何でも屋と記憶の音
一日二十日
Ⅰ 人生最悪の一日
第1話
クソみたいな世の中だ。
いつもそう思いながら生きて、恨んできた。
どいつもこいつもまともなやつなんかいやしないし、救いも何もあるもんじゃない。いつになってもこれだけは変わらない事実だった。
許せないし、納得もしてない。それでも簡単に人は無職だ。無職になっただけじゃない、何もかもだ。何もかも全部、失ったのだ。
クソみたいな世の中だ。改めて心の中で呟いた。
琥太郎は道端に捨てられていたビールの空き缶を思い切り蹴った。蹴られた衝撃で空だと思っていた缶から中身がこぼれる。液体がアスファルトにじわじわ染みていった。
なんで最後まで飲み干さないんだ。自分で買ったのに、どうして最後まで消費しない。この世界にその一滴を欲してる奴が何人いると思ってる。怒りがこみ上げてきた。現代日本では当たり前な光景にひどく苛ついて、社会に腹が立った。
からからとアスファルトの上を缶が転がったのを見送ると、琥太郎は頭をガシガシと掻いた。少し伸びすぎた金色の髪が目の前で揺れた。
会社をクビになった。収入がない。中卒で雇ってもらえるところなんてそうそうない。ただでさえ薄給で生活が苦しかったのに。今はまだ帰る家がある。だがその家だって次の家賃はどうなる。来月まで居られる保証なんてどこにもない。口座にある金は、雀の涙ほどしかないのだ。このままではホームレスまっしぐらだ。帰る家は簡単に失える。
本当にクソみたいだ。ようやくまともに生きられそうになったのに、また振り出しだ。いつまで経っても普通の人生というゴールにたどり着けない。
琥太郎はその場にしゃがみこんだ。疲れていたわけではない。解雇されたおかげでまだ時間は昼だ。朝から晩まで働くために蓄えた体力はまだまだある。それでも立っている事ができなかった。
目の前の動きようのない現実に、立ち向かえなかった。
クソ。クソ。クソ。
悔しさと憎悪と焦りで目の前が真っ暗だった。何も見えなくて、ただ呟く事しかできない。やっと親の元を離れて何かできるようになったと思ったのに、結局何もできないままじゃないか。とてつもない無力感が琥太郎の体を襲った。
8月の昼下がり、背中に感じる太陽が暑くてたまらない。裏路地の暗い景色を妨げるその太陽が不快で不愉快で、痛くて仕方なかった。
それでも時間が経てば冷静になれるのは人間の嫌なところだ。現状を打開しなければという意思がふと脳裏に浮かぶのである。帰らなければ。仕事を探さなくては。数秒後にはそう考えていた。
当分は日銭を稼ぐだけでいい。嘆くのはそれが終わってからだ。
琥太郎は頭を上げて、けれど地面を見つめたまま立ち上がろうとした。
その時。
目の前に革靴が見えた。しかも、ただの革靴じゃない。詳しくなくてもそれが高級品だとわかるくらいには立派な革靴だ。
「ねえ君。大丈夫?」
頭上から声が降ってきた。涼やかな声だった。
革靴から徐々に目線を上に上げる。スラックスに包まれた長い脚、きちりと来こなされたジャケット。見るからに金持ちの装いだった。
琥太郎はすぐに立ち上がり、その身なりめがけて言い放った。
「大丈夫です」
喧嘩でも仕掛けるような口調だ。もちろんわざとだ。誰かれ構わずこんな態度をとっていたら生きていくことなんかできない。
それでもこいつにそんな態度をとったのはこいつが金持ちだったからである。金持ちとなんか関わりたくなんかなかった。ただ金を持っているだけで偉ぶっている人間なんて大嫌いだ。
こんな場所、というかこんな奴がいる場所なんてさっさと立ち去りたかった。琥太郎はその男の顔を見もしないで足早にその場を離れようとした。
しかし、その涼やかな声に呼び止められる。
「ちょっと待って」
そいつから大股で三歩ほど進んだところだった。歩き出した勢いで体は前に傾いた。
なんだよこいつ。お前みたいなのが俺に何の用だよ。
そう思いながら振り向いた。
「なんですか」
「これ、君の?」
長い脚を折り曲げてそいつが地面から何かを拾い上げた。何かを掴んだ指も、すらりと長かった。
彼が拾ったのは何か白い紙だった。
白い紙というか、琥太郎は見覚えがあった。
気づいた琥太郎は無我夢中で彼に近づいた。琥太郎が追いつく前に金持ち野郎はその紙を開いた。
「あ、おい!それは...!」
「なんだろうこれ、解雇通知?」
それは紛れもなく、自分のものだった。
琥太郎は突撃しそうな勢いでその紙をそいつの手から引き剥がした。それから頭を下げる。
「拾ってくれてありがとうございましたそれでは失礼します」
一切息継ぎがなかった。そのまま一気にその場から走り出す。
クソ。クソだ。
今頃あいつは笑っているだろう。走り去って行く背中を指差しながら、腹を抱えて、失業した俺のことを笑っている。その身なりを勝者の笑いで一層飾っているのだ。
クソクソクソ。
最悪の日だ。最悪の人生だ。
泥まみれで縫製がほつれた靴でアスファルトを蹴った。行き先なんて決めていなかった。暑くてたまらない。文句は色々出てきたが、それでも走るしかなかった。
クソ野郎。そう叫んでいた。
「それは心外だなぁ」
心臓を掴まれた気分だった。
背後から聞こえたのは、あの涼やかな声だった。
琥太郎は立ち止まり、後ろを振り返る。
いた。そいつが。
長い脚に長い指。金持ちの格好をしたそいつ。憎たらしい格好だ。見るたびに負の感情が湧き上がってくる。
しかし顔を見たのは、その時が初めてだった。
黒い艶やかな髪を流した前髪、白い肌に切れ長の目がやたらと映える。薄い唇から息が漏れていた。公家のような顔の男だ。整った顔であることには間違いないだろう。そんな男がこちらを見ていた。
「それ、君のなんだよね」
男は長い指で琥太郎の手元の解雇通知をさした。
「...そうですけど。なんか問題ありますか」
苛つきを隠すことなく言った。
すると男は整った顔に笑顔を浮かべた。
「そうか!じゃあ、僕のところで働かないかい?」
そう言って男は手を差し伸べた。
琥太郎は思案した。
その提案の答えに、ではなく、もっと深いことだ。
世の中には色々な人がいる。都合の良い奴、クソみたいな奴、それ以外のどうでもいい奴。琥太郎が今まで会ってきたのはそういう人間だったし、社会を知ってみてもその考えは変わらなかった。その中でどう取捨選択し、なるべく上手く生きていくかを日々考えることが琥太郎の人生だった。
では、目の前にいるこいつはなんでしょう。
答えは一つだ。
そのどれにも当てはまらない、怪しいやつ。
琥太郎は差し伸べられた手を一瞥し、
「消えろクソ野郎」
と言い放った。
言葉を間違えたなとは思う。多分あの場所で言わなければならなかったのは、ごめんなさいとか、そういうのはちょっと、的なやつだ。それで立ち去った後に警察を呼べばよかったのに、思わず本音が出てしまった。普段の言葉遣いというのは恐ろしいものだとつくづく思った。
そして今、ピンチは継続していた。
「離せバカ!本気で警察呼ぶぞ!」
男に腕を掴まれ逃げようにも逃げられない。公家野郎は細いくせに力は強かった。
「いやいや、俺そういうのじゃないから!ただうちで働かないかって言ってるだけだってば!」
「それが怪しいんだろアホ!裏路地でんなこと言うやつについていく馬鹿がどこにいんだよ!離せ!」
いくらクソみたいな人生とはいえ、そこまで落ちぶれるつもりはさらさらない。必死に腕を引き剥がそうとした。しかしその指はなかなか腕から離れてくれない。無駄に力が強すぎる。
「ああそういうことか。わかったわかった」
何かに納得したような男が腕を離した。急に離されたもんだから、力が余って琥太郎は地面に突っ伏した。
真夏のアスファルトは熱すぎるし、砂利が顔についた。苦すぎるアスファルトの味なんて知りたくもなかった。クソ。解雇された日に変なやつに絡まれて、その上地べたに這いつくばるなんて本当に最悪だ。
沸き上がる怒りを目に込めながら男の方を向いた。早く立ち向かわなければ、何をされるかわからない。
琥太郎が顔を向けると、男はジャケットの内側から何かを取り出した。そしてそれを琥太郎の目の前に突きつける。
ビクッとして目を瞑る。しかし、なんの衝撃もないのを不審に思って琥太郎はゆっくりと目を開いた。
目の前にあったのは名刺、のようだった。
「失礼しました。俺、こういうものです」
男は両手で小さな名刺を持ち、琥太郎の前に差し出していた。
突きつけられた勢いで名刺を受け取った。
そこには青と白のグラデーションの背景に、文字が記されていた。
『街の何でも屋 WAVES 取締役代表
文字を読み、理解した後、もう一度男の顔を見る。
形のいい唇の端をあげて、男は言った。
「君、うちで働きませんか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます