第3話
「そうと決まれば早速お願いしたいことがあるんだけど」
ぱっと手を離し瀬立は言った。そしてどこからか取り出した一枚の紙を空いた琥太郎の手に渡す。
紙に目を落としてみると、何かのリストのようだった。よく見ると、社名や依頼内容などこの店に関わる基本情報が書いてある。
瀬立は長い指で紙上をなぞりながら言った。
「ここに書いてあることをあそこの黒板に上手く書いて欲しいんだ。どうも、俺にはそういうセンスが無いみたいで」
瀬立は困ったように笑う。
ここでの最初の仕事は客引きのための看板を書け、ということのようだ。
最初の仕事のため応えたい気持ちはあったのだが、琥太郎は首を振った。
「いや、俺だってこんなことやったことないっすよ」
生まれてこの方美術とは無縁で生きてきた。学校の成績だって特筆すべきものではなかったし、美的センスというやつだってあるようにも思えない。
しかし瀬立は問題視しなかった。
「大丈夫大丈夫。俺よりはマシだから」
と言って琥太郎に仕事を預ける。
相手の力量を知らずに断言できるなんて、どれくらい酷いのだろう。少しだけ見てみたくなった。
流石にここまで言われてやらないわけにもいかないので渋々了承する。琥太郎は示された黒板に目をやった。キッチンの前のダイニングテーブルに看板サイズの黒板が置かれている。真新しい緑が窓から差し込んでくる光に照らされていた。
しょうがない。やるだけやってみるしかなさそうだ。
柔らかいソファから立ち上がり、黒板を手にする。縦長の画面に上手く配置できれば上々だろう。
作業を開始しようとしたその時、一つの疑問に気がついた。
「あの、なんで黒板なんすか。こういう基本的な情報ならわざわざ消える黒板に書かなくていいんじゃないすか」
普通、この手の看板は消えないようにしておくべきだろう。黒板に書くということは何度も書き直す必要があるからで、今後書き直すことのないものをわざわざ黒板に書く必要はない。しかし、渡された紙には特に今後変更する可能性があるものは見当たらない。普通こういったものはなかなか消えないもので書くべきではないのか。
琥太郎の質問に瀬立はああ、と頷いてソファを離れて琥太郎の近くへ来る。そして黒板を愛おしそうに見ながら言った。
「黒板が好きなんだよ。書き直すことができるって素敵だと思わない?今風に言うと、『エモい』ってやつかな」
瀬立は琥太郎に笑いかけながら言った。
『エモい』の意味は世間知らずでわからないが、なんだ。ただの好みか。
琥太郎は納得して黒板に向いた。
こんなことをやるのは初めてだ。前の職場、といってもたかだか2時間前だが、そこではこんな作業一切しなかった。毎日肉体労働に勤しんでいた日々である。
正直自信がない。自分にできるなんて思わない。
瀬立が傍にチョークを置いてくれた。去り際に背中をポンと叩いた。
期待、ということだろうか。そんな風に思えた。
思えばこの人生で期待なんてされたことがなかった。親からも前の職場の上司からも、同僚からもされてこなかった。彼らは琥太郎にとって壁であり、敵であり、邪魔な存在だったからだ。
悲しくはない。それが当たり前だと思っていたから。誰の手も借りず、一人で生きていければそれで良かったから。今だって彼らのことはそういう風に思っている。
けれど初めて知る期待の重みは、不思議と琥太郎を奮起させた。
真新しいチョークを取り出す。チョークを持つのは数ヶ月振りだった。板の上を流れるさらさらという聞き慣れた音が心地よかった。
時刻はもうすぐ15時。昼食をとっていなかったにも関わらず、不思議と作業している間は空腹が気にならなかった。
作業する家の中にはコーヒーの匂いが漂っている。その中でチョークが削れる音だけが響いていた。
チョークが板にあたるたび、かん、という音が鳴った。そして、線を引くたびに耳の内側をくすぐられるような音がする。
物を書く音。琥太郎は随分前に封じ込めた記憶を思い出し掛けていた。
小さい時に同じような感覚を持っていた気がする。けれど、いつしかその瞬間を頭の引き出しの一番奥にしまいこんで、なるべく思い出さないようにしていた。
あれはなんだっただろうか。とても昔のことで、悲しいような気がした。
思い出しかけたその時、紙に記された最後の一文に目が行った。
その一文を琥太郎は何度も読み返してみたがどうも理解ができない。作業の手を止め、瀬立を呼んだ。
「あの、これどういう意味すか」
ソファで何やらパソコンを操作していた瀬立は手を止めた。
琥太郎は紙の下の方を指して聞く。
「この部分なんですか」
そこには不思議な一文が載っていた。
『音を集めています。音と記憶のエピソードをお持ちの方はぜひお聞かせください』
なんだこれ。
「なんすかこれ」
ここまで心の声と発声が共鳴したことは今までになかった。
琥太郎の質問を受け、瀬立は作業をやめて琥太郎の元へやってきた。
「文面通りだよ。音と記憶のエピソードがある人はぜひってね。実は、趣味で音を集めてるんだ」
ますますわからなかった。
趣味で、音を、集める。
頭上にはてなを浮かべ、訝しげな顔をした琥太郎を察し、瀬立はわかりやすく説明した。
「音を集めてるって言っても、実際に音源を集めてるわけじゃなくてね。ほら、人って音を聞いて何か思い出したりするでしょ?そういうエピソードを集めてるってわけ」
琥太郎はようやく文章の理解ができた。しかし、その目的は理解できなかった。
「なんのためにすか」
「趣味に目的を求められてもねぇ」
瀬立は困ったような顔をして頬を人差し指で掻いた。
そう言われてしまうと反論の余地がない。これといって趣味はない琥太郎だが、なんのために家でごろごろしているかと言われれば返答に困る。
「あくまで趣味だから、お客さんにボランティアで教えてもらおうと思ってね」
「はあ...」
まあ、趣味なのだから特に問題はないだろうが、この世界には変な人も酷い人間もいる。琥太郎としてはせいぜいトラブルにならないことを願うばかりだ。
最後の一文を書き入れ、黒板を完成させる。瀬立は出来上がるその瞬間を傍らで見届けた。
「こんな感じ、ですかね」
カラフルに彩られた緑の板に、店の紹介が記されている。正直、出来が良いのか悪いのかはわからない。けれど、不思議と達成感だけはあった。
瀬立は黒板をじっと見つめていた。自分の成果をこうして誰かに真剣に見られるのはとても緊張する。
しばらくして瀬立は黒板から目を離すと琥太郎に向き直った。心臓が鳴って自然と背筋が伸びる。
そして瀬立は、その大きな手を琥太郎の頭の上に置いた。
「ありがとう、琥太郎」
大きな手は頭の上で小さく左右に動き、わしゃわしゃと染め上がった金色の髪を揺らした。
手が離れ、瀬立が黒板を手に持った。
「じゃあ俺、これを外に出してくるから。ちょっと待っててね」
「あ、はい...」
瀬立が去り、琥太郎はさっきまで人の手があった頭に手を置いた。
仕事で感謝を述べられたのは初めてだった。これまでは、仕事で成果を挙げるのは普通のことで、当然のことで、当たり前で、ただのノルマだった。むしろ、達成できないことの方が異常で、褒められるなんてことは一度だってない。
それをこの男は、仕事という仕事とも言えないようなこんな小さなことで感謝を述べたのだ。
変なやつだ。おかしなやつだ。
でも。
なんだよ、悪い気はしないじゃないか。
琥太郎が仕上げた黒板を用意しておいたイーゼルに立てかける。こうして見ると、中々に素敵な仕上がりだ。センスは悪くないのだろう。
『街の何でも屋 WAVES 何かお困りのことないですか?』
一番大きく書かれたその文字に笑みが溢れた。特に根拠はなかったけれど、この黒板がきっと集客につながるような気がした。
玄関に続く石畳の一番道路に近い場所に看板となる黒板を置く。真夏の日差しが照らしてくれた。
看板を設置し終え家の中へ戻ろうとした時だった。
「あの、これ本当ですか」
女性の声が瑞樹を引き止めた。
振り返り、瑞樹は笑顔で受け応える。一人の女性が看板の前で立っていた。
「ええ、『何でも屋』はここですよ」
瑞樹が答えると、女性は血の気の引いた顔で言った。
「あの、依頼してもいいですか」
瑞樹は心の中で呟いた。
(まさかこんなに早く効果が出るとは)
何でも屋WAVESに、最初の依頼人がやってきたのである。
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