琥太郎は問い詰める。
「落ちてないって、じゃあどっか他にあるんすか」
ここではないどこか。スーパーから自宅までの道で落としたということだろうか。
しかし瀬立はそれにも首を振った。
「財布を出したのは会計のときと家に帰ってからだった。彼女が使ってたカバンを見るに、帰り道でカバンから中身が飛び出したっていう可能性も考えにくい」
瀬立は惣菜を手に取りながら言った。そのうちのいくつかを丁寧にカゴに入れた。
確かに、瀬立の言う通り財布を出した時が一度しかないのなら、その時に落としたと考えるのが妥当だ。というか、それしか現実的ではない。そうでなければ、鈴は東原のカバンの中に入ったままだろう。しかし、彼女はカバンの中ももちろん探したという。
けれど見つからなかった。まさか消えたとでもいうのだろうか。そんなはずはない、非現実的だ。
鈴の場所はここにはない。ここ以外の東原が通った場所にも落ちていない。
しかし、だとしたら。
「じゃ、じゃあ、この依頼はどうなるんすか」
まさか見つからないのを承知で受けたとでも言うのか。最初から見つからないとわかっていて受けたとなれば、とんだいい商売じゃないか。
「...金だけもらうつもりすか」
琥太郎は瀬立を睨みながら言った。
すると瀬立は惣菜を選ぶ手をぴたりと止めて琥太郎に向き直った。
「それはしないよ。鈴はちゃんと見つける」
「見つけるって...どこにあるかわかるってでも言うんすか」
ここにはない。一番あるだろう場所にない。
ならば鈴は、どこに消えたのか。
「じゃあ、琥太郎くんに質問です」
「は?」
突然始まったクイズに琥太郎は部下にあるまじき態度をとった。しかし瀬立は気にすることなく笑みを浮かべたまま続ける。
「おそらく東原さんはここで鈴を落としました。けれど、このスーパーの落し物に鈴は届いていません。では、鈴はどこに行ったと考えるのが自然でしょう?」
なんだと思いながらも、瀬立が笑顔で答えを待っているので渋々琥太郎も思案を巡らせる。
このスーパーで落とした。けれどここにはない。だが、現実では物は消えない。超能力でも使えない限り、なくなる事なんてありはしないのだ。物は自分で消えることはできない。
そう、自力では無理だ。
だとしたら、考えられるのは一つ。
「誰かが...持っていった?」
琥太郎が答えると、瀬立が頷いた。
「そう。既に誰かがこの場所から持っていった。そう考えるのが自然だよ」
言い切ると瀬立はまたもずんずんと進み買い物を続けていく。琥太郎はそれを追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。じゃあどうやって見つけるんすか」
このスーパーに来ていた誰かが鈴を盗んだ。琥太郎たちはその鈴を見つけなければならない。つまり、盗んだ人物を見つけなければならない、ということだ。
このスーパーに来た何百人という人物の中から、見つける。
到底できるとは思えなかった。
瀬立は乳製品類を眺めながら琥太郎の問いに答えた。
「まあ、見つかる可能性は百パーセントじゃないんだけどね。でもまあ、持っていった人がどんな人なのかはわかるかな」
「ま、まじか!」
琥太郎は口を押さえる。どうも最初の出会いが出会いなだけにこの男に敬語がうまく使えない。
すると瀬立は苦笑を浮かべて言った。
「無理に敬語使わなくてもいいよ?俺はそういうの気にしないし」
そうは言うものの、上司にタメ口というのも気がひける。流石にその程度の礼儀は持ち合わせてるつもりだ。
しかし次の瞬間瀬立は悪い笑みを浮かべて言った。
「それに」
「それに?」
「初対面で『消えろクソ野郎』なんて言われた人に、今更敬語使われてもねえ?」
琥太郎は顔を引きつらせて笑った。
こいつ、なかなか根に持つタイプだ。
心の中で呟いた。
しかし琥太郎は素直な人間である。敬語なしでいいと言われれば思いっきりお言葉に甘えさせてもらおう。
タメ口を試用しながら、話を本題に戻す。
「どんな人なんだよ、鈴を持っていった人」
探さなければならない人の検討が琥太郎には全くつかない。瀬立に頼りきるしかなかった。
瀬立は琥太郎の方を向いた。
「それはまた帰り道で。まずは、会計に行って来ないと」
気づけばかごの中はいっぱいになっていた。
瀬立が会計をしている間、琥太郎は店の外でぼんやりと街を見ていた。暑いとは思ったが、用もないのに高級スーパーにいるのも落ち着かなかったから早々に店から出たのだ。
空にはまだ明るい太陽が照っている。しかし、徐々に赤みを帯びてくる。けれど外はまだ明るく、近所に住んでいるのであろう子どもたちはまだまだ元気にそこらを走り回っていた。
しばらくすると瀬立が店内から出てきた。手には膨れたエコバッグがある。
「帰ろうか」
「...おう」
素直に答えられなかったのは、その言い方がまるで家族にでも言うような言い方だったからである。
「あの鈴はね」
帰り道を歩きながら瀬立が鈴の現在の居場所について琥太郎に聞かせた。
「特段高価なものではないそうでね。ほら、観光地に行くとよく鈴とか売っているでしょ?」
「そうなのか?俺、旅行とかしたことないから知らねえ」
旅行なんてできる余裕はどこにもなかった。そうか、観光地には鈴があるのか。
瀬立は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて話を続ける。
「まあ、あるものだと思って聞いて欲しいんだけど...あの鈴もそういうところで買ったものらしくてね。間違っても盗もうなんて思う代物ではないんだよ」
「はあ...」
話を聞く中で琥太郎の心は別のところに引っかかった。わざわざ依頼するくらいだからよほど高いものかと思っていたが、そうではないのか。
だとしたら、東原とはやはり相容れない。
たかだか安物の鈴のために、それよりも高い金を払って取り返そうとするなんて、貴族のやることじゃないか。
ため息にもならない息が漏れた。
「琥太郎はもし、その鈴が落ちていたら拾う?」
「なんだよいきなり」
しかし瀬立の口調にふざけている感じはない。ので、琥太郎は考える。
「拾わない。地面に落ちてるものなんて汚いし、たかが鈴だし。拾ったとしても、店員に落し物として届けるくらいだろ」
間違っても持って帰ろうなんて思わない。琥太郎にとっては、ただのガラクタだ。
「そう。大抵の人は鈴なんていらないんだよ。安物なら尚更ね。せいぜい優しい人が届けてくれるくらいでさ」
琥太郎はムッとした。それではまるで自分が優しいみたいな感じではないか。
そんな琥太郎を気にすることなく瀬立は続ける。
「つまり、拾ったその子にはそういうものがなかったんだよ。『安い』とか、『ただの鈴』みたいな概念がね。その子にとってその鈴は、とても惹かれるものだったんじゃないかな」
瀬立のその言い草からして、琥太郎は気づいた。
鈴を拾う。躊躇いもなく地面にあるものを掴む可能性がある人物。琥太郎もそうだったからわかる。なるほど、そういうことか。
瀬立は玄関扉まで歩いて行き、その鍵穴に鍵をさした。
「おそらく鈴を持ち去ったのは、子ども。あの日、東原さんが行った日にスーパーに足を運んだその子が、持っているんじゃないかな」
右手で軽く捻ると、ガチャリ、と音がした。
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