第101話 ご褒美

 3月に入って2週目の週末にレイラが訪ねると、透の雰囲気が、どことなく違った。透の髪は先週までは、伸び放題だったのだが、今日はきちんと日本にいた時のようにカットしてある。

 レイラがそっとハグすると、心なしか筋肉質だった頃の硬さに戻っている気がした。レイラはホッと息をついた。以前の透が戻ってきたと感じた。柔らかい透も悪くはなかったが……。とはいえ、透は早くきちんと採卵を済ませたいからと、触られるのを嫌がり、一定の距離を保っていた。本当のところは分からないが、あまり男性的な気分にならない方が、採卵がうまく行くと考えていたようで、その為に、レイラに近づき過ぎないようにしていたようだった。レイラの方でも、早く採卵が済む様に、出来るだけ協力する様にはしたが、ハグする事はやめなかった。


透はホルモン注射をやめている間は、ホルモンのバランスが崩れて、体調があまり良くなく、あまり遠くまで出かける気分になれなかったようだし、以前の酷い風邪はそのせいのようだった。体調もすぐれないから、ストレッチや運動をする気も起こらなかったようだが、あと1ヶ月半で帰国だと思い、2週間前から欠かさず、ジムに通うようにしたらしい。筋肉がついて、引き締まってきたのは「涙ぐましい努力の賜物」と透は冗談まじりに言った。


 いつもなら、お昼を食べた後、出かけるとしたら、近所で買い物をしたり、近場の美術館や博物館へ行く位だったのだが、珍しく、レイラが来た途端に、ロンドン郊外にあるオックスフォードに行こうと言う。

「せっかく、毎週来てもらっているのに、ずっと出かける事が出来なかったから、どうかと思って。急で悪いけれど、持って来た荷物をそのまま持っていけばいいよ。足りない物があれば、現地調達で」

「え? 泊まりがけなの?」

「日帰りもできるけれど、ゆっくり見て回るなら、泊まった方がいいと思って、宿も予約しておいたよ。レイラの都合が悪ければ、宿はキャンセルして日帰りにしてもいい」

よく考えてみれば、一泊とはいえ、一緒に旅行するのは初めてだった。明日の昼までに戻って来られれば夜までには、帰国できる。

「もし、疲れているなら、やめてもいいよ」

透が心配そうに、けれど耳元で囁くように聞いた。透の声が誘うように甘かった。レイラは耳まで赤くなりながら答えた。

「ちょうど、ジーンズとスニーカーで来ているから大丈夫。初めての……旅行だね」

レイラのどこかソワソワし、ふわふわした様子に、透はほっとした。レイラに喜んで欲しくて、先週から考えていたのだ。

「記念すべき、初旅行だね」

「そうだね! ハリーポッターのロケ地も行ける?」

それを聞くと、透は高校の時と同じ笑顔を見せた。

「長塚がハリーポッターのDVD持ってきて、みんなで英語の勉強と称して有志で見たの、覚えている?」

「覚えてる、覚えてる! いつかはロケ地かワーナースタジオに行ってみたいと思っていたんだ!」

「そうか、じゃあ、チケットが取れたら、来週はワーナースタジオに行こうか? スタジオの方は日帰り出来るよ」

レイラは透に抱きついた。レイラにとって、透を訪ねる事以外の、プライベートな旅行は初めてだった。つい最近まで、暗殺を恐れて、城に引き篭もっていた為、観光とは縁が無かった。

「これからは、一緒に色んな所へ行かれるね!」

 透に会いに日本まで行った事がきっかけで、世界への扉が開き始めた、とレイラは感じた。

レイラの暗殺に怯えて、城に籠っていた日常は消え、今までの自分から見れば全く非日常的だと思っていた城の外へ—公務以外で何処へでも好きな所へ—出て行く事の出来る普通の生活が手に入るのだ。


 採卵、凍結とも無事に終わり、週末に2〜3箇所ロンドン郊外の観光地を巡った後、透は日本に帰国した。透の滞在していたホテルアパートメントに、レイラが通っていた時期は2ヶ月にも満たなかったし、レイラにとって期待していたような甘々な生活では無かったとはいえ、宝石のような時間だった。

普通の人の中に紛れて、普通の人と同じように暮らす。スーパーで買い物をする事も、楽しかった。レイラにとって、それは夢のような、非日常的な時間だった。最後の2週間は、色々あった事へのご褒美のような、甘い時間を過ごした。

 透の滞在先には護衛も家令もいない為、高校生の時のように、いや、それ以上に自由を味わうことが出来た。そう考えると、透の帰国はレイラにとって、やっと完成したパズルから、ピースが抜け落ちてしまったパズルだった。しかし、その空間はじきに、埋まる筈だった。

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