第3話 秋、大学闘争は激化した
◆ ノンセクトラジカルの台頭。
9月、新学期が始まったが東京神田の学生街では学生と機動隊の市街戦が繰り広げられていた。慶応大学、立教大学、早稲田大学、東京外語大学、京都大学など数えられない数の大学に「紛争」が起こった。「紛争」と見るか「闘争」と考えるかは立場によって異なるが、日本中の大学が煮えたぎっていた。党派色が濃い「全学連」ではなく、党派に属さない「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれる学生たちが台頭し、大学は荒れまくっていた。
秋月は60年安保闘争を九州大学医学部の医大生として体験したが、共産党や社会党が牛耳る学生運動に興味を持たなかった。甘っちょろい理想を演説する彼らを冷めた目で見ていたが、今、テレビに映る学生と機動隊の市街戦を腹だたしい思いで眺めた。
◆ 9月5日(水)、朋友学園職員室にて。
「3年A組の西崎雪子です。秋月先生をお願いします」
職員室に居合わせた教師と生徒は、いっせいに雪子を見た。
緊張した面持ちで雪子は秋月の正面に立って頭を下げた。
「先生、学園内で心ない噂が広まっています。私と先生のことです。先生にご迷惑をかけてすみません。でも私は気にしません。だから、これまでどおりに私を指導してください。お願いします。失礼します」
一気にそう告げ、秋月に一礼して踵を返して去った。
秋月はあっけにとられて雪子のセーラー服の後姿を見つめていた。噂は知っていた。落書きや貼り紙のほか、雪子がシカトを受けていること、持ち物を捨てられたり隠されたりされていることもわかっていた。だが、雪子はそんな話をしたことは一度もない。それが唐突に職員室にやって来て、「これまでどおりに私を指導してください」とは、真意はなんだろうかと混乱し、雪子に返す言葉がなかった。
篠崎教諭が、
「秋月先生、西崎は相当悩んでいたのでしょう。苦しんでいたかもしれません。ついに宣戦布告に来ましたね」
「宣戦布告とは?」
「学園がイジメを知っていながら見て見ぬ振りするのなら、どうぞ勝手に噂を流してください。私は秋月先生の指導を受けます。何か文句がありますかという宣戦布告です。わかりませんか。西崎のあの形相が。西崎は周囲からどう言われようと、どう見られようと、自分は秋月先生について行くと、だから騒ぐなと脅しているのです。そして、秋月先生の立場も心配しているのです。西崎との師弟関係はあと僅かです。担任としてお願いします。西崎の気持ちに花を咲かせてください」
そういうことか、だから「これまでどおりに私を指導してください」と言ったのか。泣き虫の小娘があんなことを言った。それは6年間学んだ学園への宣戦布告なのか。そこまで悩んでいたのか、それに気づかなかった俺は迂闊だった。絶対に合格させたい! 合格させなければと秋月は誓った。
国立1期校・2期校ともに5教科を2日間かけて入試は行われる。雪子は文系志望だが数学の特訓を始めよう。文系受験者で大きく差がつくのは数学だ。文系の出題範囲は数1と数2だ。雪子の成績表を見ると数1の評価は5だが数2は4だ。この程度では全国区で戦う学力はまったくない、危険だ。どこが理解できなかった? あの性格は方程式の計算は楽しんで解くだろう。因数定理か? いや、そうではない。図形の証明か? そうか、教師の説明に納得できずにとりあえず暗記したのに違いない。アポロニウスの円あたりか……
秋月は自分の受験を振り返った。緑猷館は高2までに主要教科を終了させ、高3は過去問と演習に取り組めた。だが、朋友では高3の2学期だというのにダラダラと通常授業を続けている。こんな無駄な時間を雪子に使わせたくない。そうか、学園を休ませる選択もありか、そう考えた。
雪子は「これまでどおり私を指導してください」と言ったことには一切触れなかった。水球部の気絶事件もそうだった。隣にちょこんと座り、何事もなかったように鉛筆を走らせている。やはり面白い子だと秋月は思って眺めた。
「英語以外にキミに数学を教えることにした。いいかい、3教科を磨けば済むだけの私大文系志望者の大半は数学が苦手だ。だが国公立大の受験者はそうではない。例えば、一橋大は文系だが数3を要求している。来年の受験を想定すると、東大入試が中止の場合は東大文系受験者は一橋大に流れる。一橋大を第一志望にしている関東圏の受験生は千葉大を選ぶはずだ。ここまで言えばわかるだろう、これが今後のカリキュラムだ」
プリントを受け取ろうとした雪子は、「痛い!」と言って机に伏した。どうしたと訊ねると、何でもありませんと上体を起こそうとするが、痛みをこらえているようだ。おそらく水球部の件だろう。手加減したとは思うが、こんな小さな体に当身はないだろう! 静かに寝かせておけば気がつくものを非常識だ。俺の大事な教え子を壊す気かと腹を立てた。可能性は低いが微細骨折の疑いもある。上を向いて痛みと戦っている雪子は、眼は大きいが鼻や口は小さく、血の気がない真っ白い肌だ。秋月は心配になった。
「明日の5時限が終わったら、帰り仕度して職員室に来い」
「はい?」
翌日の朋友学園。
秋月は担当する授業はないが、学園に来ていた。
「先生、私これから6時限の授業があります」
雪子はおずおずと秋月に言った。
「気にするな、早退しろ。雪子ついて来い」
秋月は西崎を雪子と呼んだことに気づいたが、そんなことはどうでもいい。雪子の手を引っぱり2000GTに押し込んだ。
◆ 家庭教師の秋月は医者だった。
「先生、どこへ行くのですか」
不安な表情で訊ねたが返事はなかった。朋友学園の生徒たちが慌てて道を開ける。助手席の雪子を見て、やっぱりねぇという表情で2000GTを見送っていた。
駐車場へ乱暴に滑り込み、引きずるように自動ドアの中に入れた。そこは病院のロビーだった。少し待ってろと言い残し、秋月は奥に消えた。心細い思いで待っていた雪子の耳に「こっちだ」と声が聞こえ、白衣姿の秋月がいた。
「えーっ、先生はお医者様なんですか?」
これ以上開かないほど大きく眼を見開き、本当に驚いた顔をした。
「痛いと言った背中、骨が折れていないかを調べよう」
「そんな、いいです、そのうち治りますから、私、帰りたいです。病院は嫌いなんです。帰してください」
ソファーから腰を浮かせ、逃げようとする雪子の手を掴み、秋月はダメだと冷たく拒否し、地下のX線撮影室に無理やり連れて行った。
「制服を脱いでそこにある服に着替えろ」
訳がわからずぼんやり立っている雪子を見かねて、看護婦の山川が近づき、
「心配しないでいいのよ。これに着替えましょうね。金具がついてるブラは取ってね。若先生はあっちを向いてください」
雪子は緩慢に白いセーラー服の上着とスリップを脱いだ。ブラを外そうとする背中に小豆色の大きな打撲痕を発見した山川は驚いた。
「まあどうしたの! イジメに遭ったの? リンチされたの? 若先生! このお嬢さんは震えてます。警察に相談しましょうか」
山川は完全に早とちりをしていた。
「よせ山川くん、この子は僕の教え子だ。早まるな、リンチではない」
撮影室に入った秋月に待機していたX線技師は唖然とした。
「若先生がなさるのですか」
「当然だろう、この子は僕の教え子だ」
X線撮影が終わり、山川の誘導で雪子は診療台に寝かされた。
「そう、まっすぐ寝ろ。もっと力を抜け」
秋月は聴診器で心音を確かめた。片足を曲げさせ、みぞおちから腹部にかけて触診をした。次に横向きに寝かせて背中から腰にいたるまで触診を行った。秋月は胸椎7番の打撲痕に愕然とした。これほど力を入れて押す必要はない、呆れてしまった。これでは痛いはずだ。林をぶん殴りたい気持ちを抑えた。水でもかければ気がつくものを何て野蛮なやつだと。秋月の腹立ちをよそに、雪子は不安どころか体を見られ、そのうえ触られていることに耐えられず、泣いていた。
「雪子、泣くな、もう怖がるな。これで最後だ。採血する」
注射の跡を揉もうとする雪子の手を跳ね除け、
「揉むな、じっと押さえろ。揉むと注射痕が残る」
秋月は雪子の細い腕を押さえた。雪子は血の気が引いた真っ青な顔をして秋月を見ていた。
「なんて顔をしているんだ。幼稚園児みたいに医者を怖がって、おかしなやつ。職員室に乗り込んで来た元気はどうした?」
雪子の羞恥心に気づかない秋月の言葉を、雪子は恨みがましい眼で見つめ、「先生、帰りたいです」と呟いた。
◆ それはどこかに置き忘れた青春なのか?
秋月は雪子の検査データを精査した。骨折は認められず、ほっとした。やや貧血気味だが、肝臓、腎臓などの内臓諸器官および内分泌系は正常ラインである。このデータをもとに患者に説明するとしたら、栄養補給、疲労解消と言いたいところだが…… 興味を引いたのは血液型がAB型だったことである。日本人において10%に満たないAB型がこんな身近にいた。自分と同じのAB型のやつが。
人間を医学的に解明した数字を眺めながら、こんな数字がなんだ。数字で表せないものは何だろうと考えた。雪子は幼すぎてわからないだろうが、どうも俺はアイツを好きになりそうだ。ここで初めて気がついた。思い出してみると、俺は職員室で「雪子」と無意識に呼んだ。アイツは気づいただろうか、気づいたとしても何も言うことはないだろう。アイツのことだ。明日は何も聞かなかったように、「先生、次の問題は何ですか」と言うだろう。秋月は雪子のことを考えるだけで楽しかった。それは、どこかに置き忘れた青春を追いかけている姿に見えた。
「これが雪子の診断データだ。見るか? 骨折はしていない。若干の貧血はあるが、受験生として戦える身体だ。なぜ泣いていた?」
「見たくありません」
「どうもキミは病院は苦手のようだな。医者が怖いのか? それとも僕が嫌いなのか?」
「病院もお医者様も嫌いです。そして……」
「そして、どうした?」
雪子は白い頬を耳たぶまで桃色に染め、
「先生に体を見られたり触られたり、それが恥ずかしくて、恥ずかしくて……… 泣きました」
雪子は机の上のプリントに顔を埋めた。
「僕は医者だ。毎日患者さんを診察し判断を迫られる仕事だ。裸だろうと普段は人に見せない部分であろうと医者の眼は病気の原因を見つけ出すためにしっかりその部分を見て、時には触って観察するのが任務だ。言っている意味がわかるか? だから恥ずかしがることは何もない。わかったか」
いっそう身を縮め、雪子は机に伏したままだった。少しは俺のことを「先生」以外の男として意識し始めたのかと秋月は思った。それならそれでいいだろう。心の中で小さく喜んだ。
「データによると雪子の血液はAB型だ。僕もAB型だ。日本人にはAB型は少ないと云われている。つまり僕はキミに輸血が出来る。さあ、機嫌を直して起きろ。残された時間は少ないぞ」
雪子はやっと顔を上げた。てれ笑いを浮かべて、
「先生の血が欲しいです、何でも知っていて何でも出来る先生の血が欲しいです。そしたら私はもっと賢くなれそうです」
「雪子、その逆を考えたか。僕に輸血が必要な場合、躊躇なくキミの名をあげる。そのとき、僕にキミの血をくれるかい?」
「もちろんです。先生、私だって先生の役に立つかもしれないんですね」
どうやら雪子は機嫌を直したようだ、秋月はそう思った。
数1はいいだろう。数2を固めよう。多項定理、共役複素数、因数定理を理解させて、3次方程式の解と係数の関係あたりで得点アップを狙おう。3次方程式が解ければ、線や円との接合も理解できるはずだ。ここまでくれば三角関数は苦労しないだろう。だが、軌跡の証明や図形はどうするか? 秋月はこんなことを考えているときが幸せで、時間が経つのを忘れた。この問題を解くとき、雪子は天井を見つめて涙をこらえるだろうか、「先生、あと3分ください」と困った眼で訴えるだろうか、うふっと笑って鉛筆を走らせるだろうか、想像するだけで楽しかった。
◆ 30歳になろうとする秋月は大人の初恋に苦しんだ。
ふたりは学園での噂は気にしなかった。状況が切迫してそれどころではなかった。10月に入り、翌年度の東大入試は絶望的な見通しになったからだ。10月21日、ベトナム戦争反対を訴える学生らが暴徒化した「新宿騒乱事件」が起きた。
「先生、お話があります。私、東京の大学を受けるかもしれません」
「受けたければ受けなさい。僕は反対しない」
「もし合格したら東京に住むことになります。東京と埼玉で会社を経営している叔父さんが、東京の大学に行かないかと母に勧めたそうです。叔父さんは母の妹の旦那様です。私を居候させてくれるそうです。ただ、授業がない時間は電話番をする約束です。そして、横浜には母の兄が住んでいるので安心だと母は乗り気です。先生、どうしたらいいでしょうか」
秋月は息を呑んだ。なぜだ、なぜ雪子が東京で暮らすのか?
コイツには国立1期校は九大、国立2期校は福岡教育大を受けさせようと決めていた。私立は福岡女子大と西南大を選び、最悪の滑り止めは福岡大だと予定していた。いや、どの大学に入学しようとどうでもいい。自分の身近にいるものだと思い込んでいた。急ぐことはない、少しずつ大人の女性になっていくのを見守り、大人の女性になる日を楽しみにしていた。母子家庭の一人娘がなぜ東京に行くんだ? どうしたらいいでしょうかと雪子は訊くが、おそらく本人の気持ちは固まっているはずだ。そんなやつだ。秋月は不機嫌な顔で黙り込んだ。
「先生、そんな怖い顔をしないでください。待ってください!」
2000GTは地響きを残して走り去っていった。
おとなげない帰り方をしたと秋月は思った。なぜ雪子が気になるのか、どうして東京に行かせたくないか考えた。雪子より美人で聡明な女性たちと交際した。雪子よりも美人で聡明な女性たちと交際した。これが恋人同士というものかとデートして夜を過ごした。だが、しばらく経つとそんな日常に飽きた。俺がこう言えばこう返事をするだろうと予測がついた。周囲は似合いのカップルだと言ったが、俺はつまらなくなっていた。そして別れた。彼女たちは泣きながら俺を責めたが、その涙にも興味を失っていた。考えなおして欲しい、どこが気に入らないのかと詰問されたが、さすがに飽きたとは言えなかった。
雪子は貧弱な体と白い肌に大きな眼、日本人形のようなやつだ。まだ少女と言ってもおかしくない。だが、あの細い体に秘めた意志の強さは俺の比ではない。そして、ころころと瞳を動かし、何かを無心に考え、いきなり面白い言葉が踊り出る。俺のイジメに近い教えについて来たから魅かれたのではない。アイツが傍にいると楽しい。飽きるヒマがない。アイツのすべてが面白くて俺は夢中になっている。これが恋なのか? まさか俺の初恋か? 秋月は愕然とした。30歳を目前にした男が頭を抱えて苦しんだ。
◆ 朋友学園職員室の片隅にて。
「秋月先生、睡眠不足のご様子ですね。西崎が東京の大学を受験する話を聞かれたのでしょう。私は3日ほど前に西崎から聞いて知ってます。先生にどう告げればいいのか悩んで私のところへ来たようでした。自分の考えをそのまま告げなさいと言いましたが、西崎は沈んでいました。秋月先生と別れる不安と心細さをまだ整理できていないようです。西崎の力になってください。可愛い子には旅をさせろと云います。西崎を信じて送り出してください。秋月先生のもとへあの子は必ず戻って来ると思います」
なぜ雪子は東京へ行く? 大学生になっても俺の傍にいるはずだ、そうだろう? 秋月は不機嫌な表情で黙りこくっていた。
「失礼を承知で話を続けさせてください。秋月先生は西崎に教師の倫理に外れた興味を持って、育て上げようとしています。違いますか? 私は高校生だったカミさんに惚れて、彼女の卒業を待ってすぐ結婚しました。僧侶の私が煩悩に負けました。そういう私だから秋月先生の気持ちがわかります。だが西崎を手放すのが惜しくて手折ったとしても、西崎は間違いなく外へ出て行くでしょう。ウチのカミさんとは違います。見守ってあげてください。そうすれば西崎は戻って来るでしょう、そんな子です。私も無駄にこの学園にいるわけではありません。女子を見る眼は秋月先生より確かなはずです。先日も言いましたが、西崎の希望に花を咲かせ、実らせてください。担任からの願いです」
篠崎教諭の話を秋月は頬を紅潮させて聞いていた。まるで、教師から叱られるガキ同然だと思った。雪子が自分の傍にいなくなる、外の世界へ翔び立つ、いずれは俺ではない他の男の手に落ちる、そんなことを考えて雪子を突き放そうとした自分の卑小さを笑うほかなかった。
午後、廊下ですれ違った雪子は一礼して通り過ぎようとした。相変わらず独りぼっちだ。秋月は雪子の腕を掴み、
「雪子、話がある。屋上へ行こう」
「次は篠崎先生の授業があります。失礼します」
再び通り過ぎようとした雪子の肩を掴んで、
「話がある。次の授業はシカトしろ、ついて来い!」
「先生、みんなが聞いてます。そんなことを言ってはいけません」
「気にするな、僕たちは噂の仲だろう?」
「そういえばそうでした。私、すっかり忘れていました」
こんなことを言う雪子が好きなのだと秋月は笑った。
「そこで聞き耳を立てているキミたち、3年A組の西崎は早退だ。秋月が屋上に拐って行ったと篠崎先生に伝えてくれ。頼んだぞ」
学園の屋上から福岡城址が見える。博多湾に浮かぶ小舟を瞳に映して、
「先生、ずいぶん思い切ったことを言いましたね、みんなの前で雪子と呼ぶなんて。私、笑いました。でも、先生、私を拐ってくれませんか。怖いのです」
「なぜだ?」
「だって、こんなに教えてもらったのにどこにも合格できなかったらと、ふと思います。先生にどうやって謝ればいいのかと考えます。そんな夢を見ます。ダメですねぇ、私って……」
雪子の話を黙って聞いた。この子を拐うことが出来ればどんなに楽しいだろうか、胸のうちを隠して、入試前の不安定な精神状態にいる雪子を見つめた。こんなときこそ、コイツの傍にいてやりたい。いなくてはいけない。「ダメですねぇ、私って」と雪子が言ったが、ダメなのは俺だ。雪子の両肩を掴み、
「はっきり答えてほしい。本当に東京の大学を受けるのか? 東京に行くと決心したのか?」
「はい、決めました」
濃紺のセーラー服の襟元を飾っているリボンをいじりながら、雪子は蚊が鳴くように小さな声で答えた。
「よし、わかった。昨日は悪かった。まともに話を聞かずに帰った僕が悪かった。謝る。それから、東京の大学を受けるとすれば早急に対策を考えなければならない。受験するからには合格しろ。覚悟はいいか。泣き言は言うな!」
雪子は目を閉じて、はいと答えた。
「ただひとつだけ僕の希望を聞いてくれないか」
「はい?」
「そんなことはないと思うが、万一のことを考えて福岡大学の二次募集に出願してくれ。確かあれは3月末だ。大丈夫だと信じているが受験は水ものだ。何が起こるかわからない。念のためだ」
「先生?」
「なんだ?」
「この前教えてもらった、It's like looking for a needle in a haystack.のように、私が東京の大学に合格するのは、干草の中から針を探すほど大変なことかもしれません。でも、滑り止め校を選定すれば人は易き所へ流れがちだ。己を知って受験校を選べは、滑り止め校は不要だと先生は言いました。忘れましたか?」
秋月は困惑した。そうだ、そんなことを言った記憶はある。そのときコイツは俺の傍にいつもちょこんと座っているものだと思い込んでいた。県内の大学であればどこかに合格できると簡単に考えていた。だが、東大紛争が波及する東京となれば話は別だ。そして、コイツは滑り止め校も東京の大学から選ぶのか……」
しばらく遠くを見つめていた雪子は、
「わかりました。これ以上先生に心配かけたくありません。押さえに受けます。願書を出します」
「そうか、ありがとう。雪子、福岡大学でも恥じることはないぞ」
「そんなのやめてください。まるで東京では全部落ちるみたいじゃないですか」
秋月の心の奥では雪子が東京へ行くことを拒否する自分がいた。東京の有名大学の合格より自分の傍に置きたい心があった。
「言い方が悪かった。手がかかる雪子がいなくなったら淋しい、傍にいた方が楽しそうだと思ったので、ついそんな言い方をしたのかも知れない」
秋月はセーラー服の雪子を後ろから抱きしめたかった。どう考えても手放したくはなかった。
自分が受験するわけでもないのに、秋月は東京にある主要大学の過去問を丹念に調べた。
英語は長文の配点が高く、2,500ワード以上の長文を出題する大学に絞った。篠崎教諭のアドバイスで国語系は、現国で受験生をふるい落とすための意味不明な設問が少ない大学、古文と漢文の配点が高い大学を選んだ。漢文に関して西崎はパーフェクトだと篠崎教諭は自慢した。幼少時から病弱だったらしく、娘を鍛錬しようと考えた父親が『論語』や『孟子』を姿勢を正して素読させたそうで完璧です。漢文の授業を任せたこともあるから心配はいらないと笑った。理科と社会は本人に選ばせた。
いくつかの候補大学を決める前に雪子の希望を尋ねた。
「女子大はイヤです。男子がいっぱいいる大学がいいです」
にっこり笑って雪子は答えた。俺の気も知らないで、コイツはぬけぬけと何を言うのだ。男子がいっぱいいる大学だと…… 秋月はつとめて平静さを装い、
「なぜだ?」
「女子は付き合うのが面倒です。1日中本を読んでいたいなと思っていても、誘われたら3回に1回は行かなくてはなりません。行かないと仲間ハズレにされます。男子は行きたくありませんときっぱり断ってもイジワルしません。だから男子が多い大学を選びたいのです」
なるほどそういう考えか。院内のナースを見ても確かにそうだ。女は仲間を作りたがる。その輪に入らないナースは孤立している。男は特殊な団体を除けば、他人にしつこく干渉することは少ない。コイツはおとなしいが、イエスとノーをはっきり言う。そのせいで学園では浮いている。
「雪子、希望どおり男子がいっぱいいる大学に入ったと仮定する。そこで誘って来た男子を断る名案を教えよう。『私には好きな人がいます』と言うのがベストの策だ。覚えておきなさい。きっと役に立つ」
「あっ、そうか。そうですよね。先生は何でも知っていて、本当にスゴイです。そのセリフ、忘れません」
はあ? 秋月は心の中でため息をついた。
「今日はここまでにしよう。たまには出かけないか、行きたい所はあるか?」
「はい? もう夜です。真っ暗です。どこへ行くのですか?」
「だから行きたい所はないかと訊いている」
「いいですか、勝手なことを言っても」
「どうぞ、言ってごらん。僕に叶えてあげられることだったら」
「波の音が聴きたいです。眠れないときは中学の入学祝いに父が買ってくれたステレオに、波の音だけのレコードをかけます。そうすると気持ちが静まります。ずっと波の音を聴きたいです、本物の波の音を聴きたいです」
「わかった。行こう」
車を和白海岸に向けた。和白は雁ノ巣から奈多に続く干潟が広がっている海辺だ。
車を降りた雪子は大きく息を吸い込み、「先生、早く、早く来てください。すっごく気持ちいいですよ」と素足になってはしゃいだ。誰もいない波打ち際で、スカートの裾を両手で持ってたくし上げ、波と戯れていた。小さな波はジャンプしてやり過ごし、大きな波に追いかけられると慌てて逃げ帰ってくる。スカートを両手で持ち上げていたことを忘れ、びしょ濡れになって夢中で走って来る。月の光に照らされた雪子は、ホメーロスの『オデュッセイア』に述べられている海の女神『カリュプソー』のようだった。
無心に遊んでいる雪子を飽きずに眺めていた。こんな楽しいデートをしたことがあっただろうか、ない! なかった! そう思った。
秋月も海に入った。大きな波が来たときは雪子を持ち上げて波から守った。雪子は波の音をたくさん聴いただろうか、とても嬉しそうだった。
「先生、たくさん遊びました。もう帰りましょう」
「そうしよう。波の音を聴いて楽しかったか?」
「はい……」
車に戻った雪子の眼はとろんとしていた。午前2時か、お子様はとっくにお休みの時間だ。
助手席の雪子は必死で眠気と闘っているらしい。こっくりこっくりと前のめりになり、慌ててキョロキョロと見渡して姿勢を直す。その仕草が可愛くて秋月は笑っていた。そのうち雪子は睡魔に勝てずに眠ってしまった。シートを少し倒してジャケットを雪子にかけてやり、車を停めて寝顔を見つめていた。
流れ星が西から東へ大きく弧を描いて消えていった。コイツが俺のもとに戻って来ますようにと流れ星に願った。願った後、秋月は気恥ずかしくなった。何をしてるんだ、俺は…… そのとき雪子は体を動かし、何か喋った。起きたのかと思って顔を近づけたら、「せ・ん・せ・い」と呟いて穏やかな寝顔で眠り続けた。幸せな夢を見ているのか、それならそれでいい。雪子の額に静かにキスをした。だが、こんなに無防備に眠ってしまうコイツはこの先大丈夫だろうかと、秋月はまたひとつ大きな不安を抱えてしまった。
翌日、
「先生、ごめんなさい。私眠ったみたいで。カンカンに怒った母から無作法な娘だと叱られました。でも、波の音を聴いたのは憶えています。とても気持が良くて幸せでした。ごめんなさい」
縮こまって謝った。
昨夜、眠っている雪子を抱きかかえて戻って来た秋月に、母親は恐縮して雪子を起こそうとした。それを制して、
「受験生は今がいちばん精神的に不安定で苦しい時期です。しかし、さらに試験日が迫ってくると、しっかりしなくてはと自分で気持ちを立て直します。雪子さんもそうでしょう。今日はこのまま寝かしておきましょう。夜遅くまでひっぱり回して申し訳ありません」
秋月は雪子を抱きかかえたままベッドへ移したが、軽すぎると思った。先日のデータは39キロだったが、さらに減ったようだ。ほとんど弱音をはかないコイツをどうやらイジリ過ぎたのかも知れない。何か好きなものでも食べさせてみよう。今日は楽しかったよ。眠っている雪子に囁き、2000GTに乗り込んだ。
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