第2話 大量の何かを見て気絶した
◆ 夏、実力を知るために受験塾に通った。
「おーい、これはどうだ?」
雪子に渡したパンフレットには『緑猷英進館 夏期講習 受講生募集中 他校生・現役生大歓迎 期間:8月7日(水)~8月24日(土)』とあった。
「これは?」
「これはオレの学校の浪人生を吸収する予備校で、校舎に隣接している。つまり、現役で合格できなかったら、英進館で頑張ってくださいという、ありがた~いシステムだ。大部分は東大・京大を目指すゲスなヤツラだが、今年は現役生もOKだ。これはオレらが直面する来春の受験はそれだけ予測がつかないってことだ。今、東大・京大は荒れに荒れている。だからこそ、オマエに勧める。他流試合になる、世間と己を知ることが出来る、どうだ、行ってみないか? ちょうど盆休みを挟んだ2週間だ。秋月だけに頼ってないで、外の空気を吸え! ずーっと女子校のオマエにはいい経験になると思うが、どうだ?」
「えーっ、東大・京大を目指す人たちの中に入るなんて無理だって! 授業についていく自信はないよぉ。あのさ、ケンタも一緒だよね?」
「オレは行かない、参加しない」
「えっ、私に勧めるだけ? それって無責任だよ! 一緒に行こうよ、そうだよねぇ?」
「何とでも言え、オレは無責任でけっこう。だが、オマエは大海に独りぼっちで放り出される前に、少しでも外を知っておいたほうがいい。いや、知っておくべきだ。そう思う。すぐ決めなくてもいい、その足りない脳みそで考えろ。オレは忙しい、オマエにかまってはいられない。休み中は弱卒部員を鍛えるためにプールに入りっぱなしの予定だ。ただ、プールはオマエが通う英進館の目と鼻の先だ。しかし、オレはつきあっているヒマはない、何か文句があるか、バーカ」
そう言い残し、くるりと反転して大袈裟に肩をそびやかして去って行った。
雪子は笑った。そっか、予備校の夏期講習に参加して外の世界を知れってこと? 東大・京大を目指す受験生を対象にした講習とはどんなもの? 健太が言った大海とは何のこと? ついて行けるかどうかわからないが、参加したいと思った。
英進館の夏期講習に参加したいと言った雪子に秋月は驚いたが、大賛成した。
秋月は迷っていた。英語以外の教科に関して雪子の力を見定めたかった。全国レベルでの位置が知りたかった。国立1期、2期校の入試は5教科の合計点数が問われる。雪子がどれほどのオールマイティなのかを知りたかった。こんな田舎の女子学園の通知表などまったく役立たない。判断材料にもならない。入試は一発勝負だ。9月からは数学も教える予定だった。それには雪子の実力を知る必要がある。秋月は夏期講習の参加を許可した。
参加に賛同したのは、他にも理由があった。この75日間、雪子が面白くてイジリ続けた結果、本業をさぼっていた。その結果、やらなければならないことが山積してしまった。あーあ、俺には小娘をイジル自由さえないのかと嘆いた。
◆ 何を見たのか? 真夏のハプニング。
英進館の初日、緊張して受講室に入った雪子の目に映ったものは、外界を一切遮断して参考書やプリントに見入る男の集団だった。予測していたとはいえ、女子は雪子のみ。「おはようございます」なんて言えない雰囲気だ。言ったところで返事はないだろう。目が合っても何も映っていない、自分しか見ない、そんな人間の集団が黙々と黒板の文字を書き取っていた。
午前の講習は数学と物理。書き写すだけがやっとの状態であった。午後は現国と古文。やっと周りが見えて来た。講師は受講生に答えを求めず、解答を書き続ける。最後に1枚のテスト用紙が配られ、受講生は5分で書き終えて提出する。予備校の授業ってこんなものなのか? 古文の題材は常識的な『徒然草』で、抑揚のない説明が続いた。
自分以外の人間に無関心な集団にはイジメはおろか、会話もない。それが心地良く感じた。たとえ受験のために予備校に通ったとしても、受験勉強は自分ひとりでやるものだとよくわかった。
講習は粛々と過ぎていった。折り返し点が8月14・15日で、この2日間は講習は休講だ。希望者は講習室で自習していいので、いつものように通った。そのうち講師がいない自習にも飽き、雪子はそっと水球部を覗きに行った。
雲ひとつないカンカン照りの中にフェンスで囲われたプールがあり、健太の声が騒がしく響き渡っている。なるほど、ここか。雪子はフェンスの入り口をそっと開き、音をたてないよう裸足になって階段を上がり、プールサイドに近づいた。
健太はプール中央で立ち泳ぎをしながら部員にゲキを飛ばしていた。
偉そうに指示を出している。弱卒を鍛えると言っていたがこのことか? 雪子は健太を見つめていた。
ピピーッ、ホイッスルが鳴る。
「見学者がおひとり見えたので、紅白戦をやるぞ、位置につけー、ピピーッ」
雪子はプールサイドの椅子に座り、しばらく眺めていた。そうか、水中で行うハンドボールみたいなものだと理解した。7人づつ2チームに分かれてボールを取り合い、相手のゴールにボールを入れると得点になる。相手のボールを奪うためにジャンプする姿を見ているうちに、プールは深いのだろうかとプール際に近づいたとき、一瞬ふわっと体が揺れ、しゃがみ込んでしまった。体が火照っていた。
「ピピーッ、タイム! タイム!!」
健太は駆け寄り、助け起こした雪子の額に手を置いて首をひねった。
「やかんはどこだ、持ってこい」
「はい、ここです」
健太は大きなやかんを受け取り、
「おい、飲め、水だ」
「えっ、コップは?」
「そんなものはない! こうやって飲むんだ」
やかんの注ぎ口に口をつけ、飲む仕草をした。
「早く飲め!」
このとき、
「♪先輩、先輩、くち移し~ 先輩、先輩、くち移し~♪」
部員たちは手拍子を打って戯け始めた。
「黙れ!」と部員を一喝した健太は、左手で雪子の口をこじ開け、右手に持ったやかんを傾けた。
瞬時に口から水は溢れ落ち、ブラウスの胸を走り、スカートの裾からポタポタと雫となって垂れて行ったが、床に着いたとたんにジュワッと蒸発した。
「センパーイ、女子には優しくしたほうがいいですよ。もてませんよ~」
そんな声には耳を貸さず、
「ポケーッと日向で見ていると日射病か熱中症になるぞ。見学するときは日陰が常識だ。部室で待ってろ、扇風機がある。あのドアが入り口だ。練習はあと30分、おとなしく待ってろ」
少しぼーっとした感覚のまま、ペンキが剥げ落ち水分を含んで腐ったドアを開くと、地下へ続くコンクリートの階段が現れた。階段を降りきると真ん中に通路があり、両側にはシャワーがずらりと並んでいる。薄暗くてよく見えないが、その奥が部室らしい。部室にはドアはなく、湿気と何か得体の知れない臭気が漂っているが、思いのほか暑くはない。入り口のスイッチで電気をつけた。背もたれがないベンチが置かれていて、扇風機があった。
ベンチに座り、扇風機の風を受ける。ほとんど天井に近い位置に窓があり、大きな青空が広がっていた。ずーっと空を見ていたら、猛烈な眠気に襲われていった。ちょっとだけ、ちょっとだけ横になろう。そして雪子は深い眠りの底に落ちていった。
とても幸せな夢を見ていたような気がする。でも、思い出せない。そのうち、ピタピタと素足で駆ける音、誰かと誰かの会話。雪子の夢はどこかに消えたらしい。
「やっぱり熱中症? それとも日射病かなあ? 目を開けてくださいよ」
「見えますか?」
雪子はぼんやりしていた。何だか騒がしい。んんっ? 誰かが頬を触っている。喉や首を触れている。うーん? ここはどこ? 眼を開けた。どこかで見たことがある空間。記憶は頼りなく、なかなか思い出せない。あっ、いけない、暑さでぼーっとしちゃって寝てしまったんだ。すると、ここは水球部の部室?
誰かが手を引っ張って起こしてくれたような気がする。爆睡の余韻が残っていて、雪子は完全に寝ぼけていた。
「起きた! 起きました、良かったです」
「心配しました」
ふうっ? えっ!! 眼を覚ました視界に飛び込んできたものは素っ裸の男の集団! 雪子をぐるりと取り囲んでいる。し、しかも、目線の位置で何本も揺れているものは何? こ、こ、これは、もしかして???
「ギャーッ!!」
雪子は気絶してしまった。
「ユッコ!!」
悲鳴に驚いた健太が走り込んで来た。雪子を取り囲んでいる部員に、
「何があった?」
「わかりません。みんな何にもしていません」
「僕らが来たときには、この人がここで倒れていました」
「倒れていた?」
「いや、そうじゃなくて、眠っていたので……」
「眠っていた?」
「熱中症か日射病かも知れないと思って、すみません、この人のホッペをツンツンしました。反応がありました」
「今井が頚動脈を探って、脈を確認しました」
「触ったのか、そうか」
健太は雪子の脈を測りながら、部員を眺め渡した。
「そしたら、やっと眼が覚めたようです。手を引っ張って起こしました」
「起きたと思ったら、絶叫して気絶しました。理由はわかりません」
「オレら何にもしてません。本当です」
このままではまずいな、いつまでも寝かしておくわけにはいかないだろう。健太はしばらく考え込み、蘇生法をやる決心をした。
「ユッコ、オレの蘇生法は痛いぞ、手加減はする、それでも痛いぞ。ごめんな。しかし、ビンタよりはマシだろう」
健太は雪子の背後に立って上半身を起こした。背中に自分の膝頭を当て、両肩を掴んで上体を後ろに引き上げて胸を開かせ、肩甲骨の下の中央にある頚椎を強く押した。
「うわっ、うっ、うう、痛っ! い、いっ 痛い!」
雪子に正気が戻った。
「オレだ、わかるか、健太だ」
「うっ、う、うーん、うん、わかる。でも、いっ、い、い、痛い!」
雪子はキョロキョロと辺りを見回し、健太の顔をキャッチした。安心してホッとした途端、またアレが目に入った。健太は生まれたままの姿だった。
「あー、キャーッ!」
雪子は再び気絶してしまった。
「あーあ、また倒れちゃった、先輩、どうするんです?」
再び倒れた雪子と自分の下半身を見比べて、
「そうか、わかった、わかった!」
健太は大声で笑いだした。
「裸だ、男の裸だ! 気絶の原因はそれだ! オマエらは心配して裸のままコイツの周りに集まった。そして、目が覚めたコイツは裸の男たちに囲まれていた。これは気絶してもおかしくない。コイツは中学から6年間も女ばかりの学校なんだ」
「へ~っ、信じられません、オレたちはいつだって裸です。シャワーのあとは裸でうろうろします。服を着るまでは裸が常識です!」
「オマエらは常識でも、コイツは違うだろう。見たくもないものを見せられて」
呆気にとられた顔つきの部員たちに爆笑の渦が広がった。
「先輩だってスッポンポンで気絶させたくせに、偉そうに言わないでください」
「オレの場合は、腰に巻いたタオルが落ちただけだ。オマエらと一緒にするな」
「終わっちゃったことでゴチャゴチャ言うより、どうするんですか?」
「蘇生法をまたやるんですか、可愛そうですよ。あれ、すごく痛いはずです。またやったら、この人壊れます」
「先輩、気がつくまで見守ってはどうですか。医者なら普通そうします。さっきの蘇生法、あれは無茶です。柔道部がやる当身(あてみ)に近いじゃないですか。やめましょう」
「うーん、そうだな……」
「もとはと言えば先輩の教育がなってないから、こうなったと思います。反省してくださいよ」
「教育? どういうことだ?」
「そうです。ちゃんと教育しといてくださいよ」
「出し惜しみしないで見せておけばよかったんです。そしたら気絶しなかったと思いますが、先輩、違いますか?」
「♪ついでに予防注射もしましょうよ、しましょうよ♪」
「♪バックシュートでゴールしましょ、そうしましょ、そうしましょ♪」
「何だと! 見せる、見せないの問題ではない! 卑猥なことを言うな、オマエらは完全に誤解している。そんな仲では断じてない、かつての同級生で幼馴染なだけだ、邪推するな!」
「はいはい、そうでしょう、そうでしょう、すみません、言い過ぎました」
「深い仲ならこんなアクシデントは発生しませんよね、了解です、わかりましたよ先輩」
部室を揺るがすような爆笑に包まれても、雪子は身じろぎひとつしないで横たわっていた。
「先輩、用事があるので、もう帰ってもいいですか」
「僕も墓参りに行く予定があります」
「ダメだ許さん、帰るな。コイツが正気に戻るまで付き合え。あと少しで気が付くはずだ。それまで付き合ってくれ、先輩として頼む」
「うーん、頼むと言われれば付き合いましょう。みんな、いいか?」
「オー!」
右手の拳を頭上高く振り上げて、部員たちは吠えた。
「もうひとつだけ、オマエらに頼みがある。コイツが正気に戻ったとき、もし記憶がぶっ飛んでいるようだったら、コイツは何も見なかったことにしてくれないか」
「どういうことですか? 先輩」
「コイツは熱中症で意識を失って倒れた。それを介抱したということにしてくれないか。そして、このことを外部に絶対に喋るな。変な噂が流れるとコイツが気の毒だ。いいか、わかったか。いや、水球部の部長として部員にお願いする」
「だけど先輩、この人の記憶がはっきりしていたらどうするんです、記憶が戻ったときはどうするんです」
「ん、そのときはオレがありのままを話すつもりだ」
「先輩、動きました。手が微かに動いたように見えました」
「ホントか?」
「確かです、瞼も動いてます」
「山本、津川はその位置で動くな、本間はフローター、ほかは離れろ。決してコイツを取り囲むな、わかったな!」
「オー!」
実戦さながらの配置に部員は従い、ふたたび吠えた。
我慢できずに誰かがクスッと笑った。それが合図のように笑い声があちこちで炸裂した。そんな笑いの渦の中、
「おい、気がついたか? オレがわかるか? ここがどこだかわかるか! オレの声が聞こえるか? なんか言えよ!」
健太は必死で叫んでいた。
「先輩、もっと優しく、スロー、スローで。そんな大声じゃ、寝た子を起こすどころか、泣かします」
「おっ、そ、そうだな。もっともだ」
「雪子、起きろ、心配しないでゆっくり起きろ、もう大丈夫だ」
弱卒部員のアドバイスを素直に聞き、健太は雪子の耳元で囁(ささや)いた。
部員たちは手を叩いて、笑い、ひやかし、足を踏みならして喝采した。
「オマエたち、静かにしろ、オレが話をする」
雪子は長い夢を見ていたような気がした。
視界は霞んでいて、どこからか聞こえる人声は大きくなったり小さくなったり、とても頼りない。誰かに呼びかけられた気がして目を開くと健太がいた。ずいぶん眠った気がしたが、頭はすっきりしない。左右に首を振ると、背中から胸を突き抜けて激痛が走った。痛い! 痛い! 痛い! 痛いなんてものじゃない!
「起きれるか?」
健太は寝ている雪子の背中に片手を入れ、一方の手で肩を掴んで上半身を起こした。
わーっと歓声が上がった。
「ユッコ、よく聞いてほしい。オマエは炎天下で練習を見学していた。そして軽い熱中症になった。だから部室で休んでいた。それだけのことだ。頭がぼんやりしているのは仕方ない。徐々に戻っていく。そうだな、みんな、そうだな」
「オー!」
右手の拳を高く上げた部員たち、部室には割れんばかりの蛮声が轟いた。
「それで、オレに何か言いたいことはあるか?」
「先輩、優しく言いましょう。♪優しく、♪優しく、♪スローです。学習しましょうよ、先輩!」
「何か言いたいことって? そうだ、まだお礼を言ってない! 部員の皆さま、お世話をかけました。ごめんなさい。そして、ありがとうございました。もう大丈夫です」
「オー! オー!」
口笛とともに大喝采が湧き起こった。
「ユッコ、倒れたあとは覚えているか?」
「うーん…… なんだか」
「じゃあ、気持ちが悪いとか、どこか痛いとかないか?」
「水を飲んだ、いっぱい飲まされた。それから空を見た」
「空、どこの空だ?」
「ほらあそこの窓からでっかい青空が見えて……」
「ああ、あれか。あの空がどうした?」
「空を見つめていたら、急に眠くなって…… それから、それからよくわからない」
「そうか……」
「あっ、思い出した!」
部員たちはかたずを呑んで次の言葉を待った。
「空を飛んでいた。海の上に広がる大きな大きな空を飛んでいた。すごく幸せだった! そしたら、そしたら急に嵐がやって来て空から落ちそうになって、それから……」
どこからともなく、ふーっと安堵するため息が漏れた。
「そうか、無理して思い出すことはない、楽しい夢を見ていたのか」
「本日はこれで解散。お疲れー」
「オー!!」
◆ イチモツとは何のことだろう?
ハプニングの翌日。
明日は塾を休めと健太は言ったが、雪子はいつものように塾に行った。今日は歩くだけでもギシギシと背中が痛いのはなぜだろう。
「じかに木のベンチに寝ていたから、首や背中、あるいは節々が痛くなるのは当然で、まもなく痛みはとれるから心配するな」と健太は言った。それよりも不思議な記憶に雪子は悩まされた。それは途切れ途切れのモノクロフィルムのようで、光の次には暗闇が続き、その暗闇に潜む何か恐ろしいものを見て、叫んで逃げたような気がしてならない。
背中の痛みで休もうかと悩んだがやはり塾に来ていた。今日は人が少ない。風が吹き抜ける角の机を確保して自習を始めた。
まもなく、コンコンと机を叩く人がいた。見上げると、いつも雪子の隣の席をキープしている浪人生だ。
「おはようございます」とりあえず挨拶した。
「西崎雪子さん、ちょっと時間をくれないか? 僕の名は星野涼、秋月さんの後輩だ」
なぜ名前を知っているのか不思議に思った。塾では名札はない。誰がどういう名前なのか知る由はない。秋月さんとは秋月先生のこと? 先生はこの人に私を監視させてるの?
「返事がないところをみると承諾ってことかい? 秋月さんからキミのことを聞いた。話があるんだ、外へ出よう。ここは聞き耳立てる下賎な奴がいる」
真っ赤なサルビアが咲き乱れる花壇にポツンと置かれた白いベンチ、ふたりは座った。
「話はキミに関することだ。このまましばらく聞いてほしい。昨日、キミは水球部を見学に行った。そしてプールサイドで観戦していたキミは、日射病あるいは熱中症で倒れた。そうだろう?」
「そうです。部員のみなさんに介抱してもらいました」
「介抱? ふふっ、あれは介抱か」
星野は呟いた。
「キミは覚えていないのか、倒れた後のことは? 最後に目覚める前の出来事を本当に記憶してないのか?」
雪子は絶句した。最後とは? この人は私が何度も倒れたと言いたいのか?
「思い出せません。いくつものシーンが重なって記憶がはっきりしません。恐ろしいシーンと幸せなシーンが交錯して分からなくなります。もしかして頭を打ったのかもしれません。でも、私の記憶と星野さんとどう関係があるのでしょうか。なぜ、星野さんは知っているのですか? 失礼します」
不快に思って離れようとした雪子の腕を掴み、星野は話を続けた。
「待ってくれ、伝えたいことはこれからだ、聞いて欲しい」
「真実を教えよう。昨晩、僕は水球部の部員から電話をもらった。彼は決して興味本位で電話をくれたわけではない。それによると、キミは日射病か熱中症になった。体調不良になったキミは部室のベンチに横たわり、いつの間にか眠ってしまった。ここまではキミの主張とほぼ一致する。しかし、このあとの話をよく聞いて欲しい。
部員たちは練習が終って部室に戻ったら、キミが眠っていた。よほど具合が悪いのかと彼らは心配して、横たわっているベンチを取り囲んだ。ちょうどその時、キミは目覚めた。全裸の男たちに囲まれた恐怖と彼らの何かを見たキミは気絶した。彼らはシャワーを浴びた直後で裸だった。これは1回めだ」
聞きたくない星野の言葉に、そうか、切れ切れのフィルムはその記憶だったのかもしれない? でも、健太や部員たちの話とは違う、そんなことは聞いてない、どうして? 雪子はそう思った。
真夏にもかかわらず全身を寒気が襲う。雪子は震えと戦いながら聞いていた。
「まだあるんですか?」
「そうだ、この続きがある。部員たちが全裸だったことは咎(とが)められない。男だけの水球部では、シャワーを浴びた後は全裸で部室をうろつくのが慣習だ。キミがなぜ気絶したのか理由を探り当てられないまま、林健太がキミを蘇生させた。すぐキミは気がついて林を探した。そして林を発見し、再び気絶した。何故だ? 答えは明瞭だ。林の逸物を見たからだ。わかったかい? これが2回目の気絶だ」
「イチモツ???」
「男子の象徴、男のシンボルを指す言葉だ。電話では、キミに蘇生を行う途中で、腰に巻いたタオルが落ちたと言っていた。多分、キミの対応に追われていたのだろうと僕は好意的に解釈するが、すべての人間がそうとは限らない。
僕の話を聴くのが辛かったらこの場から逃げ出してもかまわない。しかし、逃げ出したとしても、キミは真実を知りたがる、知ろうとするに違いない。そうであれば最後まで聴くことだ」
「しかし、林は大きな間違いを犯した。キミが気絶した理由を抹殺しようとした。部員に口外するなと厳しく迫ったそうだが、それは無理だ。人の口に戸は立てられない、まして真実は封印できない。隠そうとした真実は歪曲されて世間に伝わることが多い。『歴史ある名門校の水球部員、集団輪姦! 悲惨、女子高生失神!』とエロ週刊誌に出たらどうするか?」
えっー、まさか、そんなデタラメな記事が? 星野の話はうそ! うそだと思いたかったが、話を聞くうちに記憶が少しずつ繋がってきた。そして絶望した。これは真実だろう、そう思った。
「衝撃的なキャッチフレーズに人は必ず面白おかしく騒ぎ立てる。僕に真実を伝えたのは次期水球部の部長になる渡辺だ。彼は悩んだ。一旦は隠すことに賛成したが、これでいいのかと…… 林はキミを、渡辺は水球部と部員と学校を第一義に考えた。わかってくれるか?
興味ある噂は歪曲され、脚色され、真実とまったく異なるものとして伝わって行く。『20数人にレイプされた名門女子高生、2度の失神!』、なんと魅力ある見出しだろう? 少なくとも僕はそう思う」
「もうやめてください、聞きたくありません!」
「話を続ける。僕は渡辺にこう告げた。『見学に来た女子高生が熱中症になって部室で寝ていたが、たまたま目を覚ましたときに、大勢の水球部員の裸とおまけに初めて男の逸物を見た。それで、女子高生は驚いて2度も気絶してしまった。まったくドジな女子がいたものだ』と噂を流せと指示した。妙な勘ぐりや推測で卑猥に捏造された情報が流布されるとやっかいだ。直ぐに真実を噂として広めろとも言った。面白がった嘘の情報が流される前に、早く流せと伝えた。
「わかって欲しい、学校と水球部と部員全員、そして林健太と西崎雪子さんを救うにはこれしかないと僕は考えた。キミはしばらくの間、大量の股間を見て気絶したドジな女子高生と噂されるだろう。林が噂を耳にして激怒したところで既に真実は流されている。しかし、これは直ぐに消える。たいして面白くない噂は茶飲み話と同じで忘れ去られて行く」
雪子は星野の話を眼をつむって聴いていた。水球部の部室で不用意に眠ってしまった自分が愚かで恥ずかしく、腹立たしかった。涙が止まることなく流れ落ちる。嗚咽を堪えるため、胸に力を入れたら昨日と同じ激痛が走った。これが健太が行った蘇生の痛みなのか。すべては自分の不注意から始まった。これから健太に降りかかるかもしれない非難や中傷を想像して、雪子はただ涙に暮れていた。
「ようやく真実の苦さに気づいたようだね。聡明なキミのことだ、涙の後には何かを抱いて立ち上がってくれると信じたい。キミには演技して欲しい。意地悪な質問にはとぼけろ、わかってくれたかい」
雪子は涙が溜った瞼で星野を見つめて、
「星野さんの話は本当に起こったことだと思いました。残っている断片的な記憶をクロスワードパズルのように並べて行って、そう思いました。
私が泣いたのは悲しくて泣いたのではありません。ただ、ケンタや部員のみなさんが好奇の眼で見られるような軽率な行動をした自分が許せなくて、泣いたのです。情けなくて、恥ずかしくて、消えてしまいたい気持ちです」
「ほぼ理解してくれたようで感謝する。大量の股間を見て気絶したドジな女子高生でいて欲しい。ちょっと待ってくれ、さっき演じて欲しいと言ったが、それは撤回する。悪意に満ちた情報を消滅させる力は、ありのままのキミでいい。すべてを救える人間はキミしかいない。僕はそう確信する。やってくれるね」
「やってみます。私には応えられる力があるかどうか自信がありません。でも、自分が撒いたタネです。ケンタと部員のみなさんに合わせる顔がありません。ただ、今は背中が痛くて集中できません。ごめんなさい、受講室に連れ戻してくれませんか。少しは私にも考えさせてください」
星野は笑い出した。
「さすがだ、秋月さんが僕に自慢した秘蔵っ子だ! 考えたいから受講室に連れ戻してくれとはね! よく言った。確かにキミは考えるべきだ。自分を見つめて答えを出せ。ところで、戻ってキミはどうする気だ? 忠告するが、林に確かめることはだけはやめろ。苦しめるだけだ。それくらいはわかるな」
「話を戻そう。昨晩、秋月さんにキミの気絶事件を報告したら、彼は大声で笑い続けた。カミソリ秋月と言われる先輩があんなに笑ったことは僕の記憶にはない。その反応に興味を覚え、渡辺の伝言にあった『出し惜しみせずに見せておけば、気絶しなかったと思います』と言った。実にエロい文言だ。当然、大笑いするものと推測していたが、電話の向こうの秋月さんは無言になってしまった。そして、ポツリと『その林くんと俺は教育上の共同責任者ということか?』と真面目に質問してきた。キミはその意味がわかるか? そして秋月さんは僕に、くれぐれもキミを『イジルな』と念を押した」
何のことだろう? 「出し惜しみせずに見せておけば、気絶しなかった」とは。それに「イジルな」とはどういう意味なのか? 雪子は理解できなかった。今いちばん会いたいのは健太だ。健太に会って謝りたい! 私を守ろうとした健太に謝りたいと思った。
眼を閉じたまま、涙をこらえている雪子をチラリと見ながら、腕時計に視線を移して言った。
「そろそろだ。渡辺は意図的に噂を流したと林に打ち明けている頃だ。口外しないと約束しながら、自ら噂を流した渡辺を林は許せないと怒るだろう。何よりもキミが噂の対象になり興味本位に見られることが、自分の身を切られるよりも辛く、我慢できないだろう。しかし、林と渡辺では、殴られるヤツよりも殴るヤツの方が痛いだろう。そうだな、心が痛いだろう。キミは林の痛さを覚えておいたほうがいい。さあ、戻ろう」
雪子は受講室に戻ってノートを開いた。今日ほど時間が経つのが重く感じた日はなかった。隣の席で『蛍雪時代』を読んでいた星野は、そのうち机に突っ伏して眠ってしまったようだ。スースーと寝息が聞こえてくる。湿ってねっとりした風が彼の寝顔をくすぐり、教室を吹き渡って行く。昨晩、星野は眠れなかったらしい、そっと寝かしておこう。
雪子が西新電停に近づいたとき、星野が追いついた。
「間に合って良かった。秋月さんから、もしキミが講習に来たら送ってやれと頼まれていたのに、寝てしまった、失敬、失敬」
「大丈夫です、ひとりで帰れます。毎日そうですから。それに、本屋に寄りたいのです」
「僕もちょうど本屋に寄りたいと思っていたんだ。新刊なら天神の『積文館』がいい。たくさん揃っている。あそこにしよう、一緒に行こう」
雪子の気持ちを無視して星野はついて来た。私に構わないでくださいと雪子は思っていた。
積文館に立ち寄り、住吉神社前の電停を降りた頃には、街はすっかり闇に包まれていた。
「秋月さんから聞いたが、歩くにはここを抜けるのがいちばんの近道らしい。暗くても平気だ、僕がついている。ここを抜けて行こう」
一方的に言い出した星野は神社に続く細道を分け入っていく。しかたなく雪子は後を追った。
星野が立ち止まった。渋々彼を追いかけていた雪子は眼を見張った。
境内の隅に置かれた大石に腰掛け、両手で膝を抱えて俯いている男が見えた。あれは健太だ、絶対に健太だ。
雪子は「ケンタ!」と叫んで走り出そうとした。だが、叫ぶ前に口を塞がれた。駆け出すことも出来なかった。星野が背後から左手で雪子の口を塞ぎ、右手を腰に回して、前に進めないように押さえ込んでいた。
「ダメだ、行ってはいけない。声を掛けるな。林を独りにしろ。見ているだけにしろ」
しばらくして健太が顔を上げた。涙は滴っていたが拭おうとせず、肩を震わせ声を押し殺して泣く姿は、魂が静かに慟哭しているように見えた。雪子は健太の静かな慟哭を見つめ続けた。はらはらと雪子の頬にも涙が落ちる。それでも雪子の口は塞がれていた。
「なぜ、林が泣いているのか、わかるか?」
体の自由を奪われたまま、雪子はコクンと頷いた。
「よく見ろ、林は自分に絶望している。キミを守ろうとした判断の誤りを指摘され、己の甘さを知らされたからだ。キミを守ることはおろか、部員と学校を混乱に陥れたかもしれない身勝手な考えを恥じている。今の林を絶望の淵から簡単に救えるのは確かにキミだけだ。だが、今の林を救ってはいけない。林健太を殺すことになる。見守るだけにしろ! 林を殺さないで生かしてほしい」
星野は雪子を引きずるように小道を戻り、明るい大通りへ出た。
「これからキミは林に頼らず、自分の心で聴き、自分の足で歩いて行って欲しい。そして、林以外の男と付き合うことも必要だ。唐突だが、目の前にいる僕はどうだ?」
その言葉に雪子は身を硬くした。星野は背を屈めて雪子の眼を長い時間見つめていた。
「そんなに驚かないでくれ。さっき、僕はどうだと言ったが、こういうセリフをイジルと言うんだ。忘れてほしい」
そう呟いた星野は薄く笑っていた。
「それからもうひとつだけ聞いてくれ。溢れるキミの涙はとても温かい涙だった。これまでの僕は冷たい涙しか知らなかった。キミの涙は口を押さえている僕の手の上を流れ続けた。手を離せばキミは林に走って行くのか、そう考えたときに絶対にこの手は放さない、放すものかと決めた。
林が羨ましかった、嫉妬した。僕には同級生や幼馴染はいない。昔はいたのかも知れないが、今は誰もいない。頼れる人も信じられる人もいない。すべて表面上の付き合いだ。林が羨ましい、心の底から羨ましい! 僕は生まれて初めて自分以外の男に嫉妬した。
林が苦しんでいる姿を目の当たりにしたキミは、口を塞いで拘束している僕を跳ね除けようと踠(もが)いた。それは想像を超えた力だった。キミは頭の中では林に近寄ってはいけない、それは林のためにはならないと理解していたはずだ。それでも理性を超えた力で跳ね除けようとした。僕の腕に絡みとられている人はなぜ僕に振り向いてくれないのか、僕を信用してくれないのか、僕は淋しかった、ただ淋しかった。それだけだ。
そんなに緊張しないで聞いてくれ。僕は久しぶりにキミという血が通った人間と話した。話しすぎたと反省している。実に愉快で楽しかった。西崎雪子さん、感謝している」
◆ 「若紫」は燃える思いのサルビアを飾った。
昨日から今日にかけて、規則的な時系列は完璧に崩壊し、猛スピードで襲いかかる時間に、雪子は押しつぶされそうになっていた。健太の魂の震えは鮮やかに蘇り、締めつけられた胸が、希薄な酸素を求める金魚のように激しく鼓動する。僅かな微睡みを与えられた瞼は腫れ上がっていたが、今日も絶対に休んではいけない! 何もなかった、何も知らない、そう言おう。そう思い込もう。頑張れ、勇気を出せ、自分に言い聞かせて雪子は受講室に入った。
「おはようございます」、雪子は小さな声で挨拶した。
星野は晴れやかな笑顔で応えた。いつも最前列に座っている人が軽く手をあげた。ニヤッと笑う人、笑いを堪えるためか口を手で覆った人、反応はそれぞれ違うが殆どの人があの噂を知っているようだ。気にしない、気にしない、そのうち忘れてくれる、雪子はそう思おうとした。緊張していたせいで、昼頃には心身ともにぐったりして、ぼーっと外を眺めていた。すると昨日のサルビアが目に映った。風に揺られて気持ちよさそうにそよいでいた。
雪子は昨日のベンチに座った。
「ねえ、あなたはサルビアに生まれてきて幸せなの? 何処かへ自由に行きたくないの?」
サルビアに話しかけた。そのとき、サルビアの陰から人が現れた。おばさんだ。
「見慣れない顔ね、何年生?」
「いえ、この学校の生徒ではありません。『英進館』の夏期講習に参加しています」
「そう、あなたが?」
この人も私の噂を知っていると雪子は思った。
「私は高校で古文と現国を教えている、楠木正子。あなたは?」
「先生ですか、失礼しました。西崎雪子です。朋友学園の3年生です」
楠木は不躾に雪子を眺め、腑に落ちた表情で言った。
「秋月くんの『若紫』とはあなたのことね。ふーん、納得したわ。なるほどねえ。あの子も変わったわねぇ、それだけ苦労したってことか」
「あの〜 秋月先生のことでしょうか? 秋月先生には英語を教えてもらっています」
「そうよ、秋月蒼一くんのこと。ところで秋月くんは元気? 高校生の頃はあまり丈夫でなくて、けっこう休んでいたのよ」
「はい、お元気だと思います。今の私よりは……」
「面白いこと言うわね、はっきり言いましょう。あなたの噂は聞きました。緑猷は共学といっても9割が男子なので、女子に対する配慮を知らない男どもが多いのよ。悪く思わないでね。堂々としていなさい。恥じることはないわ、人の噂も75日と言うでしょ。
さっきあなた、サルビアと話していたでしょ。聞こえましたよ。花が好きなんでしょ、サルビア持っていく? 毎日暑いからサルビアの株が弱っていて、切り戻しをしようと思っていたの。するとね、秋になると返り咲きするのよ。持って行きなさい。少し待ってね」
楠木はチャカチャカと鋏を使い、サルビアの切り花を作ってくれた。
「ついでに、サルビアの花言葉を教えるわね、燃える思いよ。さあて、行くか、♪日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ♪~」
楠木は豊満な体を揺らしながら、きれいな声で『源氏物語 若紫』を唄って過ぎ去った。
雪子はもらったサルビアを花瓶の代わりに牛乳ビンに生け、周囲をハンカチで包んで講師が使う大机に飾った。
午後は数学だ。講師は机上のサルビアに気がついた。
「もう秋が近くなりましたね、これは曼珠沙華ですか?」
思わず笑ってしまった雪子は、
「先生、これはサルビアといいます。花言葉は燃える思いだそうです。そこに置きましたがお邪魔でしょうか。どかしましょうか?」
「いえ、いえ、けっこうです。燃える思いですか。女子がいると教室の雰囲気が違いますね。サルビアですか、覚えておきましょう」
午後の講習はいつもよりリズムに乗って進んだような気がしたのは、気のせいか。楠木先生が言っていた若紫とは『源氏物語』に出てくる幼い女人(にょにん)のことか? 星野さんに聞くと明解が返ってくるだろうが、後が怖いからやめておこうと雪子は思った。
夏期講習の最終日、雪子は塾長から呼び出された。塾長室に出向くと、目を細めて思案している初老の男性教師が待ち構えていた。座るように促し、
「大変失礼なことを訊くようだが」と話し始めた。あの噂のことだと雪子は覚悟を決めた。
「実は、緑猷高校の水球部のことで確認したいことがありましてね。当学館と隣の緑猷高校は密接な関係であることは知っていますね。西崎くんが緑猷高校の水球部の練習を見学していて、気分が悪くなって倒れたと聞きましたが、事実ですか。たまたま顧問教師が不在だったので、事実関係を把握する必要があって尋ねているのです。気分を損ねないでいただきたい」
「はい、炎天下で見学していたので、日射病か熱中症のような症状になりました。水を飲ませてもらいました。その後部室で休ませてもらいました」
「そうですか、それは大変でしたね。もう大丈夫ですか、体調は?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「何しろ水球部というのは男子ばかりで、その部室で女子がひとりで休んでいたということで、その、噂といいますか、勝手な推測をもって事実を大きくするヤカラがいましてね、西崎くんは何か聞いていませんか?」
「はい、なにも聞いておりません」
「わかりました。不快な思いをさせて申し訳ない。次に成績のことに移りましょう。報告によると、夏期講習中に数学がとても伸びたようです。来春の受験は間違いなく想像を超えた混乱になります。必ず自分を信じて戦ってください。西崎くんを信じています。ご苦労様でした」
「はい、悔いのないように頑張ります。お世話をかけました。ありがとうございました。失礼いたします」
「頑張ってください」
塾長室を後にし、カバンを取りに戻った受講室に星野が残っていた。
「塾長に何か訊かれたらしいがその表情だと大丈夫だな。どこか訪ねる所がありそうだね、僕はこれで失敬する。またどこかで会おう。そのときはユッコと呼びたい、林のように。それが僕の願いだ。西崎雪子さん、幸運を祈る、Good luck!」
雪子は水球部の渡辺に気持ちを伝えたいと思った。軽率な行動をちゃんと謝らなくてはいけない、健太と私を守った渡辺の苦渋の選択にお礼を言おう。大量のアイスキャンデーの差し入れを持ってプールに近づいたが、健太の声は聞こえない。だが今日は、顧問の吉村教諭が参加していた。
さあ、正念場だ、悔いを残したくない。私を庇おうとしたこの部員たちをおかしな噂の餌食にすることは出来ない。しっかりしろ、雪子は自分を励ました。
プールサイドに近寄り、
「こんにちは。西崎です。元気になりましたぁー、ありがとうございました! 差し入れでーす。アイスでーす」
水面を叩く音や部員の声に負けないように大きな声で叫んだ。
水音が止まった。
突然の訪問者が誰なのかを察した吉村教諭が、緊張を隠しきれない強張った顔つきで近づいて来た。
「初めまして、西崎です」
ほぼ同時にプールでは「ユッコちゃん、ユッコちゃん」の大コールが湧き起こった。
吉村教諭は歓声をあげて騒ぎ続ける部員を眺め、
「水球部顧問の吉村です。部員のユッコちゃんコール、あれがすべてを立証しています。この噂を聞いたとき一瞬部員を疑いました。すぐそれを恥ずかしく思いました。あれから1週間ほど経ちましたが、西崎さんが来るとは想像していなかった。西崎さん、あなたは翌日も休まずに英進館に来たと聞きました。それが部員への疑惑をぬぐい去りました。強い人だ」
「違います、私は強くありません。いつも泣いてばかりいる泣き虫です、人に頼っているばかりの弱い人間です」
ちょうどこのタイミングで、部員の「オー!!」はプールに響き渡り、高い高い青空に吸い込まれて消えて行った。
「先生、渡辺さんと話したいのですが、いいでしょうか」
「どうぞ。話してください。おーい、渡辺、お客さんだぞ」
地下の部室から地上に呼び出された渡辺は、眩しい光臨を背にして立つ雪子に気づき、狼狽した。
「こんにちは、西崎です」
「えっ、はい、こんにちは、渡辺です」
「私に話をさせてください。そんなに驚かないでください。星野さんからすべてを聞きました。それで、渡辺さんが選択した理由がよくわかりました。渡辺さんの選択は間違ってません。私のことは心配しないでください、大丈夫です。
そして、星野さんは途切れていた私の記憶を繋げてくれました。私は気絶した本当の理由を知りました。星野さんはありのままの私でいることが最良の策だと教えてくれました。もともと私ってドジだから気にしないでください」
渡辺は下を向いてじっと雪子の話を聞いていた。
彼は「申し訳ありません」、うなだれて深く頭を下げた。
渡辺の肩を軽く叩いて、
「アイスキャンデーの差し入れは消滅寸前よ! 急げ、ダッシュ・ゴー!」
「えっ!」
顔を上げ、驚いた表情で雪子を見つめ、残り少ない差し入れに向かって渡辺は走って行った。
◆ 当身の痕は白い肌に咲く赤いバラ。
夏休みもあと1週間で終了だ。9月からは秋月との二人三脚が再開するだろう。入試まで5カ月と少しだ。東大が入試中止の場合、合格最低ラインは確実に上がり、秋月はさらに苛酷なカリキュラムを雪子に課すだろう。厳しい秋になりそうだ。だけど健太はどこを受験するのか気になった。あれ以来健太とは会っていない。ありのままの私でいようと決めたことを話さなくてはならない、今月中に話したい、健太を永く苦しめたくないと雪子は考えた。
健太はどうしているのか心配で家に寄ってみた。
「おばさん、こんにちは。ケンタは帰ってますか?」
「あら、ユッコちゃん、久し振りね。元気だった? 塾は終わったの? 偉いわねぇ、男の中の紅一点で頑張ったんでしょ。誰かさんとはえらい違いだこと! せっかく来てもらったけど、まだ帰ってないのよ。どこで遊んでいるのかしら? ユッコちゃんからも言ってよ。しっかり勉強しなさいって! うちは浪人させるだけの余裕がないのに、なに考えてるのか、困ったもんだわ」
雪子は、玄関の上り口に健太のスニーカーが脱ぎ捨てられているのを確認していた。
「何時頃に帰ってきそうですか?」
「うーん、日によって違うのよね。あのバカ、早く帰ってくればいいのに…… ユッコちゃん、悪いわねえ」
「あの~ 外で待たせてもらってもいいですか?」
健太の母はエプロンで手を拭きながら、少しだけ首を傾げて、
「帰りは遅いと思うけど、良かったら上がんなさいよ。ちょうどトンカツを作っているところなので、食べていったら?」
「すみません、母が用意していると思うので、トンカツはいいです。でも、おばさん、私に出来そうなお手伝いはありませんか? 何かさせてください」
「あーら、嬉しいことを言ってくれるわね。私はユッコちゃんのような女の子が欲しかったのに、男二人じゃあ色気はないし、最近はろくろく口も聞きはしない。あのバカどもは、自分一人で育ったと思っているのかねぇ。つい愚痴を言ったけれど、それじゃお願いしようかしら。キャベツを切ってもらおうかしら。その間に私はポテトサラダを作るから。ユッコちゃん、キャベツの千切りは出来る?」
「いえ、やったことありません」
「はあ、やったことないの!」
「おばさん、教えてください。やってみます」
たちまち、健太の母は大きなキャベツを洗い桶にザブンと放り入れて洗った。水滴がたくさん付いたキャベツの外皮を捨て、根元に切り込みを入れた。そして葉を1枚ずつ剥がし、硬いところを包丁で切り取り、平にした葉をクルクルと巻き上げた。
「ここをぐっと押さえて、サクッサクッと切っていくの。やってみる?」
手本を示してくれたが、あんなにリズミカルに早く切ることは出来ない。包丁の持ち方を教わり、慎重に切っていくうちに、最初は1センチの幅広キャベツが3ミリ程度までスリムになった。
雪子は夢中になって切っていた。突然、背中に激痛が走り、雪子は流しに手をついて痛みが過ぎるのを待った。
「どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫です。おばさん、ごめんなさい、キャベツは全部使ってしまいました」
こんもり盛り上がったキャベツを前に健太の母はギョッとした顔つきになったが、
「いいのよ、馬と同じくらい食べるヤツがウチには2頭もいるから、気にしないで。それより疲れたでしょ?」
「いえ、面白かったです」
雪子の手を掴んで、
「まあ、こんなに小さい手でよく頑張ったね。ユッコちゃんの手ってホントに冷たい。健太が言った通りね。ごめん、つまんないこと言って」
「もう帰ります。とても楽しかったです。また教えてくれますか」
「まあ、なんて可愛いことを言ってくれるの! いつでも大歓迎よ」
「おばさん、お休みなさい」
ほんの5分後? 健太の母の声が通りに響き渡った。
「健太、竜太、ご飯だよー」
翌日、雪子は8時前に健太の家を訪れた。
台所から卵焼きの美味しそうな匂いが外へ漏れ漂っていた。
「おばさん、おはようございます。ケンタいますか」
玄関の引き戸を開けたとき、歯ブラシをくわえたままの健太が立っていた。健太は慌てて台所の板張りの床に正座して雪子に頭を下げた。
「ごめん。ユッコを守ろうとしたオレの浅はかな考えで、ユッコをさらに傷つけてしまった。何と言って謝ればいいんだ。気が済むまで殴ってくれ。ユッコを守ろうとしたが出来なかった情けないオレを笑ってくれ」
健太は床にポタリと涙をこぼした。ふたりを見て驚いた健太の母は、
「アンタ、ユッコちゃんに何をしたの! ちゃんと言いなさい、早く!」
健太の母は眼を吊りあげて、息子を睨んだ。
「おばさん、ケンタが悪いんじゃないんです。私がいちばん悪いんです。ケンタを責めないでください。ケンタの水球を見に行った私は暑くて気を失いました。それを看病してくれただけです。それだけのことです」
「ユッコちゃんはそう言ってもあのバカ息子は殴ってくれとか、守ろうとしたとかわからないことを言って…… 本当のことを聞かせてちょうだい」
健太の母は息子を信じたい一心で雪子に迫った。
「気絶している私にすごく痛い蘇生法を使って、目を覚まさせただけです。だから背中が痛いんです」
雪子の言葉を聞くなり、いきなり健太の母は雪子のブラウスをめくり、仰天した。そこには内出血して小豆色に腫れ上がった丸い大きな痣(あざ)があった。
「健太、アンタこっちに来てこれを見なさい! アンタは何をしたのよ!」
それは、真っ白な肌に赤いバラが咲いているように見えた。
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