第4話 暗雲漂う不測の事態

◆ 11月、入試状況は風雲急を告げた。


 東大は総長が辞任した。学生は教授を拘束し、それを教授側は「不法監禁」と訴えた。東大出身の三島由紀夫らが『緊急の訴え』を世間に発表した。このように東大が入試中止へと大きく傾いたのがこの11月だった。初めて大量の逸物を見て気絶したドジな女子高生の噂もこの時期に霧散した。


 テレビのニュースを睨みながら、おそらく東大は入試中止に違いない、秋月は判断した。

 雪子には受験生として少しでもいいポジションを与えたい、それにはどうすればいいかを考えた。東京圏内の大学を考えた場合、まず国立1期校は理系を除くと、一橋大、お茶の水女子大、東京教育大、千葉大しかない。一橋は東大受験組が押し寄せるはずだ、まったく勝ち目はない。雪子は女子大はイヤだと言ったがこれも厳しいだろう。東大受験組の女子がやって来る。トップレベルの受験女子は男子よりも得点獲得能力は遥かに高い。そうなると千葉大しか残らないが、ここにも東大受験組が流れ込み、従来より15%以上は合格最低点がアップするだろう。


 国立2期校は埼玉大に決めた。決めたと言うよりもここしかない。2期校の入試は3月下旬だ。1期校の発表を待って入試が実施される。2期校の受験生は1期校に落ち、前後に受験した私立大学を落ち、ここしかないという学生がやって来る。そうそう埼玉大も油断は出来ない。落ちた学生の最後の砦になる。あれやこれやと考えていると雪子が不憫になる。どうしてこんな年に東京で受験するのか、西南大でも福岡大でもいいではないか、福岡で受験する方が遥かに楽なのになぜ雪子は東京に行くのだ。いくら考えても答は見つからなかった。


 秋月は担任の篠崎教諭に相談して学園を休ませることにした。だが、朝から秋月は教えることは出来ない。その代わりに膨大な宿題と過去問を置いて行った。秋月が訪れるのは早くて20時、遅いときは22時だ。


 健太に東京に行くと言おう。

 日曜日の朝、雪子は健太の家を訪れた。ずいぶん健太と会っていない気がする。東京に受験に行くことを話そうと思った。

「おはようございます。おばさん、ケンタはいますか?」

 ドタドタと階段を走り降りてきた健太は、

「どうしたんだ? ユッコ痩せたなあ。秋月からしごかれているのか? 大丈夫か。アイツのあだ名を知っているか、カミソリ秋月と言われている男だ。冷酷な男らしいぞ」

 健太の母は雪子を見つめて驚き、心配顔で尋ねた。

「ユッコちゃん、痩せたわねえ、まだ背中は痛いの? 本当に元気なの?」

「ケンタ、話を聞いて。私は東京の大学を受けるの、叔父さんの家に居候して大学に通うの。これは合格したらの話だけど、それを言いたくて来たの」

「そうか、上に行こう。オレの部屋で聞こう」


 そのとき、健太の母はダメと遮った。

「ここで話しなさい。自分の部屋じゃなくてここで話しなさい」

「なんだ、かあちゃん、息子を信じられないのかよ。オレはユッコをどうこうしようなんて気はこれっぽっちもない。かあちゃん、ユッコはこんなに傷んでいる。オレがいつもおぶって送り届けたときと同じだ」

「それでもダメ。もう小学生じゃない。男のアンタはいいとしても、ヘンな評判が立ったらユッコちゃんが可哀想じゃないか。私はちょっと買い物に行ってくるから、ここで話しなさい。竜太ぁ、ドーナッツあるよ。降りといで!」

 2階から降りてきた弟の竜太は雪子を見てニヤッと笑い、ドーナッツを頬張ってテレビの前にのっそりと座った。


「本当に行くのか?」

「そのつもりで勉強している。どこを受けるかはまだ決めてないけど、秋月先生にも言った。さすがに先生は混乱して怒った。先生には先生の考えがあったのに、急に東京に行きますと言ったものだから、ひどく怒った。ねぇ、ケンタはどこを受けるの、九大?」

「いや、オレの第一志望は神戸商船大学だ。あといくつかは受けるが浪人は出来ない。神戸商船以外は地元の大学を受ける予定だ。オレは東大紛争の影響はなさそうだが、ユッコは嵐の中に飛び込むのか。よく秋月が許したなあ。アイツはユッコを好きなんだろ? 星野さんがそう言った。あんなヤツのどこがいいんだ、ユッコ、しっかりしろよ。痩せすぎだ。こんなに痩せるほど勉強させるなんて普通じゃないぞ、狂っている、あの男は」

「ケンタ、先生のことをそんなふうに言わないで。先生は私が東京に行くことをやっとわかってくれた。これからは東京の受験に勝つための勉強をしようということになったの。しばらくケンタと会えないと思う。先生は妥協しない厳しい性格だから、キツイ勉強が続くと思うの。この時期に通常授業をやっている学園は休みなさいとまで言う人だから」


「ケンタ、今までありがとう。ケンタはいつも私をかばってくれた、守ってくれた。ドッジボールのときはケンタの後ろに隠れた。苦手な給食を全部食べてくれた。いつも保健室で寝てた私をおんぶして連れ帰ってくれた」 

 雪子の瞳からは今にも涙が溢れそうだ。竜太は聞こえないふりして黙々とドーナッツと格闘していた。


「ケンタ、いつか私に言ったよね。少しでも外の世界を知っておいたほうがいい、外の空気を吸え! 外を見ろって。そうなのかも知れない。そんなときになったのかも知れない。ケンタ、少しの間さようならするね」

「ユッコの気持ちはわかった。ユッコが東京に行くことは反対しない、むしろ賛成して応援したい。だがオレの夢も聞いてくれ。航海士になって外国航路に乗りたいんだ。何カ月も海の暮らしだ。どうだ、いいだろう。いつかユッコを乗せて世界を一周したい。これが夢だ。ユッコ頑張れ、オレも頑張る」


 健太は雪子の涙を拭こうとして近づいた。竜太がじっと見ていた。

「なんだ、竜太。そんなところにいたのか。ジャマだ、上へ行け、とっとと消えろ」と言ったとき、健太の母が帰って来た。

「話は済んだの?」

 健太はちえっと舌打ちをした。


 健太は考えた。ユッコが東京へ行ってしまうということは、秋月の視界から消えることだ。そう悪い話ではないな。ユッコが東京でオレは神戸だ。福岡を離れられないアイツよりも近い、そう慰めた。



◆ 東大入試中止は国立大のほかに東京の私立大全てが影響を受けた。


 国立1期校の入試は例年3月3日と4日だ。その前後に私立大学の入試がある。いつ上京するかによって私立の受験校を選ばなくてはならない。早稲田の入試は学部によって異なるが、1期校が終わってまもなく開始される。雪子の希望どおり日本中から男子が殺到する大学だ。看板学部の政経学部は無理だ。ここは東大流れ組が押し寄せるだろう。商学部、法学部、教育学部、文学部、社会科学部といろいろあるが、女子が多い文学部は選択肢から外そう。政経以外の学部は過去の合格最低点を完全にクリアしているが、44年度の入試は3教科合計で100点アップを目指さなければ勝算は立たない。早稲田の他に法政、明治、立教まで視野に入れる必要はあるだろうか。


 秋月は普段は吸わない煙草の煙を天井に吐きながら、眠れない夜を待った。いつからだろう、ベッドに入っても眠れない。この説明で本当に理解したかと不安になる。合格させたいが、合格したらアイツは俺から翔び立ってしまう。どうすれば? 自問自答する。考えれば考えるほど眠れず、やっと明け方の僅かな時間を微睡むだけだった。


 どうやら雪子は覚悟を決めたようだ。置き土産の宿題は完璧にやり遂げている。多少の誤答は大目に見よう。時間との闘いだ。細かいことには眼をつぶろう。全体で何点を獲得できるかだ。雪子は精神的に不安定な時期を徐々に脱してはいるが、疲労が蓄積しているのか時々表情が沈む。顔色も悪い。そんなことを思いながら眺めていると、

「何だか今日の先生は元気がないです。疲れてませんか」

 そう言って立ち上がろうとした体がストンと立ち崩れてしまった。すぐ立ち上がり、

「ちょっと立ちくらみがしただけです」

 ふふっと雪子は小さく笑った。こんなちっぽけな体でコイツも無理しているようだ。点滴と休養が必要だと秋月は思った。


「明日は僕の病院に行こう。怖がることはない。点滴するだけだ」

「イヤです。絶対にイヤです。小さい頃に毎日注射しました。だから病院もお医者様も注射も大キライです。イヤです」

「そんなことを言わないでくれ。キミには点滴が必要なんだ、医者の僕の診断だ。合格したいだろう? 立ちくらみがするような体調であと3カ月闘えるか?」

「でもイヤです。イヤと言ったらイヤです」

「ふーん、そうか。僕は雪子と一緒に隣のベッドで同じように点滴を受けよう。どうだ、これなら怖くないだろう?」 

「えーっ、先生も立ちくらみがするのですか?」

「そうだ、キミの受験のことを考えると夜も眠れない。気がかりなキミのせいだ」

 しばらく雪子は考えていた。

「先生の言うとおりにします。この前みたいに着替えなくてもいいんですよね?」

「その必要はない。ベッドに寝ているだけだ。ウソは言わない、わかってくれるか」


 翌日、ふたりは並んで点滴を受けた。

 2台のベッドを隣接して点滴が始まった。雪子は利き腕と反対の左上腕部に、秋月は右腕に輸液がセットされた。秋月は雪子の右手を左手で包み込み横たわっていた。

「どうだ、痛くないだろう。点滴の輸液の中にはミネラルやブドウ糖、タンパク質、脂質、ビタミンなどの栄養素がバランスよく配合されている。疲労を解消して栄養補給するという考え方だ。あーあ、僕はだんだん眠くなってきた。何か話してくれ。何でもいい」

「先生、父の田舎に星野川という清流があります。そこの河童伝説を知っていますか」

「知らない。続けてくれ」

「昔のことです。星野川の深い淵に太郎という名の河童が住んでいました。ある日、水際で髪を洗っている乙女を見染めて恋をしました。でも乙女には許婚(いいなずけ)の若者がいました。河童の太郎はその若者を誘き寄せて川底に沈めました。そして若者の着物を着てなりすましました。先生、聞いてますか?」


 秋月はスースーと規則正しい呼吸で眠っていた。雪子がそっと覗いたその横顔は安らかな表情をしていた。秋月は雪子の手をしっかり握りしめていた。ドアがノックされた。雪子は手を離そうとしたが離れない、雪子は眠ったふりをした。入って来たのは医者と看護婦だった。


「まあ、若先生がお休みになられています。このところお疲れのご様子で、ほとんど眠っていらっしゃらない様子でしたからね。いつもは怖い若先生がこんなに優しい顔で眠られているなんて驚きました」

「恋多き若先生の新しいお相手はこのお嬢さんですか、よほど気になさっているようですね。このまま眠らせておきましょう。点滴が終わる頃にはお目覚めになるでしょう。我々は退散しましょうか」

 医者はドアノブに面会謝絶の札を下げて去って行った。


 雪子は会話の全てを聞いていた。先生は私のことを気にして眠れないほどに心配してくれている。先生、ごめんなさい。今だって、注射を怖がらないように手を繋いでいてくれる。でも本当に合格できるだろうか、心細くなった雪子は泣いていた。

 秋月が眠りから覚めたとき、雪子は涙の跡を残して眠っていた。瓶の中の輸液は僅かしか残っていなかった。



◆ 12月、東大紛争は最悪の状況に突入した。


 時々雪子は点滴を受けた。秋月は可能な限り傍について見守っていた。雪子の傍で患者のカルテを検証し、海外から送られて来る医学雑誌をチェックしていた。そして雪子を見つめていた。雪子は先生の仕事の邪魔をしてはいけないと静かに眼を閉じていた。点滴のせいか、少しずつ雪子の体力は回復していった。

 一方、秋月は冴えない表情を続けていた。なぜなら、刻々と伝えられる東大紛争の状況と全国に広がる学生運動の激化は、受験生にとって何ひとつプラスになるものはなかったからである。


 受験校と学部は雪子に選ばせた。国立1期校は千葉大学文理学部、早稲田大学は社会科学部と日程上の都合で教育学部、国立2期校は埼玉大学教養学部、ラスト受験は滑り止めの福岡大学を選んだ。

 早稲田大学を勧めたのは秋月だった。理由はただひとつ、今年の早稲田大学はどの学部も難関だと思ったからだ。現役生は勿論、もう後がない浪人生が早稲田のネームバリューに惹かれて受験するだろう。雪子が早稲田に失敗して戻って来ることを密かに期待した。法政や明治まで受験させて、東京に行ってしまう雪子を見たくはなかった。


 入試は1期校の3月3日から始まり、滑り止め校を除けば3月24日で終わる。3月20日までに国立1期校、その一両日後に早稲田の合否が判定する。もし、それらを落としていた場合は3月23日から2日間に渡って実施される2期校を受験し、福岡に戻って3月28日の二次募集に挑むというスケジュールだ。雪子自ら希望した文理学部、社会科学部、教養学部の3学部は人文科学から社会科学に渡って幅広い分野を学べる学部だ。雪子には最適だろうと秋月は思っていた。

 受験校は決まったが、雪子はときおり不安な表情を見せる。俺が不安なうちはアイツも不安なのだ。今の雪子に必要なのは何かと秋月は考えた。


 秋月は篠崎教諭に受験校を報告した。そのとき篠崎は秋月にヒントを与えた。

「私は雪子を闘える受験戦士に育て上げたつもりですが、来年度の混沌とした受験状況を考えるとまだ自信が持てません。これを教えなければ、あれも教えたいと焦ります。私の気持ちを見透かしたように雪子は不安な表情を見せることがあり、何を考えているのかわからない時があります」

「はははっ、秋月先生の迷いが西崎に伝わる、いけませんねえ。西崎に自信を持たせましょう。秋月先生の本心は西崎を手元に置きたいのでしょう? しかし、まず西崎は自分のものだと思う煩悩を捨ててください。煩悩に負けた私の言葉は信じられませんか?」

「いえ、ぜひ続けてください」


「毎日、毎日、大丈夫だと言い続けてください。自信を持たせてください。そして、全敗して帰ってきた西崎を受けとめる心を用意してください。そうすればあの子は安心して実力以上の成果を上げます。もう新しいことを教える必要はないと思います。秋月先生と西崎が同じレベルで悩んでいてはいけません」

「ご指摘のとおりです。確かに厳しい受験を私は大変心配しています。恥ずかしいですが、雪子が合格して欲しい気持ちとこの福岡に残って欲しい気持ちとが拮抗しています」


「拮抗した気持ちを払拭することは恐らく無理でしょう。人間はみな煩悩からは逃げられません。しかし、西崎を秋月先生の手の上で遊ばせてください。大きな愛情で包んでやってください。大きな愛情を『み仏の慈悲』と云います。あの子は先生に教えられ、学び、遊び、そして自分の心で考えます。自分で考える西崎を大切にしてください。西崎の心はいつも自由に宙を遊んでいます。それは先生が掴もうとしても掴めません。私は6年間西崎を見てきました。あの子は『仏の子』です。西崎の座右の銘をご存じですか?」

「いいえ、知りません」


「法句経(ほっくぎょう)にある言葉で『自己こそ自分のよるべなれ』です。その意味は独立した自己を形成するというもので、これは厳しく辛いことでしょう。西崎は先生を大変尊敬しています。その尊敬する先生に自分は相応しいような立派な人間なのかとあの子は考えるでしょう。先生と比べられても恥ずかしくない自分になろうとするでしょう。今の西崎は恋をしていても、それは大人の恋愛ではありません。まだわかっていないでしょう。西崎が失敗しても戻って来れる安穏の場所を作れるのは秋月先生、あなただけです。6年間、あの子の作文を読んできた私が断言します。西崎は人の心を絶対に裏切りません。


 これを受験で卒業式に出席できない西崎に渡してください。私の寺でお渡ししている数珠です。私の願いを込めました。秋月先生には仏典を差し上げましょう」

「ありがとうございます。今のお言葉を忘れません。雪子がいつ戻ってきても私は喜んで迎え入れるでしょう」

「そうしてください。私の考えでは、西崎は最初の千葉大では東大入試中止の影響を受けて僅差で弾かれるでしょう。次の早稲田では千葉大の無念さを忘れずに、2学部ともどんなに合格最低点が上がろうと食らいついていくでしょう。ここで本気を出すと思います。あの子は追い詰められたときに力を発揮します。早稲田の合格を勝ち取ったあと、ぜひ埼玉大学も受けるように勧めてください。学園の篠崎として希望します。これから入試まで、秋月先生の手の上で気持ち良く遊ばせてください。お願いします」



◆ 人生初、秋月は法句経を読んだ。


 篠崎の結論は雪子は合格して東京に行くということだった。俺の落胆、悲しみ、失望、それが篠崎さんにはわかるか? 不機嫌な面持ちで秋月は篠崎教諭に渡された仏典を開いた。雪子の座右の銘はすぐにわかった。法句経の冒頭にある『自己』に掲載されていた。


『自己こそ自分のよるべなれ 

 他によるべなるものあらず 

 よくととのえし自己独り

 まこと得難きよるべなり』


 物事がうまく行かないとき人は世間が悪い、あの人のせいだ、自分は運が悪いだけだと思い込む。だが、そんな結果を招いたのは自分自身だと断言している、身の毛がよだつほど研ぎ澄まされた文言だ。なぜ雪子はこの法句に惹かれたか。いくら考えてもわからなかった。次に秋月の目を引いたのは、


『ひとを教うるそのごとく

 まず自らを修むべし

 自己を修めてしかるのち

 ひとを導き教うべし

 自己を修むるげに難し』だ。


 篠崎教諭が俺に言いたかったのはまさにこれだろう。俺を信頼して西崎を預けたのに血迷って何をしているかと、とにかく合格させてやれと言っているのだ。卒業すれば西崎は生徒ではない。秋月が男として何をしようとそれからだ、勝手にやれということか。篠崎さん、俺はカミソリ秋月と陰口を叩かれている男だ。まさか俺が雪子を好きになり愛するようになるなんて想定外のことだっただろう。大人の俺がこんな小娘に惚れるはずはないと考え、雪子を預けたのが油断だったと悔やんでいるだろう。ただひとつ言えることは、今まで自分はこんな女性に会ったことがなかったということだけだ。夜が明けたことにも気づかず秋月は考えていた。



◆ 篠崎教諭から渡された数珠は桃色の水晶。


「わあ、すごく綺麗です。桃色の水晶です。入試のときこれを着けます。頑張ります。篠崎先生も心配してくださっているのですね」

 数珠を腕に着けて、きらきら輝く瞳でそう言った。こういう瞳をする子を「仏の子」と云うのか? 仏教に詳しくない秋月にはわからなかった。

「雪子の座右の銘とやらを篠崎先生から教えてもらったが、あれは本当か?」

「はい、そうです」

 雪子は暗唱して、ふいに口をつぐんだ。

「でも難しいです。私みたいな人間が自分を知るなんて出来るのでしょうか。なんて厚かましく身の程しらずな私でしょうか。先生、忘れてください。恥ずかしいです」

「そうか、忘れよう。僕は仏教のことはよくわからない。仏教の学園で6年間学んだキミには太刀打ち出来ない。教えてくれ、『仏の子』とは何だ? 篠崎先生は雪子のことをそう言った」


「先生、仏の子とは子供のことではありません。大人の先生も仏の子です。お釈迦さまは全ての人を自分の子供だとおっしゃっているのだと思います。仏の子が苦しんだり悲しんだりしないように守ってくださっているということになってます」

「ん? なってますとはどういうことだ?」

「よくわかりません。私はお釈迦さまに会ったことがないし、お話を聞いたこともありません。そう教えられただけです。先生、お釈迦さまは奥さまと幼い息子を残して家出して、修行の道を選ばれたのです。そんなのは無責任だと宗教の安田先生に言ったら、怒られました。悟りを開くために全てを犠牲にして出家されたお釈迦さまを冒涜するのかと、ひどく怒られました。先生、お釈迦さまは悟りを開かれたからいいようなものの、妻と子を泣かせて何を悟られたのでしょうか。私にはわかりません。あまり信じられません」


 秋月は吹き出した。コイツはとんでもない仏の子だ。だから面白い。

「先生、なぜ笑うのですか、私は真面目に話してます」

 不服そうに口を尖らして秋月を睨んだ。笑いをこらえて秋月は持参したプリントを出した。

「お待ちかねのようだね。長い、長い英文だ。与える時間は40分だ、いいね」

 額にかかる前髪をかきあげ、ふーっと息をはいて天井を見上げて眼を閉じる。この雪子が好きだ、見つめていた。

「はい40分、わかったか? 解けたか?」

「先生、これは4,000ワード以上ありますが、最初の2,500ワードとそれに続く1,500ワードの文は違うものだと思います。何だかヘンです」


 雪子が4,000ワードを読み切ったのが26分、1分150ワードをキープ出来ている、まあまあだ。設問は1問だ。答えを書く前に気づいたらしい。答えの欄には「What a surprise!」と記入されていた。

「そうだ、いい読み方をしたな、キミの言うとおりだ。なぜわかった?」

「前の文と後の文は接続詞の使い方とリズムが違います。そう思いました」

「英文のリズムがわかるようになったか。もうキミに新しいことを教えるのはやめる。今まで学習したことをしっかりと固める時期だ。こんなに勉強したんだ、もっと自信を持て! わかったな」

「はい」

 初めて優しい言葉をかけられた雪子はとても嬉しそうに笑った。


 

◆ 那珂川のほとり、料亭『一柳』にて。


 土日は比較的に時間が取れる。秋月は14時に訪れて17時には勉強を終わらせ、母親に断って食事に誘った。雪子は体調は戻ったが体重は戻っていないようだ。記憶を辿っても、雪子が物を食べている光景は思い浮かばない。何が食べたいかと尋ねると、フードセンターの『博多うろん』の天ぷらのせ、『金鈴』のカレーライス、『香蘭』のラーメンと言った。どれも学生で満員の店だ。雪子と過ごせる残りの時間を考えると、静かな場所でゆっくり話しながら食事をしたかった。


「刺身やすき焼きは食べられるか?」

「はい、好きです」

「じゃあ、行こう」

「でも、私は『博多うろん』でいいんです」

「なぜだ? もっと栄養になる物を食べたほうがいい」

「あの~ ご馳走をいただくと先生のお小遣いがなくなっちゃうじゃないですか」

「はははっ、僕はキミよりずっと大人だ。医者として働いている。食事をご馳走するくらいのことは許されている。安心してついて来い」

 秋月はこんな会話が楽しかった。


 2000GTを那珂川の柳橋に佇む、馴染みの老舗割烹『一柳(いちやなぎ)』に乗り入れた。

「若先生、いらっしゃいませ、最近はすっかりご無沙汰で、もうお見えにならないのかと案じておりました」

 女将は満面の営業笑いを振りまいた。掃き清められ、水が打たれた玄関ホールに案内し、

「若先生、お酒は何になさいますか、すぐご用意いたします」

「今日は車だ。酒はいらない」

「では、お連れのご婦人にお酒は?」

「酒はいらないと言ったはずだ。私の教え子だ」

 雪子はそんな会話を気にとめず、壁に飾られた真っ赤な天狗の面をじっと見つめた後、格天井に描かれた春夏秋冬の草花をうっとりと眺めていた。女将は連れの女性を一瞥してあまりにも若いので驚いた。そして秋月の耳元で何か呟いた。

「この子は高校生だ。さっさと片付けろ」

 雪子は老松に羽を休めている鷹が彫刻された欄間を熱心に見ていた。埋もれた記憶をさぐるように。


「お待たせいたしました。ご案内させていただきます」と、女将が先に行こうとしたとき、

「先生、このお店は来たことがあります。ずいぶん昔のことです。父と一緒でした」

 女将は立ち止まり、秋月と顔を見合わせた。

「この廊下を真っ直ぐ進むと、左に階段があって右の戸を開けると中庭に出ます。そうでしょう?」

 秋月は返事が出来なかった。旨い料理を出す店だが客が希望すれば次の間に褥(しとね)を用意する店だ。


 津軽塗の卓に並べられた料理を見て、大きな眼をいっそう大きく見開いて、

「わあ、美味しそうです! 先生、ホントに大丈夫ですか、食べてもいいのでしようか?」

「いいよ。心配しないで何でも食べなさい」

 秋月は幸せな気持ちに包まれて、笑うしかなかった。雪子は刺身が盛られた大皿を指差して、

「これ知ってますか? 高取焼です。黒田藩の御用窯なんですよ」

「いや、知らない。どうして知ってるのか?」

「父がいろんなことを教えてくれました。そして高取焼の小さな壺を買ってくれました。このお皿は遠州高取ですが、初期の高取焼は縄文土器のように無骨で力強い器だったのです」

 父親は亡くなったと聞いたが、幼い頃から雪子を薫陶していたのか…… しかし、こんな店にまで連れてくるとはなあ、なぜだかわからないがコイツと一緒にいると面白すぎると思った。

 

 女将がすき焼きの用意を運ばせた。用があったら呼ぶから下がっていいと秋月は言い、小さなコンロに火をつけて肉や野菜を放り込もうとした。

「先生、待ってください。間違ってます。最初はこれです」

 雪子は熱くなった鍋に牛脂を入れた。ジュッと牛脂が溶けて旨そうな匂いが広がった。次に牛肉を入れて丁寧に広げた。火が通ったところで砂糖を牛肉の表面に振りかけた。それから醤油を加えて水を差し、糸こんにゃくと野菜を入れた。ほーっ、秋月は呆れて雪子の奮闘ぶりをただ眺めていた。


「そろそろいいですよ。食べごろです」

 雪子は額に汗を光らせて取り皿に卵を溶き、秋月に渡した。

「すごいなあ、キミにこんな隠し芸があろうとはまったく想像できなかった。それではご馳走になります」

 かしこまった秋月の言葉に、ふふっと笑って、

「私だって朋友の女子です。朋友は良妻賢母の教育で有名なんですよ。すき焼きぐらいは作れます!」

 旨かった! こんな旨いすき焼きを食べたのは初めてだと思った。思いがけない幸せな時間が続き、秋月はボーッとしていた。先ほど片付けさせた褥が網膜にちらついた。ああ、いったい俺は何を考えているのかと自分に呆れた。

「先生、お腹いっぱいになりました。ご馳走さまでした」

 雪子の声に我に返った。


 勘定書きにサインをしていた秋月に、

「若先生、このお嬢さんです。差し上げますよ」

 女将が1葉の写真を持って来た。そこには大きなリボンを髪に飾った幼女が紙風船で遊んでいた。ひと眼で雪子だとわかった。眼も口も鼻も雪子だ。なぜか風船の行方を追う両眼には涙がたまっていた。今の雪子と変わっていない。

「若先生、またいらしてくださいませ。このお嬢さんと」

 誤解するなと言い残して、雪子を送って行った。

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