第2話 隣の男

深夜2時。裕之はとっくに誰もいなくなった事務所で出張の準備をしていた。時折り風に音を立てる窓は早朝に出発する彼を急かしているようだった。


海外出張は初めてだ。世界各国の製造メーカーは生産コストの安い中国に製造拠点を移していた。裕之の勤める会社も同じ流れに乗っていた。国内で生産していたパソコン用の部品を中国に移管する。各部門から選出された7人のチームに裕之は選ばれた。他の6人はベテラン。20代は彼だけ。足を引っ張ってはいけない。不安と同じだけの資料が机の上に積み重なっていた。


明日は一人で移動しないといけない。他の6人はそれぞれの業務スケジュールに合わせて既に現地入りしていた。初めて作った紺色のパスポートは、まるで自分の未熟さの証明書のようだった。


翌朝。

飛行機の中は騒々しかった。知らない言葉が飛び交う。

離陸後、窓際に座る裕之にCAは無表情でヘッドホンを投げ渡した。国内線とはまるで違うサービス。食事はテレビで聞いたことのある〝フィッシュオアチキン〟で、裕之はチキンと答えた。食事も投げられるのではないかと一瞬不安になったが、それは大丈夫だった。


「一人で旅行かい?」隣の男が話しかけてきた。中国語で書かれてる機内誌を読んでたからてっきり外国人だと思ってたが日本人だった。

「いえ。出張です。」

男はゴルフクラブの部品を運んでいると言った、スーツケースいっぱいに部品を入れて、この半年で10往復以上してると苦笑いを浮かべた。

「大事なことを教えといてあげるよ。」中国の滞在地を話した裕之に、男は一瞬周りを気にしてゆっくりとビールを一口飲んだ。缶ビールを持つ左手小指の第一関節が無いことに裕之は気付いた。


「そこがどんな地域か知ってるか?」男は裕之の返事を待つ間もなく話を続けた。

「あそこは風俗の街だ。あんたはきっとカラオケに連れて行かれる。日本のカラオケとは違うぜ。女を買う場所だ。」


初めての海外出張。不安とプレッシャーの中、男の話は全くの予想外だった。これから仕事で行く場所が風俗の街?

「何十人もの女の中から選び放題だ。けど選ぶのは一人だけだぜ。」男は悪戯っぽく笑った。

裕之は興味がなかった。日本にだって有名な風俗街はある。システムが違うだけ。すぐに冷静になった。

「ここからは忠告だ。日本人は金持ちだと思われてる。結婚を迫られることがある。彼女たちが一番大切なのは故郷の家族だ。情に流されないことだ。」男は残り少なくなった缶ビールを飲み干すと独り言のように言った。「子供作らないようにな。」


空港に着くと男は入国審査場まで一緒にいてくれた。初めての海外の空港、入国。彼がいなければどんなに不安だったろうと思った。

税関を抜けると来客を待つプレートを持つ人集り。「あった。」会社と裕之の名前を書いたプレートはすんなり見つけることができた。プレートを持った男は無言のまま裕之のスーツケースを持つと足早に歩き出した。


舗装が悪く乗り心地の悪い車内。見たことない漢字のネオン。交通ルールはあるのだろうかと思うような運転。嗅いだことない匂い。裕之は自分が海外にいることを実感した。会社の人からは空港からホテルまで1時間半くらいと聞いていたが、その倍かかった。


ホテルに着くと生産移管先の会社の人が待っていた。日本人であることにホッとした。数時間前まで日本にいたのに、既に日本人が恋しかった。もう遅い時間。簡単に挨拶を済ますと彼は帰った。


ホテルの部屋を見渡す。立て付けの悪い窓を開けると生温い風が裕之の頬を撫でた。窓の外の鉄格子はその土地の治安の悪さを現しているようだった。

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