第2話 少女

 教師の声が遠くなったり、近くなったり。それは波のよう。けれど、しかし、海水で作られた波の音とはほど遠い心地と耳障り。

 目を開けたり閉じたりを緩慢に繰り返す。生理的な行動だ。眠りに抗いつつ、負けてしまいそうなだけ。

 つまんないの声を欠伸で飲み込むと、細く音のないげっぷが一つ。また欠伸が出てきてしまい、今度は飲み込まずに手で隠した。

 時計の針はもしかしたら止まってしまっているのだ。今、この時間も、周りの学生と教師達だけが動き流れる時の中に居て、少女だけ底に落ちていくように取り残されてしまっている。

 そんな想像をひとしきりして、また時計に視線を合わせる。

 教室前の扉と仲が悪いのか、直角の向きにある時計は秒針ばかりが狂ったように回り続けていた。

 つまらないと、心底感じいる。この歴史の授業はいったい何の糧となるのか少女にはわからない。わからないからどう向き合えばいいのかもわからず、自然と苦手になる。

 夢現の境目を泳いで、もういいや、とあきらめてしまいながらも、目を閉じてしまう事への不安。

 置き去りにされてしまったらどうしよう。独りぼっちになってしまったどうやってこの教室で生きていけばいいのか。少女は、その考えずともやってくる想像がずっと不安だった。

 幸いなことにそういった状況に置かれた事は今のところない。

 しかし、そういった状況を目の当たりにしたことなら。何回かある。

 一人になった者達は、皆、決まって俯くのだ。目線をあげてしまえば一人だと再確認してしまうことになるからだろうと、少女は憶測をたてている。

 ノートにペン先をくっつけ何とか動かす。つい今し方、もういいやと諦めたはずなのに、縋って何も頭には残らず遠ざかる教師の声を集め、脳の先端で何度か反芻してみるが、意味を理解する前に、思考はねむい、ねむいとぼんやり今を手放そうとする。

 目元を擦った。重い瞼は、相変わらず重たいまま。

 ぼう、と現実が何処にあるのかを見て探していた少女の耳に、控えめではあるけれど遠慮のない扉を開閉する音。

 教師の声が、寸の間、止まり俄に教師の作り出してた世界が様相を変える。

 少女の目は不思議と冴え渡り、後ろの扉を忍び見た。

 一抱えより少々小さい植木鉢と、この学校に通っているならばありふれた男子用の制服。肩に駆けた鞄は、太っていないが細すぎず。かといって、中身が入っている様には見えない。新品ほどには角がしっかりと威張っていた。

 教師の一瞥を者ともせず、生徒からの好奇や囁きも意に介さず、悪びれもなく席に着く様子はまるで「一人」と言う言葉を体言している様だった。

 周りの声も、視線も、存在すらも少年の意識の外にある。誰も彼と同じ世界に住むことは疎か、旅行で遊びに行くことだってできない。

 少女は、ノートの一点にペン先を刺したまま、窓際から反対の壁際の席に座った少年の斜後ろ姿を眺めた。

 頬が白く光っているのは、窓からの陽光が彼を照らすから。授業途中の登校にも関わらず、少年が鞄から取り出したのは、ノート一冊とペンだけ。

 見るからに大切にしている植木鉢を教科書の代わりに机に置いて、狭そうにノートにペンを押しつけ文字を綴りだした。

 いいな、と少女は口内で舌先を転がす。

 目が、いつまでたっても少年から離れない。あんなに眠かったはずであるのに、今ではペン先がノートの上を滑る。少し身体の重心を横にずらし。頬杖をついて少年の様子を少女は観察した。

 少年が植木鉢の中を撫でた。いつもいつも変わらぬぶちょう面というわけでは無いけれど、感情も心も見えない真顔に浮かんだ微笑。少女の手にしたペンが痛い苦しいと悲鳴が上がるほど、熱帯びていた。

 ーーいいな。

 少女は、もう、見ていられなくて、しかし眠たくもなくて仕方なく本当に渋々と黒板にいつの間にやら書き足されていた文字を書き写しはじめた。ノートには先ほどまでペン先を当てていた部分にフニャフニャに曲がった線が罫線からはみ出していた。

 とってもイヤだった。その線を見ていると、イヤな気持ちになった。だから修正テープで消した。どうどうと腹の中でなにやら獣が鳴いている。それの声に耳を傾けることが怖くて、たいして理解もできていない教科書とノートに集中するけれど視線は二つを行ったりきたり。

 歯と歯をすりあわせ我慢していたが、堪えきれずに少年の白く光る頬を見ると、もうノートにへばりつくようにして文字を書くことに集中していた。

 安堵だろうか、と少女は考える。さっきまで鳴いていた獣がおとなしくなって、少女はチャイムが鳴るまで少年を見守っているつもりで見つめていた。

 少年とは、どんな人なのか、と問われても少女には何とも答える事ができない。

 植木鉢を大切そうに抱えている人、の印象が強烈なせいもあれど、少女は少年と一度も口を利いたことがない。

 不必要になった教科書を机の中に仕舞い、ノートは鞄の中にしまう。家に帰って見返すつもりもないのだが、あまり綺麗じゃない字も、写し取り方も何かの拍子に他人に見られたくはない。次の授業がなんだったかと考えながら少年を見る。変わらずノートにへばりついていた。

 その姿に安心した。

 小さな吐息に引かれたのは、少年では無く少女の前の席に座っている友人。椅子に座ったままこっそり腰をひねって少女へと振り返る。その顔には、押しつぶした笑みがくしゃくしゃになって乗っかっていた。

「今日も植木鉢遅刻だったね」

「うん、そうだね」

「あれ、中身なんだろう。長いことずっと土のまんまだけど、やっぱり土しかはいってないのかな」

「さぁ」

 と、口にし少女は幾ばくか過去を振り返る。

 確かに友人の言うとおり、植木鉢はずっと土の入った植木鉢のまんま。中から芽が出てきたことは一度もない。かといって、校内で少年が植木鉢に水を与えている様子もなく、しかし。毎日しっかりと観察していることから、やはり何かしらを育てて居るのだろう。

「近くで見たことないから、良くわかんない」

 少女の回答に、自分から聞いたくせして「ふうん」と友人はすげない。が次の瞬間には、「そういえば」と声を潜め、顔をよせ少女の後ろに目をやりこそこそと話し出す。

「今日、あいつの様子おかしくない?」

 あいつ、の指し示すところが誰であるの少女は寸の間わからなかった。けれど、友人の視線を辿りゆっくりと何気なく振り返って見れば綺麗な机の一点を見つめている男子が一人。静かすぎる呼吸を繰り返している。

「いつもは、どんなんだっけ」

「え? ああ、あんまり休み時間に席に居なかったけ」

「……さあ」

 どうだっただろうか。少女は思いだそうとしても今し方振り返り見たはずの男子の顔がもう思い出せない。

 チャイムと、教師の号令を聞き流し少女は隣の席を見て、次の教科を確認し机の中から目的の教科書を引っ張りだした。

「いつもはわいわい五月蠅いし、数人で固まって歩いて行動してさ、すっごく邪魔なのに朝からすごく静かであんな調子。誰かに声をかけられてもああ、とか、うんとかばっかで……」

 友人の声があからさまに声量を上げた。

「気持ち悪いなぁ」

 とがった視線が少女の脇を通って、後ろの男子に向けられていた。横を通るだけの友人の視線が煩わしい。

「無反応なんだけど」

「ほっときなよ」

「つまんないね」

 どうして、こうもわざわざ突っかかって行くのだろう。後ろの男子が無反応だったから良かったものの、もしも怒り出したらどうしたのだろうか。ましてや、つまらない、などと言うけれど誰もあなたのを楽しませる為にこの場所に来ている訳じゃないの。そう首と胸との間で言葉が上下している。

「次の授業数学だ。めんどくさいなぁ」

 前に向き直った友人は、机の中から取り出した教科書とノートを乱暴におくとスマホをいじりだした。

 少女も鞄のなかからノートを取りだし、机の上に置いた。

 今の瞬間がつまらなかった。

 そういってしまえるほどの我の強さは少女にはない。教科書を開いて眺めるフリをしながら、少年を見る。

 彼の周りは境界線でもあるのか、一定の距離を開けて人が寄りついていない。

 いいな。そう少女は胸内でつぶやいた。

 静かで会ることも、少年もいいな。

 少女の喉が、鳴った。



 授業終わり、ホームルームもそこそこに解散となった教室からあっという間に生徒が帰路につく。

 ハーメルンの笛吹、という言葉を思い浮かべるも少女は正しくその内容はしらない。かといって、わざわざ調べたり読んだりするつもりもない。

 前の席の友人は。ホームルームが終わるなり手を振って帰ってしまった。べつにどうでも良いが、少女の座る席から友人の机の中が丸見えで教科書からノート、筆記用具までぎゅうぎゅうに詰まっていることが少し気になった。

 そんなことを考えている少女の耳に、もぞもぞと虫が道端ではい動くような音が背後で聞こえる。

 ノートを鞄に詰め、一冊たりとも忘れていないか入念チェックした後、教科書を鍵付きのロッカーにしまおうと立ち上がる。

 そのついでに。音の元を視界に入れた。

 友人はなにかしら話題にあげていた男子生徒が膝に乗せた鞄に顔をつっこむようにして何かをしている。先も今も興味なんてなかったから横を素通りする時、足下に落ちた白い粒の多さに困惑し、眉間に力が勝手にはいってしまう。

 踏まないように避けロッカーに教科書をしまい終わっても、まだもぞもぞと動いている男子学生の背後から寸の間、足を止めて様子をうかがった。

 顔をつっこんだ鞄の端っこから、白い粒々がポロリ、ぽろりと零れ落ちる。

 目で追いかけてると、先ほど少女がよけた床の上だった。白いつぶは、落ちた床の上で、もぞもぞ蠢いていた。

(気持ち悪い)

 踵が後ずさり、少女は息を詰める。このまま見ていたい気持ちはまったく無いのだけれど、目がはなせない上に鞄を取りに近づかなくてはならない。

 少女が逡巡しているうちに、イヤな想像が頭の中を巡る。もし、男子学生が顔を上げ、さらに背後を振り返ったらどうしたらいいのか。想像の男子学生と目があい、少女の肌という肌、頭皮に至るまで痺れた冷たさが走る。

 もぞもぞと動いていた男子学生の動きが、止まった。

 ゆっくりと顔を上げる様子が、少女を急かす。ホップ・ステップではないが床にばらまかれた白いつぶを避け、少女は鞄を掴むとそのまま振り返らずに教室を駆け出た。

 扉から出た真向かいにある窓から差し込む強い日差しは暖かかった。


 そのまま早足で昇降口まで駆け下りると、見慣れた背中を見つけた。

 先に帰ったはずの友人と、その少し後ろ隣を歩く少年。

 時はどうしたことか少女を遠ざける。遠ざかっていく背中があるのだから。時の流れは正しくあるはずだというのに、少女は無の空間に突然にして閉じこめられてしまった。

 つかんだ鞄を肩に掛け、持ち手を握力に任せて握りしめる。昇降口の砂っぽい臭いと、靴の臭いが強烈に鼻孔に刺さり苛立ちを刺激される。

 動かない足は、上履きの中で足の指がぎゅっと壊れてしまいそうなほど縮こまって、血流が行き場をなくし、そして今し方まで正常だった血流は逆流する。

 なんと名を付けたらいいのか。なんと呼んであげればいいのか。


 少女の身体の中でもう一人の少女がいつの間にか存在していた。その子が少女の目を得て外の世界を、遠ざかる友人と少年の背中を見開いた黒々とした瞳孔で見つめているのが、他人事のようにけれどはっきりとわかる。

 飛び出してしまうほどではない。まだ、冷静におとなしく少女の腹の中でその子はじっと耐えている事ができる。そっと腹に手を当てた少女は、ゆるり、ゆるり臍の辺りを撫でさすり、もう見えなくなった二人の背中が、いまだそこにある幻影を見つめている。下唇と眉間が鈍く痛んだ。


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土被姫 千馨.H @tikakukabinarara

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