土被姫

千馨.H

第1話 少年

 少年はずっと大切にしているものがあった。

 茶色の植木鉢。

 柔らかく湿った土がふんわりと詰まった、一抱えよりも少し小さなサイズの植木鉢。

 その中には、少年の大切な「お姫さま」が眠っている。


少年


 少年の朝は、毎日の中で一番変化のない時間帯だ。

 スマホのアラームで目が覚め、じっとり寝汗で湿った布団の中で何度か瞬く。

 そうしているうちに、母が「朝よ」と起こしに来て、「わかった」ち返事を返して身体を起こすのだ。

 いったい何年こんな朝を繰り返しているのだろう。そして、後何年この朝を繰り返すのだろう。

 雨戸の閉まっていない窓から差し込んだ朝日は窓を突き抜け少年の部屋の中を半ばまで照らし暴く。

 物が壁際に押しつけられた部屋の中で唯一、真ん中に鎮座するのは物言わぬ、どこにでもある素焼きの植木鉢。

 ベッドから足をおろすと、フローリングの床が足裏にペットりと張り付いた。

 足を持ち上げ引き剥がすと、薄皮が向けたような疑似感覚。

 少年は、ゆったりとゆっくりと植木鉢に近づいて中をのぞき込んだ。

 かがみ込んで顔を近づければ、土の匂いは濃く、むせそうになる。それを唾液ともども飲み込んで、植木鉢の真ん中を人差し指でちょっと撫でた。

 指の腹に湿って色濃く、黒っぽい土がつく。それを見つめていると、砂糖の粒が頭の中に浮かび上がった。

「おはよう、お姫さま」

 少年は、この代わり映えのしない朝の時間の中で、この一時だけは好きだとはっきりと言いきる事ができた。

 

 制服に着替え階段を下り、リビングに向かうと、忙しそうな母親が広すぎず狭すぎずの室内でしつこく往来を繰り返していた。

 スーツを着て、腕時計をはめているのに、テレビ画面に映る時間を気にしてニュースの内容なんてまったく気にしていない。そして、植木鉢を抱えた少年にも。

「早く食べちゃって」

 父親はもう出勤したのだろう。

 以前は両親一緒に家を出ていたのに。

 以前は、両親の間で会話のつきぬ家庭だったのに。

 今では、二人とも他人のよう。そして、少年もそんな両親に対して他人のようであって他人事だった。

 寂しいとか、哀しいとかそういった湿り気を帯びて水滴のように胸にたまる重たさや不快感はない。

 以前のように、ともこれっぽっちも少年は思わない。

 思う暇なんて少年にはない。思うための心のスペースもない。

 少年の胸を閉めているのは、胸に抱えてあえ茶色の植木鉢、その中に眠るお姫さまだけ。

 焼いてもいない食パンを2枚食べて、少年はお姫様を抱えて玄関まで行った。

 一緒に登校するのだ。

 母親のおざなりの「行ってらっしゃい」に、少年は譫言のような「うん」を鳴らす。

 玄関を出ると、形の悪い雲が浮かぶ空。

 黒みを帯びた部分と灰色の部分が混ざった、アスファルト。掠れて読めない止まれの文字。足早な同年代と大人たち。

 少年は、その中に混じっているといつも消されてしまう妄想を頭の中に克明に思い描く。それは、いつか必ずくる未来のようで背筋がひきつってしまいそうになる。

 そのせいなのか、少年は人が怖くてたまらなかった。

 人の目が、

 人の存在が、

 似た姿をしているのに、まったく分かり合えない他人が。

 前を向いて歩けなかった日々はいくらでもあったが、今は俯けば胸に抱えた植木鉢の中をのぞき込むことができる。動かない土と土の隙間からゆうるりお姫さまの寝息が立ち上ってくるようで、そう思うと少年の胸には甘酸っぱい香りが広がった。

 混雑した駅の隅で、植木鉢を抱えて棒立ちのまま人の流れが少なくなるのを少年は待っていた。その間はずっと植木鉢の中をのぞき込んでいた。

 学校に着くとすでに一限が始まっている。

 本来ならば遅刻届をもらいに教員室に向かわなくてはならないのだけれど、少年は立ち寄らずに決めつけられた教室にまっすぐに向かい、扉を開ける。一応、ポーズをとって後ろの扉からだ。

 扉の開く音に、一人、二人振り向く顔が合ったが、ほとんどは反応せずに黒板と見つめ合い、顔色は変わらぬまま。少年の事が見えていない教師が喋り続ける歴史の説明を聞いていた。

 少年の席は、廊下側に近い中央より一つ前。視線を背中と横顔に浴びながら着席する。胸に抱えた植木鉢をそっと机の上に置いて肩にひっかけた鞄の中からノートを一冊引っ張り出した。

 開いた新しいページには、元々印刷されている罫線のみ。

 少年は、まっさらなそこにノートと一緒に引っ張り出したペンの先を置いた。

 教師の声が少年の耳元から遠ざかる。周りに居る同級生の存在も希薄になり、植木鉢から漂う土の匂いだけが少年を満たす。

 思いだし、考察し、ノートを埋める文字が集まって作り出す集合体の意味は、教師の教える歴史ではない。

 横目で植木鉢の中をうかがうと、砂糖粒とよく似た土が、少し、ほんのわずかに動いた気がする。

 それに目ざとく気がついた少年は、目線だけを持ち上げ、天井近くの壁に大罪を犯し磔にされている丸い針時計の時間を確認し、疑問に思った。

 いつもならば、まだ深く眠り、動くことなど亡いはずだというのに。

 ノートを一枚遡った。真っ白だったノートにアブラムシの大群が群がる様相を彷彿とさせる文字の群。読み返すことすら難儀しそうな小さな文字を少年は顔を近づけて辿っていく。

 指先を這わせ、目線がズレてしまわぬように目を凝らす。そして、止まった指先と視線。

 そこには、11:48とあった。

 もう一度、磔にされてなお、時を告げる大罪を犯し続ける時計を見た。

 10:15か16か。

 そして、また文字を追いかけはじめては、知りたい情報に行き当たると「あぁ」、胸中のみで得心の声を安堵ととも響かせる。

 昨日は、一人だった。それも、あまり良くなかった。

 お姫さまはお腹が空いたのだろう。

 少年の口元に苦笑とも微笑ましさともとれる一笑が浮かび、植木鉢の真ん中の土を指先で、雪を溶かさぬようにと言わんばかりに、心を砕いて優しく触れるか触れないか、土と指の空間を、表面張力の緊張をもったようにひどく繊細な感覚でもって撫でる。

 砂粒は動かない。外からも内からも。

 少年は満足したように、またノートにペン先をつける。文字を書きながら頭の中で考えるのだ。今日のご飯はどうしようかと。手を止め、窓をみるフリをして教室内を見渡していると、一人の少女と目があった。

 眠気を誘う教師の声が少女の中に吸い込まれていく。

 後ろめたそうな目元をした少女は、机の上に広げている教科書とノートに懺悔を告白するかのような重たいしんと静まった空気をまとい俯いて、手にしたペンを握ったまま、動くことはなかった。

 少年はノートに目を落とす。あたかも少女の真似をするように。しかし、なぜあんなにも、後ろめたそうな目元であったのかまでは、真似てもわかりはしなかった。

 しばし手を止め、考え込んだ少年の頭の中でポップコーンが弾けた。植木鉢の中から微かに「キイキイ」ときしむ音。

 少年の手は、その音につられてまた動き出した。


 放課後になるまで少年は、ノートに文字を書き続けた。

 そのせいだけではないが、そのせいもあって少年に友人と呼べる者は一人もいない。彼自身、その事実に気にはしていないし、一日中植木鉢をのぞき込んでノートを書き続ける自らの異様性にも無頓着だった。

 遠巻きな視線は感じるけれど、意識は植木鉢の土の中から聞こえてくる「キイキイ」と言う小さなきしむ音に執着する。

 そんな少年の居る教室内は、いつの間にかまばらになっていた。教室内には、教師の声ではなく放課後のざわめきとすり替わってしまっていた。

 そのことに気がついた少年は鞄の中にノートとペンをしまい、植木鉢を抱き抱える。そうして教室を出ようとしたときになって、授業中に目が合った少女が俯いてノートを取っている事に気がついた。

 黒板の内容を必死になって書き取っているのだろうと思ったが、黒板に残っているのは薄く雲がかった文字の名残ばかりでなにもない。

 しかし、少女の横顔は真剣だった。

 目元に浮かんだ後ろめたさんなど一時のまやかしであったのか、生気溢れ夢中でノートに何事かを書き込んでいる。

 わずかにあいた口元が蠢き、文字を書く手元と頭がかみ合っていないのだろう、じれったそうに眉間に皺をよせて、けれど止まることはなかった。

 何か、得体のしれない心臓の音。

 恐怖か、それとも興味か。対局に位置しているだろう情感が、少年の胸中であらがう事なく肩を並べている。

 勝手にもごつく口元。しかし、言葉を持たない少年は、破裂しそうな胸をどう落ち着けたらいいのかわからない。

 植木鉢を抱く手に力を込めたが、その胸に抱えるモノが何であるのか少年の内から砂の城のように消えていく。

 きっと少女は風なのだ。

 少年が口を開いた。

 少女が顔を上げた。

 その瞬間を待っていかのように、植木鉢の中から「キイキイ」ときしむ音がする。

 少年の胸が凍り付いた。今までの事象が自身の理から外れ、他人の情感を外から無感動に眺めているように、少年の何かが抜け落ち、植木鉢の存在に囚われる。

 少年の体温を奪いぬるくなった植木鉢を抱え直し、少年は教室を出る。

 その背中を少女は俯き加減のまま、視線だけで追いかけていた。


 駅までの雑踏は、朝と人の顔ぶれが少々異なる。

 朝は、学生に会社員のそっくりな顔がほぼ同じ姿勢で同じ方向に向かって歩いていたが、夕方より一歩届かぬ微妙な今の時間帯は、ほとんど学生ばかりで世界が構築されている。お年寄りや主婦も居ないわけではない。ただ、学生の数に圧倒され存在感を食われてしまっているのが実状だった。

 少年は駅に向か道すがらわざとゲームセンターのある横道を通って裏道へと歩みを進める。

 単一感情の爆発。大きな笑い声が裏路地から空へと叩き出され、カラスがほの白い灰の瞬きを繰り返し、見下す。

 数人寄り集まって壊れた円を作りお喋りに興じる学生たちは、少年と同じ制服を着ていた。

 クラスメイトかもしれない。

 だが、顔に見覚えはない。

 五月蠅い会話はすべて筒抜けだが、学生の一人が「誰にも言うなよ」と釘を指している大きな声が滑稽だった。

 少年は胸に抱えた植木鉢をのぞき込む。

「五月蠅いけれど、あれでいい?」

 淑やかで穏やかな行儀の良い春の日差しの吐息。それを一時身に宿した少年の甘い声。

 土の中から「キイ」ときしむ音が返事をしたように聞こえた。

「わかった」

 首肯し、少年は学生たちの元へと歩き出す。あたかも友人たちに合流する時の軽やかな足取りと気安さで。

 近づく少年に気がついた学生の一人が、隣でスマホをいじっていた男子学生を肘で小突いた。

 スマホから持ち上がった顔は、刹那現実感から離れた夢現にぼやけた目玉の焦点を会わせ、このとき、この場所へとピントを合わせる。

 周りの学生達の五月蠅い秘密を垂れ流し居た口が閉じる。獲物を見つけた視線が突如、数対。一斉にそれは少年を突き刺した。

 スマホをいじっていた男子学生の顔が見るからに変化する。嘲笑と軽蔑、そして、高慢な恍惚を覚える者特有の汚らしく歪んだ顔。

 向けられた者が、嫌悪を覚えるその小憎たらしい表情が、少年は案外好きだ。人間であることの証明のように思えてならないのだ。

 高い場所でカラスが鳴いた。

 少年の足取りは変わらず、一本の線を引いたかのように静かになった裏道には、壁を隔てて表通りの喧噪がくぐもって混じっているのがわかった。

 そして、少年と学生達との距離が近づき、とうとう横を通り過ぎる。が、嘲笑は忍び足で少年の後を付いてくる。

 学生達は小さな円を作り、背後を左右を伺いまた獲物に目を戻すと、思いの外近い場所で少年が立ち止まっていた。学生達の口は示し合わされたように閉じ、そこにできあがったのは居心地の悪い八つ当たりの不機嫌な空気。学生の一人がゲームセンターの中を顎でしゃくって指した。

 数人が俯いたまま早歩きで建物内に入っていくその最後尾。スマホをいじっていた男子学生は鼻の奥の粘膜に直接ツンと刺激的な匂いを感じ、足を止め鼻の下を指で擦る。乾いた皮膚、鼻を鳴らし匂いを確かめて見ても血の匂いはない。先にゲームセンター内へと引っ込んでしまった数人を追いかけようとして、ふと横目に入ったのは、少年の笑顔。

 学生の足が止まる。そして、時も空気も。音の所在は何処、ここは何処だと、男子学生は突如、自身に問いただした。

 少年の足音が近づいてくる。わずかに足裏を擦る耳に残る足音。

 目の前にはゲームセンターと繋がる自動ドアがあるのに、男子学生の足は生き物であることを忘れ、血の通わぬ無機物へとなり果ててしまったよう。

 視線だけが自由だ、がそれも何処を見ていいのかわからない。

 土の臭いが、男子学生の半身を包み込んだ。

「ねぇ」

 と、これは少年の呼びかけ。薄い笑みを浮かて居るのだろうと想像できる声音の中に、どこか近い場所で「キイキイ」と軋む音が混じる。

「ねぇ」

 再び少年が、男子学生に呼びかける。

「お腹空いたんだって」

 「誰が」の応答は男子学生の半開きになった口から出てくることはなかった。代わりに何かが顔にひっついた痛み。耐えられない痛みではない、引っかかりのある物に触れたような、そんな感触に突然視界を薄暗くされたら、当然だが驚く。だが、男子学生の口は音を吐き出すことはかなわず、代わりに口内いっぱいに広がったのは土の臭い。

 抵抗に暴れ出すはずだった身体から力が抜け、男子学生はその場に膝をついてしまった。

 膝小僧の下で、揺れる男子学生に会わせて小石が制服越しに皮膚をこねる。

 どれほどの時間だったのかは、判然としない。ただ口の中でキイキイと反響した音だけが脳に張り付いた。

 息苦しさも、視界が晴れた頃目尻に浮かんだ涙によって知ることができた。

 口内が奇妙なまでにべとつく。少しの甘みと、じゃりじゃりとした土が舌にも、頬の内側にも、喉にもくっついて噎せ返った。

 口を閉じることが怖かった。べとつく口内から何とか唾液を集め地面に吐き出して見ると茶色に変色し、さらによく見るとわずかな光の反射が蠢いている。

 それを見た男子学生は、気が付いてしまった。

 吐き出した唾液中に、小さな虫が一匹、二匹と数えられないほどたくさん蠢いている。

 土の粒も混ざっているが、それよりも断然多い名もわからぬ小さすぎて良くわからぬ虫。

 吐き気に身をまかせた。口を覆うことも、閉じることもできるはずがない。唾液を飲み込むことだって、戦慄く歯と歯をかみ合わせることだって学生にはできない。悍ましさと信じがたい目の前の現実。蠢く虫が大量に居るであろう口を大きく開け、熱湯かと思うほどに熱い胃液を吐き出した。

「お腹いっぱいになった?」

 少年は問う。優しい土がまだまだ弱い種を守る声音で。

 生理的であるのか、はたまた追いつかぬ感情故か嘔吐したものと同じ熱さをした涙を、地面の胃液だまりにふりかけながら男子学生は、視線を動かす。唯一、自由な視線。

 見なければ良かったとすぐさま後悔に涙の粒を大きくした。

 少年が抱きかかえた植木鉢の中で、茶色い何かが動いている。蝉の幼虫に似た形は子猫ほどの大きさがあった。

 それが前足らしき部分をぎこちなく動かし、植木鉢の中で土を掘って、体をよじり多分尻だろう部分から土の中へと自ら埋まっていく。その時、男子学生と目が合ったその生き物の顔には、たくさんの蠢く小さな白い粒と、ぬめった粘液をたれ流す口らしき部分が見えた。

 甲虫特有の、硬質で無感情な目玉が二つ。顔の横あたりで飛び出している。

「可愛いでしょ、お姫さま」

 性別なんてわかるはずもない。

 まず、少年の言う可愛いなんて、思うわけがない。

 細い手足の先端にゴキブリのような棘が付いていた。その手が動く度に、「ギチギチ」と音がする。

 口元だろう場所からはみ出た管のような器官。そこから「キイキイ」と軋む音が鳴ってひどく耳障りだった。

 吐き気と、耳障りな音。どちらが男子学生の内側で生まれたものを肥大させるだろう。

 否、そのどちらでもなく、硬質な目玉かもしれない。

 否、学生の吐き出したものの中に蠢くあまたの小さな虫かもしれない。

 きっとその全てが、目に見えぬものを育んでは居るけれど、男子学生の目にうつる景色の中、一番それを育て慈しみ大きくするのは、少年の存在だ。

「なんだそれ」

 土の中に潜る虫を、愛おしく眺めていた少年の双眸が。まったく温度を変えて吐瀉物の前に膝をつく学生を見下す。

 ゲームセンターの自動ドアの隙間から漏れる音、そっち側へいけば現実に帰る事ができるはずなのに、学生の身体には力が入りそうにない。歩くことはおろか、這う事だってできそうにない。

「それっていうなよ、お姫さまなんだよ」

 どうして友人は一人も後を追いかけて来ない学生の様子を探しに来てくれないのか。縋る顔が、自動ドアにほどこされた店名ロゴの隙間から中を覗く。見知った数人の背中は、一枚のドアを隔てた非現実な現実にまったく気が付かずクレーンゲームの前に集まって筐体の中をのぞき込んでいる。

 なんだよ、と思うとあれだけ閉じることを嫌悪していた口は閉じ、奥歯でぶちぶちと潰れる音がこもって脳に直接語る。

 甘みと苦み。奥の方にある酸っぱさ。

 口の中にあふるる味を飲み込むことに躊躇などなかった。

 ぶつぶつした物が、下っていく。残った物が口内で蠢く。

「ありがとうね。ごちそうさま」

 少年の声を追いかけ振り向くと、植木鉢を抱えた少年は背を向けて遠ざかって行ってしまうところだった。

 お前も置いていくのか。

 先まで大きく育っていたのものが、いつのまにか萎んで小さく膝を抱えている。

 男子学生は口元を袖で拭い、ゲームセンターに入ることなく駅に向かって、少年とは違う道を選んで向かっていった。


 翌朝の事だ。

 少年が久しく一限に間にあい登校すると、廊下の隅に昨日ゲームセンターの裏道で会った学生達が肩を寄せ集まっていた。

 特に気になった訳ではない。ただ目に入ったから顔を眺めただけのこと。

 その中に、スマホをいじっていた学生の姿はない。

(まあ、そうだろうね)

 少年は不思議に思うことなく教室に入った。そのとき、学生の一人が訝しそうにそして、理由のわからぬ気味の悪さを宿した目を向けてきたが興味の矛先がまったく違う少年が気が付くはずもない。

 教室に入ると、ちらほらと向けられる驚きと好奇心を隠さぬ視線の鏃。遠慮のないそれを、やはり少年は無視して席に着いた。鞄を机脇のフックにひっかけ、中からノートを取りだし植木鉢の中をのぞこむ。

 ノートを開きペン先を置いて。ふといつもよりも教室の窓際からはいる陽光が薄暗い気がしてわずかに顔を上げ漫然とした視界で全体的に眺め見る。

 少し開いた窓から、教室内をのぞき込む風。それが良く良く伺い見ているのはきっと席に座り俯いて、なにをする出もなく一点を見つめている男子学生だろう。

 「お」、と少年は久しぶりに目をわずかに見張る。動きの悪い瞼が引き連れ痛い。

 窓際で俯いているのは、昨日、スマホをいじってい男子学生だ。横顔だけでは判断してしまうには、つきあいは浅いが、多分少年は間違っていない。

 男子学生の手に、スマホは無い。彼の両手は緩く握られ机の上にそろえて並んでいた。

 机のどこかを見つめる目元は暗い。緩く結ばれた口元も。

 音を出さずに、少年は一笑した。が、すぐに口元を引き結んで、ノートに指先を這わせる。

 もう、男子学生に興味はなかった。少年からすると、なるべくしてなったっとしか言いようがないのだ。ただ。家に引きこもるではなく、登校しいた事に関しては驚きと純朴な感嘆とを思い抱かずには居られない。

 なにせ、空腹だったお姫さまの、恐れ多くも「ごはん」になったのだ、だいたいの者ならば寝て起きて目を開けることはできても、身体を起こす事だって難しい。少年の両親は、どちらもしばらくの間はそうだった。

 数日は口も聞かずに、布団に生まれたかの如く、無言無音、無生気な生活をして、それから少しずつ動きだし人間に戻ろうとしていた。少年にはそう見えたのだ。

 男子学生がすごいのか。それともお姫さまの好みではなかったのか。

 植木鉢の中央を指先で撫でる。

 他人のことはどう手もいいと、投げ捨てた少年は「一人」の事だけで頭と胸の中をいっぱいにした。

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