第99話 初彼女と初恋

 一方、レイラは以前、透がソファで眠っていた時に、うなされていたことが気になっていた。膝の上で眠っていた時はうなされていなかった。一人で眠っているとうなされるのではないかと思った。

 毎週末だけではなく、出来ればいつも透の側にいたかった。レイラにとって、うなされている透を見ているだけで、何もしてあげられない事は辛かった。キーロヴィチに熱烈に挨拶されて倒れた事も、過去に何かあっての事ではないかと思った。あの時も、夜こっそり様子を見にいくと、うなされていた。ハンナに透の中学時代に何かあったのかを、聞いてみたいと言う気持ちがあった。ただ、元彼女本人から、聞きたくないような話が出て来たら、と不安な気持ちもあったが、聞かずにはいられなかった。


「透の中学の時の話を聞きたい。この間、知り合いがロシア式の、同性に対する熱烈な挨拶を透に無理やりした—両頬にキスをし、最後に唇にキスをした途端に、倒れたんだ。過去に何かあったのではないかと思って。もし、知っていたら、教えて欲しいのだが。一人で眠っていると、うなされるようだ」

ハンナは初めて会ったレイラを相手に、どう答えたら良いのか、測りかねていた。

「それは、透が話したがらない話で、貴女が直接、本人から聞かなければいけない話だと思う。透はインターセックスについてだって、なかなか話さなかったんだから、貴女が、私から聞いた方が早いと思う気持ちはわかるわ。でも、これから、二人は一緒にいるつもりなんでしょ? ならば、きちんと本人から聞かなければ」

「そうかもしれない……。でも、ここに一人でいる透が、毎晩うなされているのかもしれないと思うと、辛い。透が話してくれる前に、いつまた、同じ事が—倒れたりしたらと思うと、原因が知りたい」

「後で、本人から、きちんと聞くと約束してくれるなら……」

「約束する。同じ事が起こるのを未然に防ぐ為にも聞きたい。もちろん、後で本人にも聞いてみる」


「普通は、男の子は二次性徴が始まると髭が生えたり、声が低くなったり、筋肉質になったりするじゃない? 透は中学の時に、二次性徴が始まると、卵巣があった為、体が女性化してしまって酷い虐めにあっていた。生理も始まってしまったと言っていたわ。しかも、すぐに適切な処置をしてくれる病院を、見つける事ができなかったから、男性の心と体を持ちながら、どんどん体が丸みを帯びて、胸も出てきてしまって、毎日のように、言葉と暴力で虐められていたの。抵抗していたようだったけれど、そのせいで、いじめはエスカレートした上に、多勢に無勢だから、毎日心身共に傷だらけだった。それだけでも十分トラウマになるのに、多分強姦か未遂のどちらかにあったんだと思う。それが酷いトラウマになってしまっているんだと思う。身体は正直だから、うなされているのも、女性化している事から来ているかもしれないわね」

レイラはショックを受けた。今の透からは想像も出来ない事だった。そんな辛い思いを超えてまで、採卵しようとしてくれている事に、胸の奥が熱くなった。

「……無理矢理、男性に触られると、フラッシュバックが起こると言う事?」

「多分ね」

「あなたが、中学時代の透を救ってくれたから、透の今がある……」

「救うなんて、大袈裟だわ。自分がかかっていた病院を紹介しただけ」

「有難う……。では、透に護衛をつけるとしたら、女性を配置すればいいと言うことか……。それはそれで、心配だな……」

「それも、杞憂だと思うけど……。透は一途だから」

 レイラはハンナが言った言葉に、胸が痛んだ。一途に想われた事があったから言うのだろうかと、思ったからだ。過去であっても自分以外の女性に、透が思いを寄せていた、と思うと切なくなった。初恋と初彼女では、透の心にとってどちらがより、大きいだろう。透は口に出さないが、実は初恋も、もしかしたら、自分ではなくハンナだったのではないか、とレイラは思った。

「そんな顔をしないで。透にとって、私は姉のような存在。私はたまたま、同じインターセックスだから、放っておけなくて庇っただけ。貴女ほど愛されている人はいないから。透は一度もやめた事のない注射を、貴女の為にやめて、採卵までしているのよ。透は男性としてのアイデンティティを確立しているから、採卵する事も、注射を止めて女性化する事も、相当抵抗があった筈だわ。採卵は、彼にとって大変勇気のいる事だと思う。それを決心させるくらい、透はアイデンティティをひっくり返してまでも、貴女の希望を叶えようとしている位、貴女のことを想っている」

「わかっている……」

いま、想われているのはわかる。でも、過去は変えられない。

「いえ、わかっていない。それが、どんなに覚悟のいる事か、貴女にはわからないと思う。自分は男性なのに毎日、吐き気がするほど嫌で仕方ないのに、無理矢理24時間、何ヶ月も女装させられている気分、て言えばわかるかしら? しかも過去には、そのせいで散々嫌な目に遭っているにも関わらずよ。それを我慢してまでやっているのは、全て、貴女の為なのよ?」


クローゼットの中のスカート、女性用の下着。レイラが思いつきで口にした採卵を、透は自分のアイデンティティを押し殺してまで、実行している。それは、レイラが「レイ」として学校に通った事とは全く違う。分かっていても、改めて人から指摘されると、とんでもない事をさせているような気分になり、自己嫌悪の為、レイラは項垂れてしまった。

「貴女は過去に結婚していて、子供もいた。透は何も言わないと思うけれど、気にしていたんじゃないかしら? 自分には子供ができないから、悩んで私を訪ねて来たくらいだし……」

レイラはハッとした。匠はアレクセイの子供だ。それに気づいてから、複雑な気分だったに違いない。それでも、透は匠を甥として、見守り続けている。匠の気持ちを思って、アントンや自分の目から隠そうとさえした。過去に囚われないようにしているのだろう。レイラには透は常に、前を向こうとしている様に見えた。

「過去よりも今が大事。そう思わない?」

レイラは頷いた。ハンナがレイラの手を取って言った。

「透を受け入れてくれて、有難う。透は、あなたのお陰で、やっと、自分の事を受け入れたのではないかしら。クリスマスの時、あんなに元気がなかった透が、今は、とても幸せそうに見えるもの。あなたが透を受け入れている限り、何も心配する事はないわ」


 その夜、レイラはベッドの上にある物を見つけた。

「透? 今夜は武術の練習でもするの? 武器を使わせたら、私の方が有利だと思うけど」

ベッドの真ん中に陣地を仕切る様に、角材が置いてある。

「レイラ、違うんだ。この角材よりこちら側には入って来ないようにという目印だよ」

「どう言う事?」

「女性化が進んできているから、あまり触れてほしくない。角材で怪我しそうであれば……タオルで包むか、私はソファで眠るから」

(そんな……別々に眠ると、透はうなされるのに)

「酷い……」

レイラが俯いてしまったのを見て、透は諦めて角材をしまい込んだ。透は最近、自分の気持ちより、レイラの気持ちを優先したいと思ってしまう自分に気づいた。透が壁の方を向いて眠ろうとすると、レイラが囁いた。

「お願い、ハグして」

透が仕方なくベッドの真ん中を向いて横になると、レイラが透の腕の中にするりと入って来た。なるべくレイラに触れないように、少し身体を離す。しかし、レイラは遠慮なく、透の胸にピッタリと頭をくっつけてきた。

(前は筋肉質だったのに、胸が柔らかくなったようだ。本当に女性化してきているんだ……でも、ちょっと肉がついた人なら、こんなものかも)

そう思いながら、初めて見た時ほどショックはなく、レイラは透の心臓の鼓動を聞いているうちに、安心して眠ってしまった。

 透の方はなかなか寝付けなかったのは言うまでもない。

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