第2話
人生最悪の日に変なやつに絡まれた。
そいつは見るからに金持ちで、しかも裏路地で声をかけてくる絶対に関わってはいけない人だった。
が、しかし。
琥太郎は逃げ出すこともせず、警察に通報する訳でもなく、渡された名刺に目を通していた。
名刺を見るからに、いわゆる怪しい職業ではなさそうだ。名刺の作りもしっかりしているし、雰囲気に裏社会を感じない。だが、何でも屋とはなんだ。
「はい」
琥太郎が名刺に熱中していると、突然手を差し伸べられた。
「な、なんだよ」
もしや、金でも要求するやつなのか。もしやそういう新手のカツアゲなのか。
琥太郎が怪しんでいると、男は不思議そうな顔をして言った。
「一人で立てないなら手、貸しますよ」
そこで琥太郎は未だに自分が地面と平行なことに気づいた。
最短の動作で立ち上がった。もちろん、男の手を取ることはない。
男はおやおやと呟いたあと、にこりと笑顔を浮かべて続けた。
「どうですか、怪しいものではないでしょう?」
「...まだ十分怪しいですけど」
地面とゼロ距離だったために砂利にまみれた服を叩きながら琥太郎は言った。彼を見つめる目は未だ疑問に満ちている。
しかし男はそれを気にすることなく続ける。
「では、事務所の方でお話を聞いてもらえないでしょうか。それで判断してもらうのなら、問題はないでしょう?」
お望みなら怪しくないという証拠も示します、と男は言った。そういうことを言う奴は逆に怪しいのだが、この時の琥太郎はどうかしていた。
琥太郎は迷った。
もし、彼が怪しいものではなく、真っ当な仕事に就いているのならば、こんなに美味しい話はない。だが、もしそうでなかった場合だ。色々な意味でただでは済まない。
正直わからない。わからないが。
解雇通知をもらい、変な奴に絡まれ、地面に突っ伏したメンタルには、正常な判断なんてできるはずもなかった。
「...お話だけなら」
瀬立と名乗った男はにっこりと笑った。
走ってきた路地を戻り、少し歩いた先にその事務所はあった。事務所といっても、外観は一軒家そのものだった。一つ付け加えるのならば、高級そうな一軒家である。
「ここだよここ。ほら、どうぞ?」
やはりこれは良くない選択だったのかもしれない。しかし、時すでに十分に遅い。
今更引き返すこともできず渋々家の中に入る。しかし、体はすぐに逃げられるように臨戦態勢を取っていた。
「そこのソファに座っててくれる?コーヒー淹れてくるよ」
瀬立はそう言ってキッチンの方へ消えた。
示されたソファに渋々座ると、これまでの人生で体感したことのない柔らかさを足に感じた。弾めそうなくらいふかふかのソファだった。感動と怒りがこみ上げてくる。
怒りを噛み締めながら家の中を見回す。まさに家という感じで、不可解な点はどこにもない。目に見える生活感はないが、それでもテレビやソファ、螺旋階段が二階に続き誰かが生活している痕跡はある。モデルルームでありそうな部屋だ。
膝の上に抱えた荷物を強く抱く。今自分が座っているソファすら置けるかどうかわからないアパートに住んでいる琥太郎にとってこの空間は拷問にも近かった。
コーヒーを淹れ終えた瀬立が戻ってきた。無意識のうちに琥太郎は彼をにらんだ。
「何か?」
「...いえ別に」
瀬立は首を傾げながらソファの前に置かれたテーブルにカップを置く。琥太郎はそれを一瞥し、すぐに目線を戻した。
瀬立はテーブルの反対側に置かれた一人用のソファに腰を下ろす。そこでようやく目線が同じになった。
整った顔だ。芸能人だと言われても驚きはしない。むしろそうでないのが不思議なくらいだ。そして何より、余裕が滲み出ている。人生に対する不満なんてどこにもない、そんな余裕が彼の顔には柔和な笑顔として現れていた。
じっと見つめていた薄い唇が開き、琥太郎はビクッとした。
「さっきの名刺の通り、俺はここで何でも屋をしてるんだ。まだ始めて三日目だけどね」
「み、三日目?」
思わず聞き返した。それに瀬立は頷く。
「もともと一人でやろうと思っていたのだけれど、、如何せん俺には商売の才能がないようでね。待てども待てども人は来ない。ということで、人の手を借りようかと思って」
困ったような顔をして瀬立は笑った。
「それで...人を雇おうと?あの...お金とか大丈夫なんですか」
「ああ、それは心配いらないよ。俺、お金には困ってないからさ」
殴りかかりたくなった。しかし、手でそれを制止される。
「まあまあ。そうカッカしないの」
顔に出ていたようだった。ニヤついた顔が余計に神経を逆なでする。なんでこいつは笑顔を保ち続けてられるんだ。
「話を続けてもいいかな。どうしようかなって困っていた時、君を見つけたわけだよ。あ、この子だ!って思ったんだよ、直感でね。で、どう?大丈夫、お金は心配ないよ。ちゃんと法に則って支払うから」
「...そういうとこが余計に怪しいんですけど」
「そう?」
「はい。すごく」
瀬立は困ったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。問題ないとでも思ったのだろうか。
「働いてみない?」
直球に聞いてきた。こいつ、やはり少しおかしい。
琥太郎は思案する。条件は悪くない。ここで商売がうまくいけば、金にも困らない。ちゃんとしている、かはわからないが、とりあえず食いつなぐだけの金はもらえるはずだ。
問題は瀬立という男だ。外見から金には困っていないというのも事実だろう。名刺もしっかり作られていたし、そういう職業ではないことも信じられる。
それでもまだ信じきれなくて、というかこの男を認めたくなくて琥太郎は質問を絞り出した。
「あの」
「うん?何かな」
「ここって交通費出ますか」
「まあ、お望みなら」
そうか。それもクリアしてしまうのか。琥太郎が必死に絞り出した質問も簡単に打ち返されてしまった。
しかし実際交通費の有無は大切なことではあったのだ。琥太郎は現在ここから電車で二時間はかかる場所に住んでいる。職場から遠くとも少しでも安いアパートを借りたかったからだ。前の職場では交通費が支給されていたからその点は楽だった。
瀬立はコーヒーを飲みながら聞いた。
「自宅からここまでどのくらい?」
「二時間くらいです」
「に、二時間!?」
琥太郎は瀬立が驚いたのを見て驚いた。自分は何かそんなにおかしなことを言っただろうか。
琥太郎が世間とのズレを気にしてドキドキしていると、瀬立は腕を組んで眉間にシワを寄せた。まずい、仕事獲得のチャンスを逃しただろうか。
心臓を鼓動させていると、瀬立がポンと手を叩いて言った。
「じゃあ、うちに住めばいいか!」
衝撃発言に琥太郎は思考が停止した。
何言ってんだこいつ。
そう思ったのは数秒後のことだった。
「大丈夫!部屋は余ってるんだ。家賃もいらないよ、ここは親戚の持ち家だから」
「いやいや、そういうことじゃないでしょ!?なんでここに住むんすか!?」
ごく当たり前に反論した。いや、もしかするとこれも当たり前ではないのかもしれないけれど。でもいたって普通なことではないか。いきなりここに住めと言われたら誰だって困惑する。
すると瀬立は不思議そうな顔をして答えた。
「だって、早朝とか深夜に緊急の依頼があった時、二時間もラグがあったらダメでしょ?結局一人で応対することになって、そしたら君を雇う意味がないじゃない」
琥太郎は引き下がる。
確かにその通りだ。だが、だからといってなぜここに住まなければならない。
「だ、だって、ここあんたも住んでるんでしょ!?」
「ああ大丈夫。俺は気にしないから」
「俺が気にする!!」
冗談じゃない。なんで見ず知らずの人間といきなりシェアハウスしなければならないのだ。本当のシェアハウスがどんなものかはよく知らないが、絶対にこんなことではないはずだ。
困惑する琥太郎を気にすることもなく、瀬立は呑気にコーヒーを味わっている。腹が立った。
「まあ、ずっとじゃなくてもいいから。近場で部屋が見つかるまでの間だけってことでいいわけだし。流石に二時間はこっちからしてもリスクが大きい」
「ぐっ...」
まずい。ここでこいつとの共同生活を選ばなければもう一度職を失うことになる。そうすればいつまた職に就けるかわからない。だが、だからといって、この怪しい男の言いなりになっていいものなのだろうか。いくら立場はちゃんとしていそうだとはいえ、逆にそういう奴が一番の悪の親玉みたいなことだってあるんじゃないのか。くそ、今ほど古くてくたびれたあの狭いアパートがやけに愛おしいと思ったことはない。
「無理に、とは言わないけれど...どうかな。前向きに考えて欲しいのだけれど」
瀬立は落ち着いた声で聞いた。
琥太郎は考えた。学の無い頭だが、必死に色々考えてみた。
リスクを承知で職と快適そうな生活を取るか、それとも激安で狭いアパート、15歳のニートに戻るか。
ずるい二択だ。
「瀬立さん」
「うん?」
「お世話になります!」
答えは単純明快だった。多少のリスクなんて知ったこっちゃ無い。次の部屋が見つかるまでの間だけだ。
無職に比べれば、共同生活なんて屁でもない。
瀬立は目を細くして笑った。
「晴れて君はうちの社員になったわけだけど、書類を書きながらでいいから...お名前は?」
琥太郎は瀬立に渡された契約の書類に目を通しながら答える。
「琥太郎」
「じゃあ琥太郎。出身は?」
「...必要ですかそれ」
「一応知っておこうかなって」
いきなり出身を聞くなんて変な奴だ。普通こういうのは学歴とか以前の職はとかが普通だろう。変だと思いながらもしかし、一応上司だ。琥太郎は真面目に答える。
「東京の東の方です。治安の悪いとこ」
「そう。見たところ若そうだけど、いくつ?」
「15。今年で16です」
すると瀬立はわずかに驚いた顔をした。へえと感嘆した後、質問を続けた。
「中卒か。で、さっきの解雇通知は?」
「本日クビになりました」
ニート歴二時間です、どうだすごいでしょうという渾身のジョークは言えなかった。流石にそこまで答える義理はないし、笑いが起きなければ地獄だ。冗談は昔から得意じゃない。
瀬立は相槌を打ちながら質問を続ける。
「4月から働いてたんでしょ?今は8月、スピード解雇の理由は?」
「あんた、デリカシーないんですか」
「それは君もね。初対面の人間に消えろクソ野郎なんて、なかなか言えるもんじゃないよ」
琥太郎にブーメランが帰ってきた。くそ、反論の余地がない。
数秒の間躊躇いはしたものの、このまま目の前の男が逃がしてくれるような気もしない。気が進まなかったが、琥太郎は答えた。
「社内トラブルに巻き込まれて」
「へー、どんな?」
「...人間関係」
「それは災難だったねえ。それで?」
こいつ、やはりどこまでも聞いてくるつもりだ。
「...もういいでしょ。これ以上はあんたには関係ない」
この先は聞いて欲しくない。話したくもない。
瀬立はあ、そう、と言って案外簡単に納得した。意外にも物分かりはいいタイプなのか。
そして瀬立は右手を差し出してきた。
「じゃあ、これからよろしくね」
琥太郎は瀬立の顔と手を交互にじっと見た。切れ長で主張は強くないが長い睫毛の目、白い色の肌、薄い唇。長い指だ、琥太郎の手より一回りは大きい。
何もかもが違いすぎる。
普段なら絶対にこんな奴の側に近寄ろうとも思わない。けれど、今は崖っぷちだ。どれほど嫌いな奴でも頼るしかなかった。
琥太郎は差し出された手を握った。指先は思った以上に冷たかった。
「しばらくお世話になります」
しばらくだ。それだけでいい。この時はそう思っていた。
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