なんでもない日
Natsumi
なんでもない日
七限の終わりを告げるチャイムが鳴る。それを皮切りに、教室中が騒がしくなる。さっきまでは聞こえていた小鳥のさえずりも、木の葉が擦れる音もどこかに消えてしまった。
みんな各々に帰りの支度をし始める。クラスのお調子者はもう既にいない。彼のものであろう、バタバタという足音ばかりが校舎の廊下に響き渡っていた。片付けなんてそっちのけで先生に授業の質問をしている子がいる。先生、ここの解説が納得いかないんです。ああ、ここはね――。次第に二人の問答は聞こえなくなっていく。私が、教室から離れていっているからだ。
玄関前の廊下では、下級生の女子二人組が帰り道にあるクレープ屋の話で盛り上がっていた。あそこのイチゴクレープが美味しいから、今度一緒にいこう……みたいなことを話してた気がする。あまりよく聞こえなかった。
よれよれのローファーに履き替え、校舎の外に出た。途端、網膜を焼き尽くすくらいのまぶしい陽光が――それは嘘。少し目がちかちかする程度の、暖かい色をした日光が西の方から差してきた。今の時期にはちょうど良い温かみだ。肌がほんのりと焼けていくのを感じる。冬場のストーブよりも柔らかくて、心地よい。
弱くなった日光を完全に受け止めているせいか、地上から見た雲はどんよりと黒ずんでいる。オレンジと灰色のみで埋め尽くされた空。うん、これぞ夕焼けだ。
家に帰ったら何をしよう。そんなことを、芝生で走り回る柴犬を眺めながら考える。そういえば、まだ見てないテレビの録画が残っている。今のうちに消化してしまおうか。あるいは、居間の窓を全開にして、春風を全身に浴びながらごろごろするというのもアリかもしれない。……いや待て。今年はもう受験生なんだ。そろそろ、勉強もしっかりやらないとやばい気がする。前髪を風に弄ばれながらもあれこれ考えてみるが、なかなかやることが決まらない。でもやっぱり、今のうちに受験生を惑わすような存在とは決別しておきたい思いはある。そうなると録画番組なんだけど――今日はなんだか勉強するのも悪い気がしなかった。うーん……。ええい、ままよ! 家に帰って一番最初にやりたくなったものをやろう。
そう思い立って2時間後、結局目の前にあるのはスマホの画面だった。てか、こうなるのは最初から薄々わかっていた。家に帰って休憩がてら見てたはずのSNS。気付けば延々と眺めていた、なんてことはもはや人類共通の経験だろう。嗚呼、罪深きSNS。こうやって一歩、また一歩と、私にダメ人間への道を歩ませるんだ……。
――なんて、嘆いていてもしょうがない。過ぎ去った時間はもう戻らないのだから。ならば、今すぐこの忌まわしきSNSを中断して、勉強机に向かうんだ! 大丈夫。まだ20時も越えてない。今から頑張って集中すれば、少なくとも3時間は勉強できるはずだ。明るい将来のために、この鉛のように重い身体にも鞭打って、必死に机に食らいつこう。
21時25分。少し前に気分転換のため開けた窓も、そこから入り込む風がむやみにノートをめくってうっとうしいだけだ。ほぼ机に突っ伏したような体勢で、やっと数学の勉強を終える。
おかしい。予定では、今頃には半分くらいの科目を終えているはずだったのに。なんとまだ数学しか終わっていない。しかも、もう体力が限界だ。無性に眠い。ベッドが恋しくて仕方ない。
――もういっそ、やめてしまおうか。だって、今日できなかった分は、明日やればいいんだ。なあに、そんなに難しいことじゃない。今日はスマホで2時間ほど時間を無駄にしたけれど、明日はそんな馬鹿な真似はしないはずだ。帰宅したら、即机に向かう。いたって簡単だろう?
そう自分に言い聞かせ、席を立つ。振り返れば、そこには楽園が広がっていた。
ああ、今日はもう何もしなくていい。あとは何も考えずに、ふかふかのベッドに身を任せればいいだけだ。そう思うが最後、言うに言われぬ幸福感が勢いよくなだれ込んでくる。もはや後戻りはできまい。
ベッドに潜ると、まるでその瞬間が人生の到着点であるかのように、すぐさま意識が遠のいていった。
おやすみ、世界。
開けっ放しの窓からさまよいこんだ風が、ほとんど何も書かれていないノートをぱらぱらとめくった。
なんでもない日 Natsumi @Haapy
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