第5話 行かないでくれ、悲しい合格

◆ 昭和44年元旦、雪子は受験の年を迎えた。


 受験生に正月はない。雪子は宿題のプリントに黙々と向かっていた。

「いくらなんでも元旦には先生はお見えにならないでしょう。勉強はそのくらいにして、これを着て見せてね。もうすぐ東京に行ってしまうのだから」

 母は年末に『鏡屋呉服店』から届いたばかりのたとう紙に包まれた着物を抱えて、娘の肩に掛けた。淡い青磁色の生地に肩先から胸にかけて桜が舞い乱れ、裾からも桜が舞い上がっている染模様の訪問着だった。帯は濃い紫地に金糸銀糸で亀甲文様の西陣の丸帯を合わせた。色白の雪子によく映え、お父さんに見せたかったとくぐもった。


 住吉神社に参拝してから住吉橋のたもとの『山田写真館』で写真を撮ってもらうことに決め、久しぶりに母と娘は晴れ着で家を出ようとしたとき、2000GTがけたたましい音で停まった。秋月の眼に着物姿の雪子は別人のように映った。神苑の奥で舞い遊ぶ艶やかな蝶に見えた。何だ、あれは? 秋月は眼を疑い、言葉を失った。

「先生少しだけ待ってください。着替えます」


 秋月は不愉快だった。受験生が晴れ着をまとったことではなく、晴れ着姿の雪子が艶やかなことに腹が立った。着古したいつものセーターに着替えた雪子に皮肉を込めて、

「正月早々驚かさないでくれ、馬子にも衣装とはよく言ったものだな、びっくりした。さあ始めるぞ」

「先生、お正月は家にいなくても大丈夫なんですか?」

「心配な受験生を抱えていると休んではいられない。誰のことだかわかるね」

「はい」と消え入りそうな声で雪子は答えた。なぜこうも意地悪なことを俺は言うのだろう、わからなかった。時計を見て、

「今日はこれで終了。さっきのアレを着て来い。食事に行くとお母さんに断って来い」


 福岡県庁の近くにある格式高いレストランへ訪問着姿の雪子を伴った。この店は今年4月のオープンを目指して建設中の『西鉄グランドホテル』に入る店だ。メインダイニングは人々で賑わっていて空席はないようだ。帰りましょうと言う雪子を遮って支配人を呼び出した。

「個室のディナールームならご用意できますが、本日は大勢のお客さまにお越し頂きましてギャルソンが足りません。申し訳ありませんが、若先生には見習いのギャルソンをおつけしてもよろしいでしょうか。そのお詫びに若奥様のギャルソンは私にご用命くださいますか」


 支配人には雪子が秋月の妻に見えたらしい。若奥様と呼ばれた雪子は真っ赤になって俯いていた。秋月は美しく着飾った雪子を見ると綺麗だと思う前に腹が立つ。手が届かない時空に翔び立とうする雪子に意地悪したくなる。そういう気持ちがこの店を選ばせた。メニューはすべて英語で書かれている。料金は表示されていない。何を選び、どう食べるか悪戯心で試してみたかった。私にはわかりません。先生、選んでくださいと言うか、何も言わずに戸惑うか、どちらかだろうと想像していた。


「食べたいものを自分で選びなさい」

 秋月は「薔薇」、雪子には「てまり」の形に畳まれたナプキンが用意されていた。雪子はメニューを眺めて困った顔をしたまま秋月に助けを求めたが、秋月はその視線を無視した。しばらく考えてメニューを指差し、背後に立っている支配人に何かを伝えていた。そして秋月に相談することなくオーダーした。

「若奥様、承知いたしました」

 支配人が下がったとき、雪子は心もとない表情で、

「何か言ってください。息が詰まりそうです、帯が苦しくって」

 秋月が怒っていると思って、心細く泣きたい気持ちを帯が苦しいから息が詰まりそうだと、すり替えて訴えている。秋月はわかっていたが相手にしなかった。

「怒っているのですか」

「いや、何も怒っていない。怒る理由がない。観察しているだけだ」

 オーダーした料理が運ばれた。雪子は前菜を2品、メインは肉と魚で2品、スープ、デザート、コーヒーをオーダーしていた。完璧なオーダーリストだ。肉はそのつど左端から食べやすい大きさに切り、パンのちぎり口は自分の方へ向け、魚は手際よく身を外し、ケーキを包んでいたセロファンは汚れている面を内側にして畳んだ。文句のつけようがないマナーだったが、雪子の料理はどれも少量だった。


「雪子の料理はどれも少ないようだがなぜだ?」

「はい、若奥様は最初から少なくして欲しいとご希望されました。残されてもよろしいのですと申し上げましたら、作ってくれた方に悪いので残したくありませんとおっしゃいました。いけなかったでしょうか」

「いや、そうではない。僕は雪子にもっと食べさせたかったのだが、言い出したら聞かないやつだ。面倒かけて悪かった」

 緊張して聞いていた雪子に秋月が微笑むと、嬉しそうに頷いた。


 オーダーやテーブルマナーがわからずに、助けを求めるか戸惑う雪子を眺めようと目論んだ秋月は、自分の子供じみた悪戯心が惨めに思えた。そうか、誰も助けてくれないとわかったコイツは本気を出したのか。篠崎さんから散々聞かされた本気モードか。だが、あの完成されたテーブルマナーは一朝一夕で身につくものではない、父親からの伝授か? 余計なことを訊ねると心配のタネが増えそうで黙っていた。そんなことを思って秋月が小さく笑ったとき、やっと機嫌が直ったのですかと眼を輝かせた雪子がいた。


「怒っていませんでしたか」と問う雪子に、

「支配人が雪子のことを若奥様と呼んだから、僕は驚いて思考が停止した。怒ったわけではない。雪子のせいではない。ところでその着物は何だ? さまざまな人間ドラマを見続けて来た支配人が見誤るということはその着物が原因か? 振袖には見えない。派手ではないが雪子に似合っている。それは何だ?」

「これは訪問着と言うそうです。母から聞きました。お見合いやお茶会の着物だそうです。でも、母は着物を新調するときは5年後10年先を考えると言っていましたから、今の私には地味なのかも知れません。だから私もちょっとはお姉さんに見えたのでしょうか。先生の奥様だなんて…… 奥様に間違えられたときは驚きましたが、でも嬉しかったです」

 そんなことを言う雪子を限りなく可愛いと思った。 



◆ 1月19日、ついに東大安田講堂が陥落し、余波は全国に拡散した。


 1月18日、19日の両日に渡って東大全共闘と機動隊が激しく衝突し、安田講堂攻防戦が始まった。機動隊が安田講堂に立て籠もる学生たちに向けて放水する様子が全国のテレビに流された。19日、3階部分に突入した機動隊員が大講堂を制圧し、午後5時46分に最後まで抵抗を続けていた学生を検挙して安田講堂封鎖は解除された。

 安田講堂に籠城していた東大全共闘と革マル派の主力は今後の闘争を継続するためにすでに脱出していた。20日、文部省と東大との会談で、教育現場や研究機能などの原状回復が困難であると判断し、昭和44年度東京大学入学試験の中止が決定された。東京教育大学も体育学部を除いて入試中止となった。また、京都大学にも機動隊が導入された。


 大阪大学、立命館大学、東京工業大学、横浜国立大学、神奈川大学、広島大学、神戸大学、富山大学、関西学院大学、岡山大学、群馬大学、山梨大学、長崎大学、埼玉大学、京都府立医科大学などで闘争が激化し、多くの大学では大学の自治を尊重せず官憲の導入に踏み切った。


 東大入試中止は視野に入れていたが、秋月はまさか東京教育大までも中止とは想像してはいなかった。千葉大を受ける雪子はまともに影響を受けてさらに不利になるに違いない。

「雪子、東大の入試は中止だ、そう決まった。さらに状況は厳しくなってしまった。東京教育大も中止だ。本当に覚悟は出来ているか!」

「はい、驚きません。先生はずっとそう言ってくれました。そのために勉強を教えてもらいました。先生の覚悟と私の覚悟が同じかどうかわかりませんが、大丈夫と言ってくれる先生が大好きです。自信を失くしていた私に大丈夫と言ってくれました。私はこんなに私以外の人と話したのは初めてです。いつも自分とだけ話していました。父とはお盆と正月しか会えませんでした。そのうち母は心を壊しました。先生、もう少しだけ私の心を支えてください。大丈夫だと言ってください。お願いです!」


 泣きじゃくる雪子を抱えて秋月も泣いていた。秋月は親が望んだとおりの道を抗いながら歩んできた。俺の願望は封じ込められた。医者になって、秋月総合病院を経営する息子を親は望んでいた。実際そのとおりになった。それが何だ、俺に残ったものは何もない。泣け、泣け、思いっきり泣け。俺の胸で泣け、そして俺の胸に戻って来い。泣き止まない幼い恋人の肩を抱きしめた。


 1月から2月は、今まで学んで来たことの総仕上げに費やした。今更ジタバタしたところで仕方がない。難問に取り組む必要はない。4時間ほど復習させて外へ連れ出した。東公園や西公園、岩田屋デパート、福岡スポーツセンター、雪子が行きたいと言った所はどこへでも連れて行った。朋友の生徒たちの好奇の目に晒されても、雪子は秋月を見上げてにっこり微笑んだ。

 2月の凍えた大濠公園でボートに乗った。陽影には氷が残り、みぞれ混じりの雨が降り叩き、さすがにボートに乗っているのは彼らだけだった。これはまるでガキのデートだなと苦笑いしたが、秋月は楽しかった。ガキの頃、俺はどうしていたのだろうと思い出したくもない記憶を引きずり出しても、楽しい思い出はひとつもなかった。

 


◆ 合格のハンコをもらって東京へ旅立った。


 秋月の楽しい日々は終わった。2月27日、雪子は叔父に付き添われて飛行機で東京へ出発するという。

 26日20時、雪子は秋月の病院を訪れた。急患かと対応する職員に、秋月蒼一先生はいらっしゃいますかと尋ねた。訝しげに雪子を見る職員の後ろに山川看護婦がいた。

「あのときの教え子さん? 若先生の部屋へ案内しましょう。ついてらっしゃい」

 エレベーターの5階のボタンを押して、元気そうね、良かったわと山川は微笑んだ。

「若先生、心配なさっている方ですよ」

 ノックと同時にドアが開いた。信じられないという顔をした秋月がいた。机の上には書類が散らばっていた。

「先生、お仕事中なんですね。ごめんなさい。明日は東京に行きます。もう一度だけ、大丈夫と言ってください。お願いです」

 そこには9カ月間秋月についてきた小さな受験戦士が心細げに立っていた。

「山川くん、温かい飲み物を2つ頼めるか」


「どうした? 自信がないのか?」

 雪子は首を振って項垂れた。秋月は屈んで雪子の冷たい両手を握って訊いた。山川がふわっと湯気が立ったホットカルピスを持って来て、そっと出て行った。甘酸っぱい匂いが部屋中に満ち、ああこれは子供の飲物だと秋月は懐かしく思った。

「黙っていてはわからない、どうした、話してごらん。これを飲んで落ち着いたら話してくれるか」

 雪子はコクンと頷いた。両手でカップを持って涙を我慢していた。

 どこへも行くな、受験なんて全部やめろ、俺が責任取るからどこへも行くな、そう言ってコイツを隠すことが出来ればどんなに幸せで、楽しいか…… そう思った。


「明日から私は独りぽっちだと思うと淋しくて自信がありません。先生がいないとダメです。もう頑張れません」

 ぽつんと弱気な言葉をはいた。

「こんな弱虫の雪子は嫌いだ。あんなに頑張ったことを忘れたか? 男でもついて来れなかった僕に雪子はついて来た。自慢しろ、自分を! もっと自信を持て。絶対に大丈夫だ。もし大丈夫じゃなかったら僕の首をキミにあげよう、僕が責任を取る、嘘ではない」

「先生の首は欲しくないです。首だけの先生はいりません」


「首だけの先生はいりません」に笑った。そうか、コイツは俺を信じて頼ってついて来た。ずっと傍にいた俺と別れるのが淋しいのだ。その思いに気づいていないだけだ。雪子の額の髪をかきあげて、

「卒業のハンコだ」

 額にキスをした。雪子は驚いて秋月を見た。

「心配するな、絶対に合格する。次は合格のハンコだ」

 秋月はもう一度、額にキスをした。雪子は目を閉じ、「はい」と素直に言った。


  

◆ 春なのに積雪、寒さに凍えた千葉大入試。


 雪子は埼玉県入間郡鶴馬の叔父の家に起居させてもらい、入試に挑んだ。


 3月3日(月)、千葉大学は季節外れの寒さのなか、続々と受験生が門の中に吸い込まれて行った。雪子はこんなに大勢の男子を見たことがなかった。驚くことは他にもあった。東武東上線で池袋へ出て山手線に乗り換えて新宿へ行き、さらに総武線で千葉まで行くのだが、その混雑ぶりに仰天した。1両、たまに2両の市内電車でのんびりと通学していた雪子は、10両近く連結された車内は息が出来ないほどのラッシュ状態だ。揺れに逆らって必死で立っていた。


 3月4日(火)、東京・埼玉・千葉は朝から小雪が舞っていた。叔父の秘書に長靴を借りたが、雪子の21センチの足は長靴の中で遊んでいた。試験を終えて「鶴瀬」で下車するときに、片方の長靴が車内に置き去りになってしまった。可笑しいやら情けないやら、何もかも最悪であった。

 自己採点では昨年の合格最低点はクリアしていたものの、自信はなかった。5教科の合計であと30点は欲しかった。ここに電話しなさいと秋月から渡された名刺には自室の番号が書かれていたが、声を聴いたら泣いてしまいそうな気がして、名刺をしまった。


 3月9日(日)14時。

 雪子からの電話はまったくない。苛立った秋月は雪子から知らされていた番号を回した。出たのは島田と名乗る女性だった。咄嗟に秋月は朋友学園の教師だと名乗った。

「あー、雪子ちゃんはやっと熱が下がって大学を見に行きました。帰ってきたら電話させましょうか」

「熱が下がったと言うと風邪ですか? 今は元気ですか?」

「元気になりましたが、この前は遠くまで受験に行って、帰りはパトカーで戻って来ました」

 

 何だと? 何か事件に巻き込まれたのか? 秋月は全身の血液が逆流する思いで次の言葉を待った。

「もうすぐ春だというのにあの日は雪が降りました。それで私の長靴を履いて出かけたんですが、ラッシュで片方が脱げたままで駅に降りたそうです。そんな雪子ちゃんを駅前派出所のお巡りさんがパトカーで送ってくれたんです。雪子ちゃんは真っ青な顔でガタガタ震えていたので、すぐお風呂に入れて休ませましたが、翌朝は熱が出ました。もう下がったようです」


 何と乱暴な処置だろうか。悪寒、発熱、倦怠感がある場合に風呂に入れるのは逆効果だ。患者の体力が持たない、風呂は症状が落ち着いてからでいい。まして雪子の体に余力が乏しいことは承知の上で受験に向かわせたのだ。

「元気でーす」とピースサインしても、あれは周りを安心させるだけのアクションだ。風呂に入れたことで熱が出たのに違いない。自分が傍にいたら発熱はすぐに下げてやれる、楽にしてあげられる、どんな手当も出来たのにと距離の遠さを嘆いた。


「そうそう、別の先生からも電話をもらいまして妙なことを伝言されました。『頑張り過ぎずに頑張れ』と伝えてくれと。なんでしょうかね、さっぱりわかりません。電話が長いと電話代が嵩みますよね。申し訳ないので切ります。とにかく電話させますから」 

 そう言って、九州訛りの島田は電話を切った。


 長靴を片方しか履いていない雪子を想像した。きっとピョコタンピョコタンして歩いていたのだろう。アイツは何かと騒動を引き起こす。水球部のときもそうだ。秋月は大声で笑った。廊下まで響いた笑い声に、若先生でも笑うことがあるのか! 看護婦たちは顔を見合わせて驚いた。

 雪子には千葉大のことは訊かないことにしよう。どんな問題が出てどう解いたかなど、愚問だ。もう終わったことだ。


 20時、雪子から電話があった。

「雪子です。先生、お願いがあります。かけ直してくれませんか、私は居候なんです。すみません」

 秋月はかけ直した。

「風邪を引いたと聞いたが体調はどうだ? 熱は完全に下がったか?」

「もう元気になりました。今日はお弁当を持って早稲田大学へ下見に行きました。千葉大の下見は叔父さんが車で連れて行ってくれたので、東京の満員電車を経験しないまま入試に行きました。これってダメです。電車に乗っているだけでクタクタになりました。千葉大は落としたかも知れません。合計で50点は上乗せ出来ました。でもあと30点は必要だったと思ってます。先生、ごめんなさい」

 電話の向こうにしょげた雪子の姿が見えた。


「謝ることはない。そんなことは想定内だ、今年の入試が異常すぎる。僕でも結果は同じだろう。気にするな。千葉大は忘れろ、終わったことだ」

「本当は千葉大が終ってすぐ電話したかったんです。でも、しませんでした」

「どうして電話をくれなかった? 僕は待っていた、雪子にあげると約束した首を長~くして待っていたのに、どうしてだ?」

「あのとき電話していたら、私はたくさん泣いて帰りたいと言いそうでした。挫けて先生に甘えそうでした。だから我慢しました。今やっと心も体も元気になりました」


 雪子、俺に甘えていい、甘えてくれ。入試なんかどうでもいいから帰って来い、その言葉を呑み込み、無言になった。

「早稲田で先生も知っている人に会いました。星野さんです。大学内を案内してもらいました。でもヘンな人です。いきなり私をユッコと呼んで、お弁当を半分は食べられました。あの人は政経学部志望だと言ってました」

 なぜ星野が? アイツも早稲田か、勝手にユッコと呼ぶな、図々しいやつだ。秋月は不愉快になった。


「先生、聞いてますか? 星野さんはこう言ってくれました。私のことを、秋月さんが自慢する秘蔵っ子だから早稲田なんかに落ちるはずがない。必ず合格する、秋月さんはそんな人だ。自分自身と秋月さんを信じろ、See you againと言って行っちゃいました。

 私はもう泣きません。合格発表まで涙は封印します。先生が傍にいてくれたから私は頑張ることが出来たのだなあと、痛いほどわかりました。先生、聞いてます?」

 雪子はもう泣かないと言うが、秋月は泣きたくなった。

「ああ、聞いてるよ。キミはカミソリ秋月が育て上げた子だ。何も心配はない、自信を持て!」

「はい、わかってます。先生お休みなさい」

 雪子の語尾は震えていた、泣きそうだ。きっと涙を我慢している、そう思った秋月は涙を堪えた。



◆ 早大受験は平常心で挑んだ。


 3月14日(金)、3月15日(土)、早稲田の2学部を受験した。傍に先生がいてくれる、そう思い込むと緊張せずに落ち着いて答案が書けた。自信を持てた。点数のことは考えないことにした。自分はよく出来たと思っても、それ以上の受験生がたくさんいたら落ちてしまう。今の私にやれることをしっかりやろう、雪子はそう考え直した。


 3月21日(祝)。

 千葉大は昨日の20日に合格発表があったが、雪子からの連絡はなかった。

 早稲田大学合格の吉報は母親が学園に届けた。祝日だが3年生担任教師は生徒たちの報告を教員室で待っていた。地方新聞『フクニチ』の合格おめでとう欄を見ていた篠崎は、西崎雪子が早稲田の2学部を合格したことを実感した。当時は、有名大学合格者は新聞に大学名と出身高校が掲載された。


 雪子は秋月に報告するために幾度も電話をかけたが応答はなかった。

 秋月総合病院の代表ダイヤルを回して秋月を呼び出したが、オペ中で電話には出られないと告げられた。先生は忙しいとは一度も言ったことはないが無理に時間を作っていた、もしかしたら寝る時間を割いて私を教えてくれたのかも知れない。合格して本当に良かったと初めて喜びがこみ上げてきた。

「もし、看護婦さんの山川さんがいらっしゃいましたらお願いできますか」

「看護婦の山川ですか。少々お待ちください」

「もしもし、山川です。どちらさまで?」

「西崎雪子と言います。秋月先生に伝言をお願いできますか」

「西崎雪子さん? ああ、教え子さんね。どうしました? 若先生は今日はオペが3件も入っていて、食事も摂れないでオペ中です」

「そうですか、先生に伝えてください。先生の力で早稲田大学を2つ合格しました」

「まあ、おめでとう! すごいわねえ。若先生もきっと喜ばれるでしょう。必ず伝えますね。それからね、あなたはたくさん食べて丈夫になりなさい。そんな体ではお母さんになれませんよ。これは看護婦としての私の意見です」


 山川は「教え子の西崎さんが早稲田大学を2つ合格しました。おめでとうございます!」とメモに書いた。秋月はそれをチラッと見て、「あのバカ野郎!」と呟いた。山川が、今なんとおっしゃいましたかと訊いたら、「何でもない」と、冷静なメス捌きでオペを続けた。



◆ 星野は早大合格を知らせて来た。


 22時、やっとオペが終了して疲れた体でソファーに倒れこんだ。やはり雪子は合格してしまったか。少しも嬉しくなかった。あんなに勉強させたから合格するのは当たり前だが、俺はなぜあんなに夢中になって教え込んだのだ…… どうやら俺は自分が掘った落とし穴に落ちてしまったようだと思った。


 電話が鳴った。雪子か?

「ご無沙汰しています。星野です。電話いいですか?」

「ああ……」

「報告します。早稲田に受かりました」

「そうか、おめでとう」

「秋月さん、ユッコも合格したのでしょう?」

「そうだ。2学部とも受かったらしい。星野、気安くユッコと呼ぶな!」

「去年の夏、今度会ったらユッコと呼ぶぞと宣言したらユッコは無言でした。無言は拒否ではなく承諾です。気にしないでください。ユッコは絶対に受かると思ってました。秋月さん、おめでとうございます」

「星野、それは皮肉か」


「下見に来ていたユッコに会いました。驚くほど痩せていました。あんなに痩せるほどイジったんですか。あれで落ちたら可哀想です。聞きたいことがあります。本当にユッコを手放すのですか、心配しないのですか?」

「お前は何を言いたいのだ? 俺は雪子に行くなと言って止めた。この地で暮らそうと誘った。だが、アイツの心は決まっていた。そういうことだ」

「そこまで話したのですか。僕らは文系なので共通の講義で一緒になりそうです。悪い虫がつかないように見守ってあげますよ。あの潤んだ大きな眼で見つめられると男はイチコロでしょうからね。秋月さん、心配でしょう?」

「結構だ、お前は信用できない。雪子は自分の身ぐらいは自分で守るだろう。不愉快だ、切るぞ」 

 何だ? 僕らだと? ふざけるな! 秋月はウィスキーに手を延ばした。


 深夜になっても電話機の横で毛布にくるまって雪子は待っていた。一度の呼び出し音で受話器を取った。

「雪子、おめでとう! 大変だったね、今年の受験は。よく頑張った、僕の雪子を誇りに思う、おめでとう!」

「はい、先生のお陰です、本当にありがとうございます」

「僕が心血を注いだ教え子だ、合格は当然だ。だがそんな話はいい。雪子は僕を置いて東京に行くのだな、どうしても行くのか、そうだな」

 絡んだような口調はいつもと違った。

「先生、お酒飲んでますか? 大丈夫ですか」

「そうだ。雪子が合格したんだ。祝杯をあげていた」

「でも、酔ってませんか」

「酒に酔ってなぜ悪い。僕だって酔いたいときもある。雪子、大学なんてどうでもいいと思わないか? 東京に行かずに福岡で暮らす気はないか? 僕の傍で一緒に暮らそう、どうだ?」


 酔いにまかせて放った本心に秋月はたじろいだ。

「ごめん、冗談だ。忘れてくれ。雪子の合格が嬉しくてどうも喜び過ぎたようだ。忘れてくれ」

「先生、どうしたのですか?」

「悪い、飲み過ぎたようだ。今日はずっとオペが続いて疲れた。それで酒が効いたようだ。雪子いつ戻ってくるのか? 埼玉大学なんか受けずにさっさと帰って来い。話したいことがある」

「早稲田に合格しても埼玉大学を受験すると篠崎先生に約束しました。それを受けたら必ず戻ります。私にはわかります。先生は私の合格をちっとも喜んでません。悲しいです」

「雪子、大人には大人の気持ちがあるんだ。とにかく早く顔が見たい。僕は待っている。もう切るよ、僕は酔っ払ったみたいだ」

 雪子はいつまでも暗い廊下で膝を抱えていた。



◆ 3月26日(水)、朋友学園に凱旋報告に訪れた。


 埼玉大学の合否が判明する前に雪子は福岡へ戻ってきた。白い小さな丸衿がアクセントのオリーブグリーンのワンピースで朋友学園を訪れた。学園は東京の大学に進学する生徒はごく僅かであり、早稲田・慶應レベルは数年に1人合格者が出るかどうかだった。雪子の合格は学園の大きな宣伝効果になり、篠崎は鼻高々だった。


 秋月は本日限りで学園を辞職した。もともと1年間の約束であり、学園長から慰留されたが、雪子がいない学園に興味はなかった。

 篠崎教諭は雪子に気づき、

「おめでとう! よく頑張ったな」

「先生ありがとうございました。いただいたお数珠のお陰で合格できました」

「見違えたなあ、すっかり大学生だ。西崎、1校だけは落としてくださいと数珠に願をかけたんだよ。わかるか? 受験した大学をパーフェクトに合格するような人間は、その先の人生に必ずつまづく。社会に出ると、どんなに努力しようと頑張ってもどうにもならないことに遭遇する。かつて負けた経験が役に立つのはそんなときだ。西崎、頑張り過ぎずに頑張れとはそういうことだ。ほら、秋月さんがお待ちかねだ。行ってやれ」


 篠崎教諭は、秋月を見て頰を染めている雪子の背中を押した。

「先生、本当にありがとうございました」

 秋月はまだ心の整理がついてなかった。目の前に佇む雪子は受験のしがらみから解き放たれ、別人のように健やかに見えた。秋月は労う言葉すら出て来なかった。

 ふたりは学園長に挨拶して学園を後にした。

「1年の約束だった学園を今日付けで辞めた。キミは学園と僕から卒業した。もう生徒ではない。これからはひとりの女性として扱おう。行きたい所はあるか? 何処へでも連れていく。さあ、乗って」



◆ 芦屋海岸で衝撃的な大人のキス、雪子は気を失った。


 糸島郡の芦屋海岸に車を着けた。春はほぼ近くまでやって来ているというのに博多湾から吹きつける風は冷たく、ふたりは無言のまま泡立つ海を見ていた。

「この前の電話は酔っていて悪かった。もう一度訊きたい。本当に東京に行くんだな?」

 秋月の冷たく凍りついた言葉に雪子は返事を隠した。そうです、決めましたとは言えなかった。


「いいか、よく聞け! 男に誘われたら、『私には好きな人がいます』と言え! わかったか」

「はい」

「男の前で無防備に眠るな。いい人ばかりではない。男の前で眠りこけるのは恥ずかしいことだ。わかったか」

「はい」 

「男の前では涙を見せるな。泣きたくても我慢しろ。雪子の涙は男をダメにする、力を奪ってしまう、悪魔の涙だ。男の前では絶対に泣くな。わかったか。いいか、この3つが守れるなら東京へ行け、勝手にしろ!」

 秋月は背を向けた。

「先生……」

 雪子は眼を閉じて涙を堪えていたが、ひとすじの悪魔の涙が溢れ落ちた。秋月は自分の無力さを思い知らされた。


「泣くな、よく聞いてくれ。正直に言おう。最初に会ったとき、変わった子だと思った。面白い子だと思った。そのうちだんだん好きになって行った。そのときは女性として見ていたのではない。雪子の感性が面白く感じた。僕にはない、自由で掴みきれない感性に魅かれた。そして今は女性として愛するようになっている。覚えているか? 僕たちはいろんな話をした。雪子はいつも僕の傍にいるものだと思っていた。そう信じていた。もう少し大人になった雪子に気持ちを伝えようと考えていた。だが、今の僕は時間がない。雪子がいなくなるからだ」


 雪子はずっと黙っていた。

「私は先生が大好きです」

「それは何度も聞いた」

「私の心は先生が言ってくれた『愛する』と同じなのかわかりません。でも、先生の傍にいたい、先生がいないと淋しい、先生のことをいつも想って頼って甘えていたいです。だけど、私を東京に行かせてください。今の私は先生に相応しいような立派な女性ではありません。先生に恥ずかしくない女性になりたいのです。だから大学で学びたいのです。行かせてください。行くのを許してください」

「雪子が僕を想ってくれる心、それも愛だ。今のままの雪子でいい。僕を頼って甘えてくれればそれでいい。なぜ立派な女性になろうとするのか、今のままの可愛い雪子で十分だ。僕はそれでいいと思っている。僕の傍で大人の女性に育っていけばいい。なぜだ? どうして僕の言うことが聞けないのか!」

「イヤです。先生に嫌われたくないです、先生から愛される立派な女性になりたいのです。わかってください」


 一途に想いをぶつける幼い恋人にそう言われた秋月は、俺はお前が思っているほど立派な人間ではない、なぜわかってくれない! すれ違う気持ちに目眩がしそうだった。沖の彼方に漁船だろうか、漁火が揺れ動いている。


「わかった! どうしても行くと言うのだな」

「はい、行かせてください。手紙を書きます」

「手紙なんかいらない!」

 秋月は乱暴に雪子を引き寄せた。

 眼を見開いて驚いた雪子を力いっぱい抱きしめた。華奢な手足をバタバタさせて逃れようとする雪子を離さず、荒々しく唇を奪った。激しく熱いキスに息が出来ず、苦しいとあえいだ雪子に、

「これが大人のキスだ、忘れるな!」

 抱きしめた手を決して緩めなかった。この世が終わるかと思うほどの永い、永い2度のキスに、雪子は気を失って秋月の腕のなかに崩れ落ちた。意識が戻るまで秋月はじっと抱きしめていた。それはあまりにも哀しい男の姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る