第98話 針と日本刀
土曜のお昼過ぎ、チャイムが鳴った。透がドアを開けた途端に、ハンナがハグしてきた。
「元気そうじゃない。病院はどう?」
「有難う、なかなか感じのいい病院だね」
透は背中に刺すような視線を感じた為、慌ててハンナを離した。
「アレクシスとエミリーを連れてきたわ」
「やぁ、透、元気だった?」
「ちょっと、片付けるから待っていてもらえるかな?」
怪訝そうな顔の二人を残して、透はレイラのいるダイニングへ戻った。
「透? 私には採卵のことは内緒にしておいて、ハンナには教えていたの?」
「違うよ。ハンナに、インターセックスの人を採卵してくれた事のある病院を紹介してもらったんだ。前に言った通り、レイラにだけは、見られたくなかったから黙っていた」
「ハンナは、透の元彼女って匠が言っていたけど……」
レイラは見るからに機嫌が悪い。
「中学生の時だよ? それに、中学の時にハンナに病院を教えてもらっていなければ、もしかしたら、私は中途半端な外形で生きる事になっていたかもしれなかったか、壊れていた。彼女は恩人なんだ。誤解しないでほしい」
透は跪いて、レイラの手の甲にキスをした。行動で見せるしかない。
「生涯、愛すると誓う」
透の行動が意外だったのか、レイらは額に口づけをし、吐息を漏らした。
「許す。透が壊れてしまっていたら……と思うと、確かにハンナは恩人だね。それに、やっと、誓ってくれて嬉しい」
「私が今愛しているのはレイラだ。他の誰でもない。分かって欲しい」
レイラは、久しぶりにきつく抱きしめられた。透の体が、先々週よりも、だいぶ柔らかくなっている気がした。それでも、嬉しい事には変わりなかった。
「来てくれて有難う。紹介するよ、婚約者のレイラ。ハンナとアレクシスと、エミリー」
透は振り向いて、レイラに声を掛けた。ハンナとアレクシスは慌てて、ひそひそ声で、透に聞いた。
「……もしかして、“彼女”が来ていたの? 来てはまずかった?」
「そんなことないよ。いつでもウエルカムだよ」
出て来たレイラに向かってハンナはカーテシー、アレクシスはボウ・アンド・スクレープをした。顔を上げたハンナは赤くなって、透にこっそり言った。
「物凄い美女じゃない……」
「プライベートで来ているので、お辞儀も不要だし、レイラ、と呼んで下さい」
レイラはそう告げると、アレクシスが押していたベビーカーの中から、エミリーを抱き上げた。
「可愛い!」
アレクシスは大いに慌てた。アレクシスにとって、レイラは暗殺者集団のトップ。その人が、自分の可愛い娘を手にしている。エミリーは恐れげなくレイラの顔をペタペタ触って、美しい髪を引っ張ったりしている。この人物の機嫌を損ねたら、最愛の娘はどうなるのだろう、とアレクシスは不安に駆られた。
「あ、あの、娘が失礼な事をしてしまう前に、返していただけないでしょうか?」
アレクシスのオロオロする表情を見て、透は吹き出した。透は誤解していた。アレクシスがオロオロするのは、レイラの「女王」という肩書きに対してだと思っていたのだ。
「大丈夫だよ。レイラはそんなに堅苦しい人じゃないから。ドアの外に立っていないで、中に入ってよ。ちょうどお茶にしようと思っていたところだったから」
レイラはアレクシスの態度と言葉の中から、自分に対する恐怖を感じ取った。透は日本人で、ハンナはアメリカ人だから、サファノバの過去の歴史をよくは知らないだろうが、アレクシスは知って、怯えている。レイラはアレクシスを脅かさないように、そっとエミリーをハンナに返した。
何もしていないにも関わらず、「サファノバ国」という国名だけで、怯えてしまう人達が未だにいるのだ。自分たちは殺人鬼でも、もう暗殺者集団でもないのに。透の友人でなければ、席を立ってしまいたいところだが、そうもいかない。国の過去の歴史は、今も重い。匠が他国の人から後ろ指を刺されないようにする為にも、自分の代でこの悪いイメージを払拭したいと、レイラは切実に思った。
レイラは英語も堪能だったため、四人は英語で会話した。ただ、いつも自信満々のレイラが微かに、他の人から見たら分からないくらい微かに、表情を曇らせている事に、透は気づいた。初めて会ったハンナとアレクシスから見れば、分からないくらい微かに。ティーカップ四脚の乗ったテーブルの下で、レイラは透の手を探し当てた。透は、触れてきたレイラの手をそっと握り返した。
「透が寂しがっていると思って来たけれど、逆にお邪魔だったみたいね」
透は見られていた事に気づき、机の下で繋いでいた手を解いた。
「そんな事、ないよ。来てくれて嬉しいよ」
暫くして、レイラがハンナと二人で話したいと、言出だしたのを聞いて、透とアレクシスは顔を見合わせた。ハンナが応じた為、二人を残して、透とアレクシスは散歩に出る事にした。透が外に出ようとすると、レイラが走って来た。
「どうかした?」
透が問うと、レイラが透の首にふわりとマフラーを巻いた。
「外、寒いから」
「有難う」
ハンナが姉か母親のように微笑ましげに、自分たちを見ているのに気づいた透は赤くなった。
「これも持っていった方がいい」
レイラから傘を渡された。確かにイギリスの冬は雨が多いが、イギリス人はあまり傘をささない。
「短時間だし、雨は降らないんじゃない?」
「傘は持っていてもおかしくないし、何かあった時に身を守れるから」
アレクシスはそれを聞いて、青くなった。レイラたちが家に入ってから、アレクシスはこっそり、透に念押しした。
「彼女は、ハンナに危害を加える事なんて、絶対ないよな?」
「危害を加えるなんて、あり得ないよ。彼女は今まで、命を狙われて来ているから、手ぶらよりは何か持っていた方が安心だと、考えてしまうんだよ。アレクシスはそんなに、レイラが恐ろしく見えるのか? シヴァ神の妻のように見える?」
「シヴァ神の妻は知らないけれど、透は恐ろしくないのか?」
「自分の彼女が怖い筈ないじゃないか。ハンナだって怒ったら、怖いだろ? 私にとって、レイラは誰よりも勇気があって、その上、この上なく可愛いと思うけど……。」
「ハンナだって、確かに怒ると怖いけど、怖さが違う。例えて言うなら、ハンナの怖さが針だとしたら、透の彼女の怖さは日本刀だ。あの美女が透には可愛く見えるのか……。ご馳走様……」
二人はベビーカーを押しながら、それぞれの思いを抱え、黙々と歩いた。2羽のペンギンみたいに。
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