第107話 スピーチとダンス
翌日の朝、約束通り、透は部屋に戻ってきて、律儀に森に戻ってきた事を知らせた。森はどんな言葉をかけて良いのやらわからず、ただ「おはようございます」とだけ、挨拶した。
「森先生、すみませんでした。彼女は今日の朝一で帰国するので、この後こういう事はありませんから。それにしても、参りましたよ……」
聞いて良いものやら分からずに森は黙った。しかし、尊敬する先輩である透の惚気話、聞いておくべきなのかもしれない、と覚悟を決めた。
「どうしたんですか?」
透はレイラの部屋へ連れていかれ、椅子に座らせられた。
「夏休みに透と匠が来ると言う事で、大臣たちがパーティーを開いてくれる事になったから、出来れば、短くていいから、透にはサファノバ語でスピーチをしてもらいたい。だから、まず、日本語でこの紙に内容を書いてみて。私がサファノバ語に訳すから」
「今?」
「今。次いつ会えるか分からない。テレビ通話にして発音とか、何度か練習するにしても、原稿は必要だから」
なんとか原稿を書き上げ、レイラが翻訳し、2〜3回発音し、それを動画で録音し、透も何回か発音練習した。やっと終わった、と思った透が席を立った。
「コーヒー淹れてくるけれど、飲む?」
「有難う。透、コーヒー飲んだら、今度はダンスね」
「ダンス?! 何の為に?」
「もちろん、パーティーの為。今まで踊る気がしなかったけれど、透とは踊りたいの」
「今から、練習?!」
「コーヒー飲んでからでいいから」
そこから、みっちり、透はダンスのステップを叩き込まれた。透は覚えない限り、レイラのレッスンは終わらないと覚悟を決め、集中してステップを覚えた。透は慣れてくると、軽やかにレイラを踊らせる事が出来、面白くなって来た。
「……そんなわけで、夜中までダンス三昧で……」
「そ、それは、かなりキツイですね……」
見ると、透は薄手のどこの言語か分からない本を手にしていた。森は、普通ではない惚気話に少しホッとした。
透は、かなり省略し、森に話をしていた……。
「ダンスは日本で習いに行っておくから……」
「い・や。お願いだから、練習でも他の人となんて踊らないで」
透が後ろから、宥めるように優しく抱きしめ、
「今夜は、もう休もう」
と言っても、レイラは承知しなかった。
結局、森に話したようにダンスの特訓をするしかなかった。流石に透は、一晩中踊っているつもりはなかった為、レイラが腕の中に戻って来たタイミングで、抱き上げ「もう寝る時間だよ」と囁いて、ベッドまで運び、やっとダンスを中断させることが出来た。しかし、レイラはいつになく駄々っ児のように、飛び起きようとした為、透は抱き止めて、ゆっくりと耳の後ろから首筋に唇を這わせた。レイラがまだ、ムズムズと立ち上がろうとした為、透は立ち上がって言った。
「おやすみ」
レイラの額にキスをして、出て行こうとした透の手を、レイラが掴んだ。
「……どこに行くの?」
「自分の部屋へ戻る」
「……なんだか落ち着かないだけなのに」
「レイラが落ち着かないのと同じように、久しぶりに逢ったせいか、今日は、ブレーキがかかりそうもないから、自分の部屋に戻る」
「側に、いてくれないの?」
透は熱い溜息を吐いた。
「側にいたら、今日は紳士でいられない」
レイラは健斗の視線は我慢出来なかったが、透から潤んだような視線を向けられると、それだけで、身体の奥が熱くなった。視線で撫でられたかのように、レイラは身を震わせた。身体の中を寄せては返す波が大きくなり、震えるように感情を煽っていく。
「……ブレーキかからなくていいから……来て」
朝になり、レイラが珍しく取り乱した様子で、透にしがみついて、
「帰りたくない」
と言った。「帰したくない」とレイラは口に出すものの、いつも口に出した時には諦めの要素が80%以上を占めるのだが、今朝に限っては様子が違った。
「駄目だよ。アントンから、来客があるから、絶対に朝の便に乗せるように言われているし、引き止めたら、詐欺師呼ばわりされていた誤解が解けたばかりなのに、また誤解を受けてしまう」
「じゃあ、一緒にサファノバに来て」
「生徒に付き添って来ているんだから、放り出して行くわけにはいかないよ」
透は時間ギリギリまで、レイラを宥め、後ろ髪を引かれるような思いで、隣の護衛の所へ連れて行った。暫く逢えないだけだ、と透は何度も自分に言い聞かせた。遠距離なのだから、離れるたびに辛くなるのは当たり前だと。
透の気持ちとは裏腹に、2日目からの日程は無事にスタートした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます